『本の雑誌』『日経新聞』『週刊文春』『西日本新聞』など、発売直後から各紙誌で話題沸騰の飛鳥井千砂さん5年ぶりの新刊『見つけたいのは、光。』から一部公開!
さっき亜希は、英治に嘘を吐いた。一維が荒れていることについて、「聞いてもらったら楽になった」と言ったが、そんなわけはない。英治に罪はないが、聞いてもらうだけでは楽にはなれない。だって一維の不機嫌は、明日も明後日も続くかもしれない。もし不機嫌が治まったとしても、明日も明後日も明々後日もその次の日も、一日の休みもなく、一維が朝起きてから夜寝るまで、亜希が一人で世話をするのだ。今日の疲れを癒やせる当てがない。
誰にも手伝ってもらえず、二十四時間一人で家事や育児を請け負う状況が「ワンオペ育児」と呼ばれ、世間で問題視されるようになって久しい。ワンオペ育児を強いられる人のほとんどは女性、つまりは妻、母であり、原因の多くは男性、つまりは夫、父にあるようだ。未だに家事や育児は女性がするものと思っていて、父になっても育児に当事者意識がない、たまにやっても要領が悪いし、手伝っているという感覚の男性が多いらしい。
英治は、決してこれに当てはまらない。結婚前から子供好きを自称し、結婚したら早く子供が欲しいと宣言していただけあって子煩悩だし、自分も一維の育児をするべき、したい、と思っていることが、普段から強く窺(うかが)える。
休日の朝は亜希には「ゆっくり寝てていいよ」と言い、自分は早朝から起き出し、一維の衣類を洗濯する。一維が起きたら朝食を作り、食べさせて、昼寝をしている間に離乳食のストックを作り、冷凍までしてくれる。調理師免許を持っているから、キッチンでの手際は亜希よりもずっといい。綺麗好きだし、何事にもマメで丁寧なので、おそらく家事全般において、亜希よりも能力が高いと思う。
よく近場の子連れスポットを検索し、「今度一維をここに連れて行こうよ」と提案する。一維がぐずれば積極的にあやし、泣き止ませられなくても、「俺じゃダメだから」と亜希に押し付けたりしない。一維の現在の服のサイズ、食事量、起床、昼寝、就寝の時間帯まで、常にきちんと把握している。
しかし、そんな意識も能力も高い、いい夫に恵まれたのに、結局は亜希がほぼ毎日ワンオペ育児をしている。その理由は、ただただ英治の休みが少な過ぎるからだ。東京郊外のイタリアンレストランで店長兼ホール係をしているのだが、一維が生まれてからというもの、休みは月に三日あればよい方。一日しかなかった月も、この一年四カ月で三回あった。
会社の経営方針で、英治の店はシェフと店長以外のスタッフはすべてパート主婦と学生アルバイトでまかなわねばならず、人が定着しないので、常に人手不足なのだ。休みの日も、「ごめんね。ほんとごめん」と言いながら、シフト表や売上表作りのために、近所のコーヒーショップに籠城したりする。自宅から店までは一時間強で、10時から22時まで働いているので、朝は普通の会社員よりは少し遅いだろうが、帰りはいつも23時過ぎ。家事、育児をやる時間も余力も、英治には物理的に存在していない。
一維が生まれる前は銀座の本店で働いていたが、そこでは少なくとも週に一度は休めていた。でもキャリア七年でホール長だったにもかかわらず、非正規雇用の契約社員だった。だから亜希の妊娠が発覚した時は、嬉しい反面、夫婦には少なからず不安も生じた。
だが安定期に入った頃に、英治に下半期が始まる10月から正社員に、郊外の分店で店長を、という辞令が下り、二人して手放しで喜んだ。亜希と英治は同い年で、その時三十四歳だった。英治は三十代に入ってから、「三十五歳までには正社員に」という目標を掲げていたが、何とか間に合った。亜希もギリギリ高齢出産になる前に第一子を産めるからよかった、本当によかったと、毎晩のように膨らみ始めた亜希のお腹を撫でながら語り合ったものだ。出産予定日が9月の半ばだったのだが、そこから10月1日の異動日までは有休を使ってもいいと言われ、会社に強く感謝もしていた。
でも産後約二週間が過ぎた頃から待っていたのは、英治は異動先で恐ろしいほど休みがなく、生まれた子供の育児をしたくてもできない日々。亜希はワンオペ育児を強いられて、時に我が子の寝顔を見つめることを、あえて避けるほど疲弊する日々だった。
一維の寝息に交じって、水が流れる音が聞こえてきた。英治がシャワーを浴びているのだろう。一度寝落ちしてしまったからか、目は瞑(つむ)っているのに、まったく眠れない。
長湯する人ではないから、英治は直(じき)にお風呂から出て、ベッドにやってくるだろう。それまでに眠ってしまいたい。起きていたらきっと心配をかけて、「大丈夫?」などと聞かれてしまう。その時に穏やかな返しができる自信がなかった。
ここ数日、亜希は一維だけでなく、英治に対しても腹を立てていると自覚することが何度かあった。一維の行動に嫌気が差すような時、二人の子なのに、どうして自分だけがこんな思いをさせられるのか、どうして英治は今ここにいないのかと、つい心の中で悪態を吐いてしまった。休めないのは英治のせいではないし、仕事で疲れている上に、一維に関わりたいのに関われないという苦しみがある英治は、寧(むし)ろ亜希よりもずっと辛いのではないかと、普段から頭では理解し、同情もしている。でも最近は理屈を無視して、むくむくと怒りが湧き上がってしまうことがしばしばある。
シャワーの音が止んだ。固く目を瞑る。同時にまた脇腹に衝撃があった。寝返りを打った一維が、亜希のスペースに大胆に侵入してきたのだ。起こしたくないので、仕方なく体を横にして避(よ)けた。あと少しでベッドから落ちてしまう。
窮屈この上ないのに、どこにも少しも動けない。何だかそれは、亜希の現在の状況によく似ていた。
見つけたいのは、光。
小説幻冬(2022年8月号 ライター瀧井朝世)、本の雑誌(2022年8月号 文芸評論家 北上次郎)、日経新聞(2022年8月4日 文芸評論家 北上次郎)、週刊文春(2022年9月15日号 作家 小野美由紀)各誌紙で話題!飛鳥井千砂5年ぶり新刊小説のご紹介。
「亜希と茗子の唯一の共通点は育児ブログを覗くこと。一人は、親しみを持って。一人は、憎しみを抱えて。ある日、ブログ執筆者が失踪したことをきっかけに、二人の人生は交わり、思いがけない地平へと向かうーー」