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冬の狩人

2022.09.07 公開 ポスト

#3 即刻ばれた尾行。新宿のマル暴刑事VS地方の新米刑事大沢在昌(作家)

大沢在昌さんの『冬の狩人』ノベルス版の刊行を記念し、試し読みを全5回でお届けします。

新宿署のマル暴・佐江を描く、累計230万部を超える大ヒット「狩人」シリーズの最新作。

本作では刑事を休職中だった佐江が3年前にH県で起きた未解決事件について、ある依頼をうけるところから物語が始まります。

一本のメールが新宿の一匹狼を戦場に引き戻す――。是非お楽しみください!

第1回から読む

*   *   *

まただ。コーヒーショップのスタンドに並んだ佐江は舌打ちした。目の前のガラスケースに、自分と店の外に立つ若い男の姿が映りこんでいる。

入院生活とアメリカでのまずい飯のせいで、いくぶん痩せはしたが、腹はあいかわらずつきでていて、この一ヵ月のばしたヒゲに交じった白髪のおかげで佐江はひどく年寄りに見える気がする。

それでもヒゲを剃らないのは、もう刑事ではない、と鏡を見るたびに自分に得心させるためだ。

なのに、本庁の監察かどこか知らないが、この二、三日、ずっと自分の行動確認(こうかく)をしている奴がいる。またそいつの尾行がからっぺたときていて、いらつくほどだ。

辞表はとっくに組対課長に提出した。受理されるのは時間の問題だ、と佐江は思っていた。

確かに自分は、警視総監が末代まで秘密にしておきたい“不祥事”を知ってしまった。が、それを公表する気はさらさらないし、自分もまた、殺人犯を逃走させている。見逃したのではない、逃がしたのだ。「消えろ」といって。撃たれ、激しく出血はしていたが、頭の中は冷静だった。

だからこそ、処分は覚悟していた。

アメリカに研修に送られた理由はわかる。事件について嗅ぎ回る記者どもから離しておくためだ。だからほとぼりがさめた今、自分がクビにならないことが不思議だった。

休職という宙ぶらりんな状態におかれ、職捜しもできずにいる。上の連中は、警察を追いだされた俺が、よほど悪い真似をするとでも恐れているのか。

高円寺のアパートにこもっていても、くさくさするので、外にでる。気づくと新宿にいる。新宿が好きなわけではない。それどころか新宿には、佐江が警察官でなくなったと知れば、これまでの恨みを晴らしてやろうと、手ぐすねひく極道どもがたっぷりいる。

