2022年9月12日にお亡くなりになった劇作家、演出家、作家の宮沢章夫さん。小社からは『長くなるのでまたにする』『「資本論」も読む』の2冊を刊行させていただきました。宮沢さんは戯曲、小説、エッセイといろんな種類の文章を書かれてきましたが、とりわけ笑えるエッセイの虜になった方は多かったのではないでしょうか。もっと書いていただきたかったと残念な気持ちはぬぐえませんが、哀悼の意を表するとともに『長くなるのでまたにする』から傑作エッセイを抜粋してお届けます。最後はやはり「牛」についてです。
1 映画研究 ─「馬の映画」
私は馬を見た。
馬の映画を観た。
たとえば、スピルバーグが監督した『戦火の馬』だ。そして、タル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』だ。そんなに馬の映画があるのか、たまたま立て続けに観ただけだろうか。けれど、よくよく考えてみれば、馬の映画は意外に多い。マリリン・モンローの遺作になったジョン・ヒューストンの『荒馬と女』がある。そのものずばり『馬』という、山本嘉次郎監督、高峰秀子主演の映画がある。
あげていったらきりがない。
タイトルに馬が入っていなくても馬が出る映画もあり、私の記憶では、冒頭、馬が銃で撃ち殺される『ひとりぼっちの青春』という映画が七〇年代にあった。まして西部劇や時代劇の多くに馬は出てくる。黒澤明の『七人の侍』の馬はすごかった。マイケル・チミノの『天国の門』でも馬は疾走し、銃で撃たれて激しく倒れる。それら馬は、その後の車と映画との近しさ、たとえばカーチェースに通じるような速度の象徴だったのだろう。
だが、タル・ベーラの『ニーチェの馬』に登場する馬はほぼ走らない。苦しそうに歩くばかりだ。あの重苦しさはなんだったのだ。
すごい馬の映画だった。
どこかよくわからない土地だ。親子とおぼしき老人と娘が住んでいる。ひどく貧しそうな家だ。馬が飼われている。親子はいつも熱く茹ゆでたじゃがいもを食べているが、フォークなどない。熱いじゃがいもを素手で、ひどくたいへんそうに、手が熱そうに食べる。そして二人とも半分残す。食事のたびにそうなのだ。だったら最初から一個のじゃがいもを二人で分ければいいと思うが、そんなことはしない。ある日、井戸の水が涸かれた。もう、ここには住んでいられないと、馬に荷車を引かせ、荷物を大量に載せて家を出て行く。丘の向こうまで親子と荷車を引いた馬は去る。丘の上には枯れたような寒々しい木が一本ある。そのまま、カメラは動かない。じーっと映し続ける。すると驚いたことに、丘を越えてどこか遠くに去ったはずの親子と荷車を引いた馬が帰ってくる。この長い時間はなんだったのだ。
これは馬の映画なのか?
西部劇に見るような速度はなにも感じられない。家の井戸は涸れたが、丘の向こうにもなにもないと知って戻ってきたらしい。ベケットの『エンドゲーム』のような終末の世界が広がっているのかもしれないが、すごすご戻ってくるとはなにごとだ。
しかもゆっくりだ。
これはほんとうに馬の映画なのだろうか。
タイトルは『ニーチェの馬』だ。原題はどうやらちがうらしい。ハンガリー語も英語も不正確だったら申し訳ないが、「トリノの馬」というのが原題らしい。それでも「馬」じゃないか。この速度のなさはなにごとだ。
では、「牛」の映画はないのか?
私はあまり観たことがないし、印象に残っている映画のなかに牛が思い出せないので、仕方なくネットで調べるとこんな映画があった。
『牛泥棒』
日本では未公開のアメリカ映画だ。ここでは「泥棒」が主体で、「牛」は単に、盗まれる対象だ。なんてことだろう。悲し過ぎるじゃないか。あるいは、記憶に残っている映画では、竜巻を素材にした『ツイスター』のなかで、きわめて拙いCGで、竜巻に吹き飛ばされる牛の悲劇的な姿があった。
牛になんてことをする。
もっと牛を尊敬したらどうなんだ。だとすれば、インド映画に期待を持とう。宗教的に牛が敬われている。とはいっても、そんな映画を観たことがない。誰か知らないだろうか。牛が大活躍するインド映画だ。悪を倒し、正義のために町の平和を守る牛の話だ。知らないだろうか。
あと、「カウマン」でもいいんだ。「カウボーイ」ではない。「カウマン」だ。
2 人生訓 ─「他人が固有名詞を忘れる」
人をひどくもどかしい気持ちにさせる〈こと〉や〈もの〉は数多い。そのなかの一つは誰だって一度や二度は経験しているだろう。
「いま近くにいるのだが、声をかけるような関係ではない他人で、けれど、いまそこでその人たちが、なにかの固有名詞を思い出せないでいる」
こっちは知ってるんだよ。
教えてやりたい気持ちになるのだ。「あったわよねえ、ほら少し前、あれ、なんて店だったかしら、焼肉屋で、ユッケで、ほら食中毒出したからって、社長が土下座したとこ、あったじゃない」と声が、たとえばファミレスの隣の席から聞こえるのだ。
もちろん、「焼肉酒家えびす」だ。
