『本の雑誌』『日経新聞』『週刊文春』『西日本新聞』など、発売直後から各紙誌で話題沸騰の飛鳥井千砂さん5年ぶりの新刊『見つけたいのは、光。』から一部公開!
「あの有料のプレイルーム、行ってみたんだね」
「うん、ごめん。料金が気になったけど、今日は無料の方で宥められる気がしなかったから」
「いいよ、いいよ。俺も一度ぐらい連れてってあげたいと思ってたから。どうだった?」
「トンネル遊びは楽しそうだったけど、すぐリンゴ事件になっちゃったから……」
床を転げまわって暴れるのでバツが悪くなり、リンゴの母娘への挨拶もそこそこに、あの後すぐに一維を担いでプレイルームを出た。結局、二十二分しか利用できなかった。亜希が一維から離れられた時間は、女の子のママに話しかけられていた時間も含めて、五分程度だったと思う。五分の休憩時間を、千五十円で買ったことになる。
「そうか。でもその女の子のお母さん、怒りもせずに感じいいね。友達になった? 連絡先とか交換したりしたの?」
「してない。確かに感じいい人だったけど……。しょっちゅうあそこに来てるみたいだったし、化粧や髪もちゃんと綺麗にしてたし、うちとは金銭感覚や余裕が違うよ、きっと」
「あ、そうなんだ。そうか」
しばらく沈黙が流れた。英治の箸が、食器とぶつかる音が響く。
やがて食事を終えた英治が、カタンと箸を置いた。「でも」と改まって亜希を見る。
「話を聞いてる限り、今日の一維のイヤイヤには全部理由があるよね。だからイヤイヤ期ではないんじゃないの?」
穏やかな口調を心がけている風があった。
「理由?」
「うん。イヤイヤ期のイヤイヤには理由がないって、ブログで読んだって話してたよね。いつもの、光の部屋、だっけ?」
言われてハッとした。二週間ほど前、光さんがイヤイヤ期についての持論を、ブログ記事にしていた。下の子のオトちゃんのイヤイヤ期が、「どうやら終わりを迎えた」そうで、二人の子のイヤイヤ期を経ての、光さんが思うイヤイヤ期とはどんなものか、どう乗り越えるとよいか、という内容だった。
それによると、イヤイヤ期のイヤイヤには理由がなく、とても理不尽なのだそうだ。積み木が上手く積めないとか、もっと遊びたいと泣くのではなく、例えば「お茶が欲しい」と言うのであげると、「違う! 牛乳!」と泣く。そして牛乳をあげると、今度は「ジュースがいいの!」と暴れて、牛乳をこぼす。それを見て「ママのせい!」と、ぎゃあぎゃあ怒る──という具合らしい。
光さんは、思春期にホルモンバランスの乱れで反抗期があるのと同じで、多少の個人差はあれど、脳の成長過程で必ず起こるものなので、親は「自分の接し方が悪いのでは」などと抱え込まなくてよいと言う。ただ時期が過ぎるのを待つのが望ましいとのことだ。
『でも親だって人間だから、毎日理不尽に八つ当たりされると、どうしたって、こちらはイヤイヤじゃなくて、イライラしちゃいますよね。だから私は、イヤイヤ期は子供が寝た後に、思い切り好きなことをするのがいいと思います。アイドルのコンサートDVDを夜な夜な見るのもよし。RPGを毎晩一面ずつクリアするのもよしです。ちなみに私は、今日はこれ! と、毎晩おいしいワインを開けてました。だから私は、イヤイヤ期の感想を聞かれたら、大変だったよー、じゃなくて、お金がかかったよー、って答えます! 笑』
最後はそう締められていた。理不尽であるということの説明のわかりやすさ、抱え込まなくてよいと断言するやさしさ。アイドル、ゲーム、お酒、と育児中の親が嗜(たしな)んでいると、後ろ指をさされがちなものへの寛容さ。自嘲するユーモア。そのすべてに感嘆し、亜希は英治に「ねえ、いつもの光さんのブログで読んだんだけど」と、その記事の内容を、事細かに語って聞かせたのだった。
なのに、なぜ自分が忘れていたのか。その理由にはすぐに気が付いたが、認めたくなくて、とりあえず黙ってお茶を啜った。
ここ数日の一維の激しい不機嫌で、正直、亜希は今、疲れている。さっきのように寝顔を見つめて、「天使だ」と思えるとホッとする。でも同時に不安にもなる。今日は天使だ、かわいいと思えたが、明日、いや一時間後には思えなかったらどうしよう。かわいいと思えないどころか、いつか我が子を「憎い」と思ってしまったらどうしよう。
まだ「憎い」までは行っていないが、ここ数日、自分は今はっきりと、一維に腹を立てたと、自覚することは何度もあった。特に、積み木をぶつけようとしたり、他の子が使っているものを奪おうとしたりと、攻撃的な行動を取る時には、どうしてそんなことをするのか、この子は性格に問題があるのではと不安になるので、それと相俟(あい ま)って怒りも激しくなる。せっかく作った食べ物を投げられたり、ひっくり返されたりした時も、つい音を立てて溜息を吐いたりした。こちらについては哀しくなるので、泣きたい気持ちと怒りが半々だった。
だから亜希は、これはイヤイヤ期なんじゃないか。だとしたら仕方がない。どんな子にも必ず来るものだし、一維は人より早く来ただけだ。一維の性格に問題があるわけではないし、いつか必ず終わる。そう思いたかったのではないか。でも──。
「そうだね。理由があるから、イヤイヤ期ではないね。幾ら何でも早いし」
力なく呟(つぶや)いて、またお茶を啜った。「う、うん」と英治が曖昧に頷く。
「お正月の疲れが、今になって出てるのかな。ばあばたちがいない生活に戻って、淋しいのかも。もう少し様子を見るよ。一時的なものだといいけどね」
英治が年末年始も仕事だったので帰省できず、お正月は亜希の両親が、一維に会うために我が家に数日滞在していた。
「じゃあ、私はもう寝るね」
お茶を飲み干し、席を立つ。
「うん。大丈夫? 任せきりでごめんね」
「ううん。聞いてもらったら楽になったよ。ありがとう。おやすみ」
寝室に戻ると、一維は今度は英治のスペースに両足を投げ出していた。英治が眠りに来る頃にはまた状況が変わるだろうから、直さずそのままにしておく。枕二つを元の位置に戻し、重い体を再びベッドに収めた。
一維の寝顔を見つめてみようか迷ったが、止めておいた。ちゃんと寝息を立てていることだけ耳で確認し、代わりに携帯を眺める。「Hikari’s Room」にアクセスするが、トップ画面がすべて表示されても、まだ「New」の文字はなかった。
ゆっくりと息を吐き、目を閉じる。
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見つけたいのは、光。
小説幻冬(2022年8月号 ライター瀧井朝世)、本の雑誌(2022年8月号 文芸評論家 北上次郎)、日経新聞(2022年8月4日 文芸評論家 北上次郎)、週刊文春(2022年9月15日号 作家 小野美由紀)各誌紙で話題!飛鳥井千砂5年ぶり新刊小説のご紹介。
「亜希と茗子の唯一の共通点は育児ブログを覗くこと。一人は、親しみを持って。一人は、憎しみを抱えて。ある日、ブログ執筆者が失踪したことをきっかけに、二人の人生は交わり、思いがけない地平へと向かうーー」