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見つけたいのは、光。

2022.09.25 公開 ポスト

#3 子どもは可愛くてたまらないが、別問題として産後の不調が重くのしかかる。飛鳥井千砂

『本の雑誌』『日経新聞』『週刊文春』『西日本新聞』など、発売直後から各紙誌で話題沸騰の飛鳥井千砂さん5年ぶりの新刊『見つけたいのは、光。』から一部公開!

(写真:iStock.com/kazuma seki)

急激に煩わしさを感じて、ベッドの上で正座した。部屋着のトレーナーの背中に両手を突っ込み、ブラジャーのホックを外す。両腕を抜き、下から引っ張り出して、ベッドの下に放り投げる。再びトレーナーに両手を、今度は前から入れて、乳房を乱暴に搔きむしった。いけないと思いつつも、やがて指は乳首にも向かう。爪を立てて思いのままに掻くと、右手中指が薄皮をぺりっと剥がしたのがわかった。きっと血が出て、明日は今日よりも酷い状態になるだろう。でも搔きむしるのを止(や)められない。

一維は生まれてすぐの頃から、とにかくおっぱいをよく飲む子で、生後二カ月で母乳だけでは足らなくなり、粉ミルクも飲ませる、いわゆる「混合」授乳に切り替えた。するとミルクの味の方が好みだったようで、徐々におっぱいを求めなくなり、四カ月の頃には「完全ミルク」授乳になった。だから亜希は、もう一年も一維に母乳を与えていない。ミルクも一歳一カ月ですんなり卒業したし、もう母乳は必要とされていないのだ。

なのに亜希の胸からは、未だ母乳が出る。滲(にじ)む程度なのだが、でも「出る」ので、乳房や乳首に付着したそれが乾いて、一日に数回、強烈なかゆみを発生させる。更には──。

気が済むまで胸を掻くと、姿勢を崩し胡坐(あぐら)をかいた。両足の裏の土踏まずの辺りを、両手の親指で強く押す。一体どういう仕組みなのかわからないが、胸がかゆくなると、連動して足裏の凝りが激しくなる。

足裏は、かれこれ二年近く、年中無休、二十四時間態勢で凝っている。妊娠中、五カ月の安定期に入った頃から凝るようになり、七カ月の時に受けたマタニティマッサージで相談すると、「ああ、それは妊娠で骨盤が開いていってるからですよ」と言われた。じゃあ産んだら治るだろうと期待したのに、産後六カ月を過ぎてもまったくよくなる気配はなく、八カ月で産後マッサージを受けた時に再度相談すると、今度は「ああ、それは産後で骨盤が緩んだからですよ」と言われた。

二回とも今日行ったショッピングセンター内の整体サロンで、自宅に入った広告に付いていた、割引券を利用して受けた。産後の際には「骨盤ケアの集中コースを受けるといいですよ」と勧められたが、二カ月で五回通って三万円以上するコースだったので、とてもじゃないが手が出せなかった。

どれだけ一維が天使でかわいくても、生まれてきてくれたことに感謝していても、それとはまったくの別問題として、こうやって産後の不調が、亜希の体には重くのしかかっている。一年四カ月経ってもまだ「産後」なのかはわからないが、一維を産む前にはなかった不調なので、やはり妊娠し、出産したことによる苦しみなのだと思う。更に最近は一維が──。

玄関の方でがちゃりと音がした。夫の英治(えい じ)が帰ってきたのだ。さっと自分と英治の枕をベッドの際(きわ)に縦に並べ、一維の落下防止ガードにした。ベッドから出て、寝室の扉を開ける。体は重いままだが、外部からスイッチを入れられても動かないほどではない。

「おかえりなさい」

「ああ、ただいま。寝ててくれてよかったのに」

「寝かしつけで寝落ちしちゃって、お風呂入ってないの。化粧落とさなきゃ」

「そうなんだ。じゃあ一維も、今日はお風呂に入ってないの?」

「そうなの、ごめん。不機嫌で入れられなかった」

「いいよ、いいよ。冬だし二日に一回ぐらいで十分だよね」

廊下で声を潜めて話をする。

「着替えるよね? ご飯の準備しておくね」

「自分でやるよ。疲れてるでしょう」

「そっちこそ。温めるだけだから平気。でも、ごめん。今日の主菜、買ってきた出来合いのお惣菜なの」

「いいよ、いいよ。毎日買ってきたものでも大丈夫だよ。じゃあお願いしていいかな。ありがとう」

英治は物置部屋に、亜希はリビングに向かう。物置部屋は、かつては夫婦の趣味部屋だった。英治の旅行ガイド本、旅先で買った雑貨。夫婦共用の料理本に、亜希の文庫本や映画のDVDコレクションを、ディスプレイした上で収納していた。しかし今は、それらはウォークインクローゼットや部屋の隅に追いやられ、代わりに部屋の真ん中には、ネットで定期注文している一維のオムツ、飲み切れなかった粉ミルクの缶、もう使わない哺乳瓶に、哺乳瓶洗浄機。英治の妹夫婦から譲り受けたが、まだ一度も使っていない、姪っ子のお古の小型ベビーカー。もうサイズアウトしたが、身近に男の子が生まれたり、もしかして自分たちに二人目が生まれた時に、お古で使えるかもしれない一維の服などが鎮座している。

 

関連書籍

飛鳥井千砂『見つけたいのは、光。』

私たち、何を、 どこに向かって、 頑張ればいいの──? 亜希と茗子の唯一の共通点は育児ブログを覗くこと。 一人は、親しみを持って。一人は、憎しみを抱えて。 ある日、ブログ執筆者が失踪したことをきっかけに、 二人の人生は交わり、思いがけない地平へと向かう。 自分だけの光が見つかる、心震える物語。

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見つけたいのは、光。

小説幻冬(2022年8月号 ライター瀧井朝世)、本の雑誌(2022年8月号 文芸評論家 北上次郎)、日経新聞(2022年8月4日 文芸評論家 北上次郎)、週刊文春(2022年9月15日号 作家 小野美由紀)各誌紙で話題!飛鳥井千砂5年ぶり新刊小説のご紹介。

「亜希と茗子の唯一の共通点は育児ブログを覗くこと。一人は、親しみを持って。一人は、憎しみを抱えて。ある日、ブログ執筆者が失踪したことをきっかけに、二人の人生は交わり、思いがけない地平へと向かうーー」

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飛鳥井千砂

1979年生まれ、愛知県出身。2005年、「はるがいったら」で第18回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。'11年に上梓した『タイニー・タイニー・ハッピー』がベストセラーとなり注目を集めた。他に『君は素知らぬ顔で』『女の子は、明日も。』『砂に泳ぐ彼女』『そのバケツでは水がくめない』など著書多数。

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