2012年の森美術館個展での撤去抗議はじめ、これまでさまざまに波紋を呼んできた、会田誠さん23歳のときの作品『犬』。その制作意図を作者本人が詳らかにした『性と芸術』が7月21日発売になりました。自作を解説することを悪趣味と認識しながらも、会田さんはなぜ30年前の作品を今語るのか? 社会学者で東京藝術大学教授の毛利嘉孝さんにご寄稿いただきました。
芸術だからすべて許されるわけではない
一般的に言って芸術作品は、一度発表されてしまえば作者の手を離れて鑑賞者にその解釈は委ねられている。そもそも、作品は作者のコンセプトをそのまま表現しているとは限らない。逆に作品の背後にあるコンセプトを伝えることだけが目的なのであれば、作品など作らずにコンセプトをそのまま示せばいいだけではないか。芸術作品を作品たらしめるのは、結局のところ作家が意図しない何か過剰なものを奇跡的に示すからだろう。そして、その中で古典が古典となるのは、時代の変化に対応して新しい意味と読まれ方を生産し続けるからではないだろうか――。
もちろん、会田誠はそんなことは百も承知だ。会田は、この本の冒頭で自分の作品の解説をすることを「悪趣味」であるとし、この解説を「ほぼ『遺書』」であるとまで言っている。そのことを承知した上で、あえて会田誠は彼の作品の中でも最も頻繁に取り上げられ、批判にさらされてきた『犬』が、なぜ描かれたのかを自ら明らかにしようとするのである。これをどのように理解すればいいのか。これまでの批判に対する弁明なのか、言い訳なのか、あるいは何かの回答なのか。
確かに会田自身が冒頭に述べているとおり、この本が書かれた直接的な「理由は主にネット」であり、そこで書かれた批判――というか「悪口」――に対して反論することにある。
もちろん、『犬』に対する批判にはきちんと検討し、対応すべきものも含まれている。たとえば2012年に森美術館で開催された「天才でごめんなさい」に展示された『犬』のシリーズに対して起こった抗議運動は、美術業界だけではなく市民団体や美術以外の研究者も巻き込み大きな議論を生んだ。『犬』の表現に見ることができる「性差別」的な「性暴力」表現に対する批判と芸術における「表現の自由」をめぐる議論は、今なお継続すべき論点を含んでいる。『性と芸術』は、第一にこうした議論に対する会田誠なりの真摯な回答だろう。
念のために断っておけば、私自身は芸術の名の下に全ての「表現の自由」は保証されるべきだなどという粗雑な主張をするつもりはない。この作品を見てショックを受ける人が一定程度いることも想像できる。作品の公開に対しては最大の配慮がなされるべきだし、(国家権力の介入を注意深く防ぎながらも)一定の規制とゾーニングは必要だろう。『犬』がどこからも批判を受けずに、芸術だからという理由だけで受容され、自由に展示がされるようになるとしたら、それこそ不健全な社会だと思う。
しかし、その一方で、『犬』が繰り返し批判されているように単に「性差別」的で「性暴力」的な欲望を示した単なる「ポルノ」に過ぎないとも思わない。会田自身「『犬』は「ちょうど自分と性的な趣味の合う人を探して、彼らに愛してもらいたいがために描いたイラスト♡」などではないと書いている。『犬』の問題が全て表現の「自由」と「規制」をめぐる問題に還元されるとすれば、それはこの作品の別の重要な側面を見失っている。
会田誠は、「この絵自体がマルチな方向に向けられた『抗議』である」と言う。この抗議の矛先はいったいどこに向けられているのだろうか。表現の「自由」と「規制」の議論の喧騒の中で消されてしまった『抗議』のマルチな方向はどちらを向いているのだろうか。
しばしば忘れがちなのだが、この『犬』が最初に描かれたのは、会田が23歳、東京藝術大学修士課程在学中であり、デビュー前の1989年である。もう30年以上前の作品なのだ。
