『本の雑誌』『日経新聞』『週刊文春』『西日本新聞』など、発売直後から各紙誌で話題沸騰の飛鳥井千砂さん5年ぶりの新刊『見つけたいのは、光。』から一部公開!
キッチンで、別皿に取り分けておいたサバの味噌煮を冷蔵庫から取り出し、レンジにセットした。副菜は三日前に作り置きした、キャベツとツナの和え物だ。お茶用のお湯を沸かし、味噌汁を火にかけ、ご飯をよそう。
すべての配膳を終えたところで、ちょうど部屋着に着替えた英治がリビングに入ってきた。ダイニングテーブルの上の照明が、電球一つ分しか点(つ)いていなかったので、もう一つも点けようと、スイッチに向かいかける。しかし英治は気付いていないようで、そのままテーブルに着いたので、中止する。
テーブル上の照明は、まだ一維が生まれる前、このマンションに引っ越してきた時に、「一つぐらい、ちょっといい家具が欲しいよね」と話して、奮発して買った北欧製のものだ。電球もずっと、暖かみのあるオレンジ色にこだわっている。「毎日この光の下で、一緒にご飯食べるの楽しみだよね」「ね。子供が生まれたら、三人でね」と話しながら、わくわくと設置した。しかし一維が生まれてから、この照明の下で三人で食事を摂れたのなんて、片手で数えられるほどしかないと思う。しかも最近は目まで疲れているのか、亜希は刺激が少ないはずのオレンジ色の光でさえ煩わしく、すぐここの照明は消してしまう。点けるとしても、電球は一つにすることが多い。
パチンと手を合わせ、「ありがとう。いただきます」と英治は箸を取る。「うん。顔洗ってくるね」と、亜希は入れ違いに洗面所に向かった。
クリームのメイク落としを、丁寧に顔に塗り込んでいく。さっきまであんなに億劫(おつ くう)に思っていたのに、いざ始めてみると、一維のためでも英治のためでもなく、ただ自分だけのための行為で、とても贅沢で快適に思えた。洗顔にもわざと時間をかけて、束の間の自由を楽しんだ。化粧水と乳液を肌に染み込ませてから、リビングに戻る。
英治は食事を、ちょうど半分ほど食べ終えていた。亜希は自分の分のお茶を淹(い)れ、湯飲みを持って、「ちょっと話していい?」と英治の向かいに座った。夫に話しかけるのに許可を取るなんて虚(むな)しいが、毎日遅くまで働いていることを思うと、つい訊(たず)ねてしまう。
「いいよ。もちろん」
「一維のことなんだけど……。もしかして、もうイヤイヤ期が始まってるってことはないかなあ? 早過ぎるけど、一維、いつも成長が速いし」
何でもイヤイヤの「イヤイヤ期」は、二歳頃から始まるのが一般的だそうだ。
「ここのところ不機嫌で大変って言ってたよね。今日も酷かったの? 寝起きも泣いてたよね」
頷(うなず)いて、亜希はすうっと息を吸った。そして今日一日の一維の様子を、吐き出すように語り出す。
今日はまず寝起きが悪く、一日の始まりから不機嫌だった。朝ご飯は角切りリンゴ入りのコーンフレークのヨーグルトがけ、昼ご飯はオムライスと、一維の好物をメインにしたが、自分で食べたがったのに、スプーンが上手く使えないことに苛立(いら だ)って、一口食べるごとにスプーンを投げた。そして朝昼とも最後には、まだ中身が入っている器を、奇声を上げながらわざとひっくり返した。
お昼寝は三十分しかせず、起きた後に積み木遊びに付き合ったら、遊びの延長なのだろうが、積み木を亜希の顔めがけて投げようとした。慌てて止めて、「ダメだよ。そんなことしたら、ママ痛い痛いだよ」と叱ると、火が付いたように大泣き、大暴れが始まった。どう宥(なだ)めても治まらず、一時間近く泣き続けたので、「いっくん、お外に行こうか。電車が見れるよ」と無理やり着替えさせ、亜希は大急ぎでファンデーションだけを塗り、散歩に連れ出した。近所の、坂の上から電車が眺められるところに連れて行くと、「でんしゃ! でんしゃ!」とはしゃいで、何とか一度は上機嫌になってくれた。
しかし三十分ほどで、「寒いからもう行こうね。風邪ひいちゃうから」とベビーカーを移動させると、また大泣き、大暴れが再開された。道行く人が振り返るし、反り返りが激しく、ベビーカーのベルトを破壊しそうな勢いだったので、ショッピングセンターに避難して、初めて有料プレイルームを利用した。でもすぐに女の子のリンゴを奪おうとする事件があり、また大泣き大暴れ。
夕食の買い物中は、暴れ疲れたのかウトウトしておとなしかったが、帰宅後はまた、些細なことですぐ不機嫌になった。夕ご飯も朝昼と同様に平穏ではなく、お風呂も入れられず、無理やりにやっと寝かしつけたのが、つい二時間ほど前だ。
「大変だったね。何もできなくてごめん」
英治がわざわざ箸を止めて、亜希を見つめた。何もできないのは英治のせいではないので、亜希は頭を振る。
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見つけたいのは、光。
小説幻冬(2022年8月号 ライター瀧井朝世)、本の雑誌(2022年8月号 文芸評論家 北上次郎)、日経新聞(2022年8月4日 文芸評論家 北上次郎)、週刊文春(2022年9月15日号 作家 小野美由紀)各誌紙で話題!飛鳥井千砂5年ぶり新刊小説のご紹介。
「亜希と茗子の唯一の共通点は育児ブログを覗くこと。一人は、親しみを持って。一人は、憎しみを抱えて。ある日、ブログ執筆者が失踪したことをきっかけに、二人の人生は交わり、思いがけない地平へと向かうーー」