紙コップのコーヒーを手に店をでると、あわてて看板の陰に隠れる若造の姿が見えた。

まだ三十そこそこだろう。紺のスーツに白シャツとネクタイといういでたちは、昼間の歌舞伎町ではむしろ目立つ。

「おい」

佐江は声をかけた。若造が固まった。

「お前だ。どこで尾行のやりかた習ったんだ? この下手クソが」

「わ、私ですか」

若造は瞬きした。佐江はその顔をにらみつけた。どこといって特徴のない顔だちだが、垂れた目尻がいかにもお人好しを思わせる。刑事らしくない顔だ。

いや、刑事に見えないから、むしろ向いている顔というべきだろうか。

「私ですかじゃねえ。お前、いったいどこの者だ?」

いいながら、佐江はあたりを見回した。この若造ひとりということはない筈だ。最低でも、もうひとり。これが本気の行動確認(こうかく)なら、尾行に五、六人はつっこむ。

向かいのビルの入口に立つ男が、目を合わせまいと顔をそむけた。この若造とたいして年はちがわない。

妙だ、と佐江は思った。監察なら、若造二人が組んでくることはありえない。

佐江は若造の首に紙コップをもった腕を回し、その体を引き寄せた。

「ちょっと話そうや」

「やめて下さい」

若造はあらがった。佐江は腕に力をこめた。

「く、苦しい」

「やかましい」

佐江は若造のスーツをもう一方の手で探った。身分証のバッジケースを胸ポケットからひっぱりだす。

「ちょっと、何を──」

若造の体をつきとばし、佐江はケースを開いた。

「何だあ。H県警って、どういうことだ」

若造の所属は、県警刑事部捜査一課となっている。川村芳樹巡査。

「返して下さい。返せ!」

若造の声が真剣になり、佐江はバッジケースをその胸に押しつけた。

「なんで俺をつけ回す」

「ご、誤解だ。あんたのことなんか知らない」

「ふざけるな。この何日間か、しかも同じそのスーツで俺をつけ回してたことはわかってる。高円寺の俺のアパートもその格好で張りこんでいただろうが」

川村の顔はまっ赤になった。

「こい!」

佐江は川村のネクタイをつかんだ。

「いや、待って下さい」

「うるさい。こいといったらこい!」

佐江は川村をコーヒーショップの裏の路地に連れこんだ。

路地の奥まで進んだ佐江はうしろをふりかえった。あとを追ってきた川村の相棒があわてて身を隠す。

雑居ビルの非常階段がある。夜は酔っぱらいの定位置で、寝こんだり胃の中身をぶちまけたりしている。昔はよく、ガキがカツアゲに使っていた。

佐江はそこに川村をひっぱりこんだ。

「H県に知り合いなんかいないぞ。何の用だ」

「だから誤解だといってるじゃないですか。あなたのことなんか知りません」

「おい、お前、ナメてるのか」

佐江は川村の目をのぞきこんだ。川村の目にとまどいが浮かんだ。

「俺を誰だかわかってつけ回してたのだろうが、え?」

川村は目を伏せた。額に汗がにじんでいる。

「答えろよ」

佐江は川村の額を指先で小突いた。

「やめて下さい」

「尾行が下手なのはしょうがねえな。こんな人の多い場所でやったことなんてないから、見失いたくなくて、ぴったり張りついてたってわけだ」

川村は無言だ。

「どうする?」

「え?」

川村は目をみはった。

「どうするって訊いてんだよ。ここでずっと絞られたいか。それとも、歌舞伎町を見学するか?」

「け、見学って」

佐江はにやりと笑った。

「お前、ここがどんなところだかわかってるか。お前の地元とはまるでちがう。歌舞伎町に組の事務所がいくつあると思う。十や二十じゃないぞ。ざっと百はある。何丁目だの何番地だのが縄張りと決まってるわけじゃない。同じビルでも、店の一軒一軒でちがうんだよ。ちょうどいい。すぐそこに高河連合をとびでた組の事務所がある。のぞかせてもらうか。大丈夫だ。この辺の極道は、皆、俺のツラを知ってる。仲よくしたがっちゃいないが、俺のことを知りたいなら、喜んで教えてくれる」