デビュー前の会田が発散する毒はあらゆるものをターゲットにしていた。『犬』はその結節点である。
目の前のターゲットは、自分が属している藝大の油画科、そして日本における西洋美術史、現代美術である。これらは会田にとって単なる西洋美術の気取った追従にしか見えなかった。『犬』の日本画という様式は、「西洋からの所詮借り物」の西洋絵画に対する批判として選び取られたものだ。
けれども、会田は日本画の現状にも満足しているわけではなかった。制度化された日本画の現状は、同時代性を失った退屈なものだった。『犬』は様式としては日本画を借用しつつ、23歳の会田を取り巻く現実を反映させる必要があったのである。
『犬』に見られるエログロのイメージは芸術の領域ではスキャンダラスかもしれないが、アンダーグランドなサブカルチャーでは、この時期もはや凡庸に感じられるほどにありきたりなものになっていた。四肢を関節から切断され家畜化された人間というイメージも、永井豪の『バイオレンスジャック』の「人犬」を持ち出すまでもなく、歴史的に繰り返し用いられてきたものだ。それ以上にアダルトビデオやゲーム、あるいは現実の世界で起こっている猟奇的な事件がもはや芸術的な想像力を遥かに凌駕する状況を迎えつつあった。『犬』という作品は、こうした現実を伝統的な様式の中に映し出そうとしたものだったのだ。
『犬』という作品は、油画であれ日本画であれ、制度化と権威化のために形骸しつつあった「日本美術」に対する異議申し立てだったのである。
会田誠の批判の矛先は、日本美術にとどまらない。それはまた西洋美術そのものに対して向けられている。西洋美術史においても、「性」をめぐる黒い欲望は注意深く隠蔽されているが、実際には「性」をめぐる黒い欲望はその創造と革新の中心をなしていたのではないか。そう主張して、会田は、服を脱ぎ捨てた裸婦が紳士たちと森の中で食事を取っているマネの『草上の昼食』の「直系の孫」として『犬』を美術史に位置付けようとする。その議論は一見不遜に聞こえるかもしれないが、十分に説得力があり、鋭い。
とはいえ、これで会田誠が自らをマネやルノアールやピカソといったエロスを扱った巨匠の末裔として位置付けようとしているわけでもない。会田の誠実さは、現代社会の中では近代芸術を作り上げてきた巨匠、天才がもはや不可能であることを、いくぶんの憧憬を残しつつも認めようとするところにある。
『性と芸術』にはいろいろと興味深い告白がある。中でも面白かったのは森美術館の個展タイトル「天才でごめんなさい」の本人による解説である。これは一般に会田誠が本気か冗談かわからないが「天才」を自称するビミョーなギャグとして理解されているが――私もそう思っていた――、会田によれば「近代以降の芸術家の芸術家像の呪縛から、結局は解放されなかった、失敗しました。ごめんなさい」という意味だったらしい。「確信的な誤解作り」と本人は書いているが、その意味では成功しているのかもしれない。
『性と芸術』という書籍は、『犬』という会田誠の23歳の時の作品の解説として書かれているが、これは単なる解説ではなく、視覚言語からなる『犬』という作品を一旦解体して、テキストとして「再制作」した自律した作品『犬:2022年版』として読まれるべきなのかもしれない。『性と芸術』はユーモラスで興味深いエピソードに溢れている。『犬』で描かれているのは、犬にされた少女ではなく少女にされた犬なのだ、というアクロバットな読解など、ここでは紹介しきれなかったが、はっとさせられる議論も多い。
会田誠のファンには必読の書だ。けれども、同時にむしろ批判的な人に(批判するためでもいいので)ぜひ手にとって読んでほしいと思う。
性と芸術
日本の現代美術史上、最大の問題作、「犬」は、なぜ描かれたのか? 7月21日発売『性と芸術』(会田誠著)について