昆虫図鑑制作の苦しくも楽しい舞台裏をつづった、丸山宗利氏の『カラー版 昆虫学者、奇跡の図鑑を作る』(幻冬舎新書)が発売と同時に話題を呼んでいる。
今回はそのなかから「はじめに」を紹介。奇跡の昆虫図鑑は、どのあたりが「奇跡」なのかが明らかになる。
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もうすぐ図鑑が出るのだが
久しぶりの海外調査となったアフリカから無事に帰国。長い調査だったが、その最中、毎日思い浮かべることがあった。
それは「もうすぐ図鑑が出る」ということである。
もちろん、気を抜けば事故につながる調査でもあり、常に気を取られていたわけではないが、帰ったら図鑑を見ることができると思うと、帰国が近づくにつれ、そわそわとしていった。
帰国したのが2022年6月15日の夜で、その晩は成田空港近くのホテルに宿泊した。
良くも悪くもすごい世の中で、アフリカの密林の奥にいても、日本にいる図鑑関係者とのやりとりが続き、帰国前日に編集者の方から「見本を発送した」とのお知らせが届いた。
自宅に帰るのは16日で、その日に図鑑を受け取れる予定だったが、どうしても気が落ち着かない。
その気持ちを察してくれたのだろうか、執筆陣の一人で、教え子の柿添翔太郎君が、気を利かせてホテルまで自分に届いた図鑑を見せに来てくれたのである。
彼は自分が受け取った時点ですぐに開封せず、ホテルの一室で開封の儀が執り行われた。なんと優しいことだろう。
しかし、いよいよ図鑑を封筒から取り出してもらっても、なぜか実感が湧かない。大喜びして跳ねまわる自分を想像していたが、そうではなかったのである。
図鑑を手に取っても、あんなに苦労して、1年以上をかけた図鑑なのに、なぜか喜びが込み上げてこなかった。喜びたくても喜べないというのが、なんとも複雑だった。この気持ちは何なのだろう。
自宅のある福岡へ向かう飛行機のなか、空港から自宅へ向かう電車のなかで考えた。
そしてふと気づいた。素直に喜べなかったのは、「図鑑作りが終わってしまった」という寂しさが理由だったのである。胸にぽっかりと穴があくとよく言うが、まさにその言葉があてはまった。
『学研の図鑑LIVE 昆虫 新版』として、完全に新しい図鑑を作ることになったのは、2020年の秋のことだった。そして、2021年の春から本格的な作業が始まった。制作期間は2022年春までの1年しかない。
この1年は、図鑑作りのためにとにかく突っ走った。途中で息切れしかかったこともあるが、とにかく走り切った。
50歳近くになり、この年齢になると、1年というのはすごく短く感じるものであるが、私にとって、この1年は、数年分を凝縮したような、濃密で長く感じられる時間だった。楽しかったこともたくさんあるが、総じて大変で心身ともに厳しいものだった。
しかし、一つの目標に向かって進み、何かが形になっていくということは、何よりの充実を感じる作業でもあった。そんな悲喜こもごもの毎日が終わってしまったということに、大きな喪失感を覚えていたのである。
理由がわかると冷静になれる。自宅に戻って間もなく図鑑が届き、そんな自分の気持ちを清算するため、制作の様子を思い浮かべながらページをめくった。
するとどうだろうか。じわじわと喜びが込み上げてきたのである。300ページを超える、これまでになく分厚い昆虫図鑑だが、どのページにも思い入れ、そして思い出がある。
それぞれのページに載っている昆虫の撮影、執筆作業など、いろいろなことが胸をよぎった。涙がこぼれた。校正作業で散々中身を見たはずだったが、本になるとまったく別のものである。
「これはとんでもない、本当に最高の図鑑ができたぞ!!」
同時に制作陣の感想も届き始め、やっと飛び上がりたい気持ちになれた。図鑑が出る直前に「読者のみなさんへ」という前書きを書いたが、そこに私の思いが詰まっているので、その一部を再録する。
(略)多くの友達や知りあいに声をかけて、撮影が始まりました。とても大変な虫探しと撮影の毎日でしたが、予想以上にたくさんの写真が集まり、この図鑑にはその中から約2800種を選んでのせることができました。そして、さまざまな人の協力があり、写真だけでなく、中身もすばらしい図鑑ができあがりました。私は心からみなさんに見てほしいと思うし、できるならば子供のころの私に見せてやりたいとも思います。それくらい、本当にすごい、最高の図鑑です。
(『学研の図鑑LIVE 昆虫 新版』Gakken)
最高の図鑑になることは、できあがる過程で十分にわかっていた。こう書くと、自画自賛している間抜けのように思われるかもしれない。しかし、図鑑の前書きに書いたとおり、私の労力はあくまで一部であり、だからこそ大手を振って賞賛しても恥ずかしくないのである。
先ほど書いたように、とにかく図鑑の完成に向けて突っ走った1年だった。長く感じたと言ったが、この歳でそういう思いができるのは、とても恵まれた経験だったとも思う。多くの人が関係し、その過程では、当然たくさんの出来事があった。
この本ではその図鑑制作の顚末(てんまつ)を包み隠さずご紹介したい。
多くの人が子供の時に何かしらの図鑑を見ていると思う。しかしそれらがどのようにできたのかを知る人はほとんどいないはずだ。
今回の図鑑は、これまでにない種数(2800種以上)が生きたまま掲載されるという前代未聞の内容で、しかも多くの研究者が関わり、中身も素晴らしく充実したものになっている。
そして、急ごしらえで、ほとんどが撮影初心者の虫好きを集めて撮影隊を組み、図鑑の命ともいえる写真を準備したというのも特筆すべき点である。
なにもかもが異例で、関係者一同、形になるまで信じられなかったほどだ。最高の図鑑であると同時に、ある意味、「奇跡の図鑑」と言ってよい一冊であり、それがどのようにできあがったのか興味を持たれる方は少なくないのではないかと思う。
本書は、あくまで図鑑の写真を撮影した人、原稿を書いた人の視点を中心とした物語である。それでも、その様子は何か大きなものができあがる過程の一つであり、好きなものを突き詰めた人間たちの記録とも言える。
何かと鬱々(うつうつ)として、夢のない話ばかりの世の中だが、夢中で虫を追いかけまわす私たちの様子にクスリと笑ったり、あるいは図鑑の制作という目標に突き進む人々の姿に何かしらの希望を見出したりしていただければ、それは望外の喜びである。
さらに、学研の図鑑の少し前に出版された思い出深い2冊の書籍、KADOKAWAの『角川の集める図鑑 GET! 昆虫』と『驚異の標本箱 ─昆虫─』の制作についても触れていきたい。
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