佐江は路地のつきあたりを指さした。一見、廃墟のようだが、実際は使われているビルだった。所有者は高河連合元組員の妻で、焼肉店の女将だ。死んだその父親も組員だ。

川村は佐江の腕をふり払った。

「そんなことは知ってます。俺は東京に住んでいましたから」

語気を荒らげた。

「なるほど。そこまで田舎者じゃないといいたいわけか」

答えて、佐江は頭上を仰いだ。ビルの外壁からつきでた監視カメラが見おろしていた。

佐江は中指を立ててみせた。

「とにかく、いいがかりはやめて下さい。迷惑です」

川村がいったので佐江は笑いだした。

「おいおい、迷惑って何だ。お前、刑事だろう。こんな真似されて、迷惑です、ですますのか。パクれよ。傷害未遂の現行犯逮捕(げんたい)なら、いけるだろう?」

川村はくやしげな表情になった。

「どうした? パクれない理由があるのか。あるならいってみろ」

そのとき不意に、つきあたりのビルの入口におりていたシャッターがあがった。スポーツウエアを着た男四人が姿を現す。

「何だあ、お前ら。ひとん家(ち)の下で何やってんだ、こら」

ひとりが巻き舌ですごんだ。まだ二十歳をでたかどうかという小僧だ。

「おい、お前。そこのカメラにナメたことしたろう。お前だ、おっさん!」

頭を剃りあげた、さして年のかわらない別の男が佐江をにらみつける。

佐江は川村を見た。

「どうする?」

「どうするって……」

川村は困ったようにいったが、その顔に恐怖は浮かんでいない。

「聞いてんのか、この野郎」

スキンヘッドが佐江の顔をのぞきこんだ。

「うるさいな、お前」

淡々と佐江がいうと、目が吊りあがった。

「ぶっ殺すぞ、この野郎!」

「ほう」

佐江はいって、スキンヘッドと向かいあった。

「やれるか?」

「何だとぉ」

離れてなりゆきを見ていた、少し年かさの男が、あっと叫んだ。

「ちょっと待て、お前」

「何すか」

スキンヘッドはふりかえった。

「ヒゲ、のばしたんですか」

年かさの男は恐る恐るといった口調で佐江に訊ねた。佐江は顔の下半分をおおったヒゲに触れた。

「なるほど。威勢のいいガキだと感心してたが、これのせいか」

「何いってんだ、おっさん。事務所こいや、おらあ」

スキンヘッドがいって佐江の腕をつかんだ。

「やめとけ!」

年かさの男がいったが遅かった。腕をつかまれた瞬間を逃さず、佐江はスキンヘッドの右手首の関節を逆にひねりあげた。

「おっと。やっちまったな」

「申しわけありません!」

年かさの男が叫んだ。

「気がつかなかったんです。佐江さんとわかってたら、こんなことしません」

「佐江……」

「嘘だろ……」

男たちはいっせいに後退った。スキンヘッドは佐江の顔をのぞきこんだ。

「いてて……。あっ、本当だっ」

スキンヘッドの腕を佐江は放した。年かさの男に向き直る。

「俺とわかってたらしないといったな。つまり俺じゃなければ、やったってことだ」

「そんなつもりじゃないす。見逃して下さい! 宿直が退屈だったんで、外の空気を吸おうと思っただけなんです」

「ほう。外の空気を吸うついでに、そこにいたオヤジをちょいと締めたわけか。たまたまその相手が俺だった、と」

「本当に許して下さい。佐江さんにちょっかいだしたなんてわかったら、俺ら全員、カシラにどやされます」

年かさの男は腰を九十度に折った。

「いい時代だな、おう。どやされてすむ。昔なら指(エンコ)が飛んだ。今は指もも、刺青(ガマン)はやらない。見るからにやくざってのは、格好悪いらしいからな」

「勘弁して下さい!」

スキンヘッドがいきなり土下座した。

「おいおい、さっきの威勢はどうしたよ」

川村は目を丸くしている。

「そこっ、何してる?!」

叫び声とあわただしい足音が響いた。制服の警察官四人が路地に走りこんできたのだ。歌舞伎町交番の巡査たちだ。そのうしろには、逃げた川村の相棒がいた。

佐江はあっけにとられた。

「おい、お前の相棒、一一〇番したのか」

「あれ、佐江さんじゃないですか。どうしたんです?」

ヒゲ面でも新宿署員にはさすがにわかるのか、先頭の巡査が訊ねた。

「何でもない、気にすんな」

佐江は手をふった。川村は制服警察官とその背後にいる相棒を見やり、唇をかんでいる。

「大丈夫か、川村」

その相棒が話しかけた。

「大丈夫ですよ、もちろん!」

川村が大声で答えた。よけいなことをするなといわんばかりだ。

佐江は首をふり、相棒を見すえた。

「お前もH県警か」

「な、何の話ですか」

相棒は動揺したようにいった。

「H県警?」

制服が驚いたようにふりかえった。

「そうだよ、それも捜一らしいぞ」

「えっ」

「こいつら、この何日か、ずっと俺のことをつけ回してんだ」

「佐江さん、H県で何かしたんですか」

制服が訊ねたので、

「馬鹿野郎、いったこともねえよ」

佐江は首をふった。

「あの……」

足もとで小声がした。土下座したスキンヘッドだった。

「いいすか、もう」

「おう、忘れてた。消えろ」

佐江はいった。スキンヘッドははねあがるように立った。

「申しわけありませんでした」

「お手間かけましたあ」

口々に叫んで、シャッターの奥へと駆けこんでいく。シャッターはすぐに閉まった。

「何やったんです」

それを見送り、驚いたようすもなく制服が訊いた。

「俺とこの若いのが話していたら、ひとん家(ち)の下で何やってるってきやがった」

「話していただけで?」

「カメラにこうした」

佐江が中指を立てると、制服はあきれたように首をふった。

「無茶な人だな」

川村の相棒が上着から携帯をひっぱりだした。耳にあて、応える。

「石井です」

「あれも捜一か?」

佐江は川村に小声で訊ねた。川村は無言で頷いた。

「いや、それがですね、川村が見つかって……」

石井を名乗った、川村の相棒の声が低くなった。携帯を掌でおおい、小声で話している。どうやら上司からの電話のようだ。

「どうします? 交番か署にいきますか?」

制服が訊ねたので、佐江は首をふった。

地上四階地下一階という、小さな警察署並みの規模の交番が歌舞伎町にはある。ことが大きくなったら、困るのは二人だ。

若い刑事の経歴に傷をつけたくなかった。

「お前がわけを話してくれればいいんだ」

佐江はいって川村を見た。川村は無言で唇をかんだ。

「川村、課長だ」

電話で話していた石井が携帯をかざした。

「いいですか」

川村は佐江に断り、石井に歩みよると携帯を受けとった。

「川村です。いや、別に、何もありません。大丈夫です」

「いいぞ、戻って」

佐江は制服に手をふった。

「でも……」

「あのう」

川村が携帯をおろし、佐江を見やった。

「うちの課長が、佐江さんにお話をしに、新宿署にくるそうです」

「新宿に?」

佐江は驚いた。

「はい」

「ちょっと待て。俺は──」

「休職中でしょう」

川村がいった。

「それは──」

上が勝手に決めたことだといいかけ、佐江は黙った。そんな話をここでしても始まらない。

「県警の刑事部長を通して、新宿署さんには話をするそうです」

川村がいった。

「何だかおおごとになってませんか」

制服が佐江を見つめた。

(つづく)

大沢在昌『冬の狩人』

3年前にH県で発生した未解決殺人事件、「冬湖楼事件」。行方不明だった重要参考人からH県警にメールが届く。新宿署の刑事・佐江の護衛があれば、出頭するというのだ。だが県警の調べで、佐江は辞表を提出していることが判明。そんな所轄違いの刑事を“重参"はなぜ指名したのか?

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大沢在昌 作家

1956年、愛知県名古屋市生まれ。79年『感傷の街角』で小説推理新人賞を受賞しデビュー。91年に『新宿鮫』で吉川英治文学新人賞と日本推理作家協会賞長編部門を受賞。94年『無間人形 新宿鮫IV』で直木賞、2014年に『海と月の迷路』で吉川英治文学賞を受賞する。その他に『北の狩人』『砂の狩人』『黒の狩人』『雨の狩人』『漂砂の塔』『帰去来』『暗約領域 新宿鮫Ⅺ』など著書多数。(著者近影:塔下智士)

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