2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」の放映もあり、徳川家康への関心が高まっています。家康は「寡黙の苦労人」「腹黒い狸親父」というイメージがありますが、その実像は近年の研究により、大きく変わってきています。
家康にまつわる様々な「誤解」を徹底的に検証し真実を解き明かした『誤解だらけの徳川家康』から一部を試し読みとしてお届けします。
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堀の埋め立ては豊臣方も了解済みだった
両軍は和睦し、豊臣方は大坂城の惣構・堀を埋め立てる条件を実行することになった。惣構とは、城を中心とした城下町を囲い込んだ堀、および堀の城側に土を盛り上げて造成した土居(どい)などを含めた防御施設全体のことを意味する。結果として、豊臣方は惣構・堀を埋め立てたので、慶長二十年(一六一五)の大坂夏の陣で滅亡に追い込まれた。
徳川方による大坂城の惣構などの埋め立てについては、通説では次のように理解されてきた。
当初、徳川方は外堀のみを埋め立てる約束で作業を進めたが、無断で内堀の二の丸、三の丸の埋め立てを行った。これに驚いた豊臣方は、淀殿をはじめ大野治長、織田有楽が「和睦の条件になかったことだ」と抗議した。最初の約束では、豊臣方が二の丸、三の丸の埋め立てを行う約束になっていたからだ。豊臣方が怒るのも頷ける。
以上の逸話に基づき、大坂城の惣構・堀の埋め立ては、総じて徳川方の謀略によるものという説が主流になった。徳川家康は人が好さそうに見えるが、実は大変腹黒い人物(狸親父(たぬきおやじ))といわれた所以である。そう評価された理由は、惣構・堀の件で約束を破り、強引な手法で豊臣方を追い詰めたことも影響している。
『三河物語』には、徳川方が惣構を埋め立てたあと、豊臣方が抗議した件について、「徳川方が大坂城の二の丸に入って塀や櫓を崩し、まっ平らに埋め立てたところ、秀頼や牢人たちは惣構だけと言っているのに、二の丸までこうなるとは非常に困ったことだと抗議した。そこで、徳川方は『もともと惣構と言うではないか』と、惣構を二の丸などを含んだすべてと勝手に解釈して回答した」と記している。
徳川方は右の論法で、大坂城の惣構などの埋め立てを強行した。家康の巧みな作戦をうかがい知る逸話であるが、逆に豊臣方はすっかり家康の術中にはまったといえよう。はたして、徳川方が強引に埋め立てたとの説は正しいのだろうか。
徳川方の大坂城の惣構・堀の埋め立てに関しては、最新の研究が良質な史料を用いて、従来説の批判をした(笠谷:二〇〇七)。以下、改めて惣構・堀の埋め立て問題を考えることにしよう。
先述した惣構・堀の埋め立てについて、復習しておこう。
『大坂陣日記』には「本丸を残して二の丸、三の丸を埋め立てる」とあり、『本光国師日記』には「惣構の堀、二の丸(三の丸はない)を埋めて本丸だけにする」と記されている。ともに大坂城の本丸を残して、残りを埋め立てる点では一致している。大坂城の外堀・内堀が埋め立てられ、本丸を残して丸裸になるのは、豊臣方も了解済みだったと考えてよい。
徳川方は、最初から堅牢な惣構、二の丸、三の丸の破却が狙いだった。豊臣方は、その意図を知ってか知らずか了解した。細川忠利(ただとし)の書状には、「大坂城は二の丸、三の丸、惣構を破壊して本丸だけにし、本丸には秀頼様が残る。惣構は、徳川方が人夫を出して破却する予定である。二の丸、三の丸は、大坂方から人夫を出して取り壊し、堀などをやがて埋めることになっている」と書かれている(『綿考輯録(めんこうしゆうろく)』)。
細川忠興の書状からも、惣構の破壊は徳川方の担当、二の丸、三の丸の破壊は大坂方の担当だったことが判明する。浅野忠吉(ただよし)の書状にも「二の丸、三の丸、惣構まで、ことごとく破壊するとのことである」と書かれている。忠吉の書状には分担が記されていないが、この三つが破却の対象であったのは間違いない。
惣構などの埋め立てが「家康の謀略」であるという通説は、誤った認識であると言わざるを得ない。最新の研究によると、その後、徳川方と豊臣方との間でトラブルがあったことは一次史料では確認できない。家康は「狸親父」とあだ名されてきたが、それは正しくないようだ。家康の人物像は非常に歪められているのが明らかで、従来の家康観を改める必要があろう。
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誤解だらけの徳川家康
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