隣の席では答えが出てこない。
「なんか、言ってたわよ、地名じゃなかった? 上野?」
いやちがう。
「なんかめでたい名前だったのよね」
近いぞ。近づいている。もう少しだ。
「大黒様?」
「焼肉チェーン大黒?」
ちがう。かなり離れた。しかも、なぜそこにチェーンを入れたのだ。ないのか。もっとめでたい名前が。
「なんかちがうんじゃない」それまで黙っていた者が声を出す。「弁天様じゃなかった?」
いいとこいっているが、なぜか、えびす様が出てこない。だが、このまま順調に話が進めば、ユッケで食中毒を出し五人の被害者を出してしまった店の名前を思い出すだろう。報道陣の前で社長らしき男が土下座をしたあの画えを思い出すはずだった。だが、人の気持ちはうつろいやすい。
「焼肉食べたいわ」と一人が言う。
「食べたいわねえ」
共感の声が上がる。
「上野に美味しい焼肉屋があるのよ。橋本さんに教えてもらったんだけどね」
「橋本さん、最近、ちょっと太った?」
「そうそう、なんかねえ、血圧も高いって、なんかやばいよ。すごい数値だよ、このあいだ聞いたんだけど」
「いつ?」
「えーと、先週の、火曜日かな」
「あ、こんどの火曜日、課長、誕生日だって」
いやそんな話はどうでもいいだろ。もしかすると、本人たちには大事かもしれないが、いまは食中毒を出した焼肉屋の話じゃないか。まず、なぜ橋本さんのことに話題を移したのだ。だいたい誰だ、橋本さん。俺は知らないよ。たしかに橋本さんの血圧が高いのは心配だが、そこでどうして課長の誕生日のことなど思い出すのだ。いまは食中毒を出した店のことだ。教えてやったほうがいいのか。「焼肉酒家えびす」と横から口を挟んだほうがいいのだろうか。だが、だめだ。なにしろまったく知らない人たちだ。
しかもだ。よりにもよって、「焼肉酒家えびす」という言葉がいけない。想像してもらいたい。まったく知らない男が、ファミレスの隣の席から、いきなり言うのだ。
「焼肉酒家えびす!」
もしかしたら、彼、彼女らは、すでに「火曜日に誕生日を迎える課長の話」に気持ちが移っていて、社長が土下座した焼肉屋のことなど忘れているかもしれない。そこに不意に、「焼肉酒家えびす!」と宣言するように言い出す者がいたらどうだろう。
私はそんなことはしたくない。
だが、もどかしかったのだ。苛ついていたと言ってもいい。こちらの気持ちを納得させたかったのだ。だから伝えた。
「焼肉酒家えびす!」
だが、そんな言葉は虚しくファミレスの床に落ちてゆくのである。
ある有名なアナウンサーの話を聞いた。
ガンで闘病していた。すでに末期で、しゃべるのも困難になり、家族とのコミュニケーションもままならなかったという。その日、いつものように妻は看病のため病室にいた。そこに知人が見舞いに来てくれたという。
ふと病室の窓の外を見ると、宗教団体の看板が見えた。ある作家がその信者だったという有名な団体だ。作家は不慮の死をとげた。そんな話をしていたが、作家の名前が思い出せなかった。妻と見舞客は宗教団体の看板を見ながら話した。
「なんていう人だっけ?」
「いま私も、あれ見て、そう思ってたの」
「ここまで、名前が出てるのよ」
「そうなの、出ているのよ、ここまで」
「なんだっけ」
「あれよ、あれ、えーと」
そのときだ。
息も絶え絶えだったアナウンサーが苦しげな声で言ったという。
「か、か、か、……かげ、やま、……た……みお」
そうだ。景山民夫だ。
もどかしかったのだ。苛々していたのだ。どんなに病気で苦しんでいても、すぐそばに、固有名詞が出てこない人がいれば誰だってもどかしい気持ちになる。ファミレスや電車のなかで、他人が固有名詞を忘れて出てこないとき、言いたくても相手が他人だけに言えないが、すぐそばで思い出せないのが家族だったからこそ、どんなに苦しくてもアナウンサーは声にしたかったのだ。命がけである。生命を賭としてでも伝えたかったのだ。
景山民夫である。
だが、この出来事でわかったのは、ガンで苦しんでいる人の前ではけっして、「固有名詞を忘れてはいけない」ということだ。アナウンサーは家族だったから言えた。まだ救いがあった。なにしろ伝えるのもアナウンサーの仕事だ。
他人だったらどうだ。
苦しい病気との闘いのなかだ。そこに「固有名詞が思い出せない人」がいる。自分は知っている。病気は苦しいが、伝えるのははばかられる。他人である。声をかけていいのだろうか。しかも苦しんでいるのだ。声を出すのも命がけだ。
だから、あらためて言っておこう。
死に瀕した病人の前では、けっして固有名詞を忘れるな。絶対にだめだ。病人をもどかしい気持ちにさせてはいけない。
4 連続小説 ─「牛」
牛がいる。ときどき動く。じっとなにかを見ている。気まぐれにもーと鳴く。牛はじっとしている。
* * *
宮沢さん、どうぞ安らかにお休みください。
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