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特集『レッドクローバー』

2022.09.30 公開 ポスト

#1 日本の犯罪史に残る事件。けれど大衆の興味はあっという間に薄れていったまさきとしか

発売後、思いもしない結末を迎える展開と、出てくる女性たちの強烈な個性と、そして、「目を背けたい」のに「なんとなくわかってしまう」人間の真理に反響続々のミステリ『レッドクローバー』。読み出したら止めることができない一気読みミステリですが試し読みを始めます。

*   *   *

プロローグ

 コンビニに入ったかつきつよしの目に〈ヒ素〉の文字が飛び込んできた。ドリンクの棚に向かう足を止め、雑誌を手に取る。

 とよバーベキュー事件の記事だ。冒頭の数行に目を走らせたところで、すでに読んだ記事だとわかりラックに戻しかけた。しかし、雑誌を持つ手に力が入りすぎたのか、それとも手のひらが汗ばんでいるのか、表紙がたわんでしまったことに気づき、仕方なく冷たい烏龍茶とともにレジに持っていった。

 コンビニを出た勝木は、公園とは名ばかりのほとんど緑のない広場に入った。地面は合成ゴムで、片すみに安全性を重視した小さな滑り台がひとつだけあるが、平日のオフィス街に子供の姿はない。

「まじ死にそっすよー」

 ベンチに座った勝木の耳が通行人の声を拾う。

 スマートフォンを耳に当てた男が、言葉の深刻さとは裏腹に愉快げに笑いながら勝木の前を歩いていく。

「いや、ほんとなんですって。腎臓? 膵臓? うーん、肝臓かな? なんかそのへん痛いんすよ」

 勝木は思わず顔を上げて、あははは、と笑う男を凝視した。三十代半ばだろうか、整った髪と清潔感のあるスーツは営業職といった雰囲気だ。

「いやー、それが健診受けたばっかで、オールオッケーだったんすよね」

 その言葉にほっとして男の後ろ姿を見送った。

 烏龍茶に口をつけて高層のオフィスビルが突き刺す空を見上げた。今日も灰色だなあ、と無感情に思う。東京はまだ梅雨明けしておらず、ここ数日、雨でもなければ晴れでもない中途半端な天気が続いている。

 勝木はとう新聞を定年退職し、一ヵ月ほど前に系列の出版社に嘱託職員として再就職したばかりだ。月刊総合雑誌の記者兼編集者というポジションだが、いまのところ新作の本や映画を紹介するカルチャーコーナーを担当しているだけだ。

 そんな勝木に、豊洲バーベキュー事件の記事を書いてみないかと編集長が打診してきたのは昨日の帰り際のことだった。そのとき、運命と呼ぶには大げさだが、見えない力が意図したように感じられ、勝木の脳裏に、めぐりあわせ、という言葉が浮かんだ。

 豊洲バーベキュー事件は二ヵ月ほど前に起きた。五月の大型連休中のことだった。

 豊洲のバーベキューガーデンで、ヒ素が混入した飲み物を飲んだ男女三人が死亡、四人がヒ素中毒となり病院に搬送された。容疑者はまるいつ、三十四歳。その日のバーベキューパーティの発起人で、被害者たちとは知人関係にあった。ヒ素はワインやサングリア、ビールなど乾杯用の飲み物すべてに高濃度で混入されていた。いずれも丸江田が用意したものだった。

 ただでさえ衝撃的な事件だが、さらにインパクトを強めたのが現場に居合わせた人が撮った動画だ。ニュースやワイドショーで繰り返し流れたその動画は、事件発生直後から撮られたものだった。被害者にはモザイクがかけられていたが、それでも地面に倒れ、嘔吐したりもがき苦しんだりする様子が見て取れたし、被害者のうめき声、「救急車!」という叫び声、撮影者の「やばいやばい」という上ずった声が聞こえ、毒ガスと勘違いしたのか「逃げろ!」という声とともに逃げ出す人たちの姿もあった。

 丸江田逸央は画面のすみのほうにいた。終始ぼうっと突っ立ち、苦しむ被害者たちを見下ろしていた。テレビでは丸江田の顔がクローズアップされたが、その表情ははっきりとは見えなかった。ただ、かんしたたたずまいは感情が抜け落ちているように感じられた。

 丸江田はその場で逮捕され、殺害目的でヒ素を混入したことを認めた。

 当初、容疑者と被害者たちは近しい間柄だと思われたが、知り合ったのはSNSで、実際に会ったのはその日がはじめてだったことが明らかになった。丸江田は無職だったが、SNSでは起業家と名乗り、存在しない会社のホームページをつくってリンクを貼っていた。当然、世間からは「努力の仕方がまちがっている」「その行動力を別のほうに生かせばよかったのに」といった声があがった。

 このあたりから世間の風向きが変わったと勝木は思っている。

 その最たる理由は、被害者が全員、恵まれたポジションにいたからだろう。本人や配偶者が大企業に勤めているだけではなく、資産家の家系だったり、実家が政財界とつながりがあったりした。なかでも注目されたのが、数年前に強姦罪で逮捕されたものの不起訴になった男だ。彼は祖父が大手広告代理店の会長だったことから、祖父の力で不起訴になったと当時からネット上でバッシングされていた。

 一方の丸江田は非正規労働の職を転々とし、事件の数ヵ月前に派遣の契約を切られていた。両親ともすでに他界し、古い木造アパートでひとり暮らしをしていた。

 被害者と容疑者の対比は、週刊誌やネットを中心に「上級国民VS下級国民」の様相を呈していった。

 しかし、日本の犯罪史に残るような事件にもかかわらず、旨味を吸い尽くした人々の関心はあっというまに薄れていった。

(写真:iStock.com/Moarave)

(つづく)

関連書籍

まさきとしか『レッドクローバー』

『あの日、君は何をした』『彼女が最後に見たものは』シリーズ累計40万部突破の著者、最高傑作ミステリ。 まさきとしかが……いよいよ、くる! 家族が毒殺された居間で寛ぎ ラーメンを啜っていた一人の少女。 彼女が──家族を殺したのではないか。 東京のバーベキュー場でヒ素を使った大量殺人が起こった。記者の勝木は、十数年前に北海道で起こった家族毒殺事件の、ただ一人の生き残りの少女――赤井三葉を思い出す。あの日、薄汚れたゴミ屋敷で一体何があったのか。 「ざまあみろって思ってます」 北海道灰戸町。人々の小さな怒りの炎が、やがて灰色の町を焼き尽くす――。 『あの日、君は何をした』『彼女が最後に見たものは』シリーズ累計40万部突破の著者、最高傑作ミステリ。

まさきとしか『完璧な母親』

流産を重ね授かった最愛の息子が池で溺死。絶望の淵で母親の知可子は、息子を産み直すことを思いつく。同じ誕生日に産んだ妹に兄の名を付け、毎年ケーキに兄の歳の数の蝋燭を立て祝う妻の狂気に夫は怯えるが、知可子は歪な“完璧な母親”を目指し続ける。そんな中「あなたの子供は幸せでしょうか」と書かれた手紙が――。母の愛こそ最大のミステリ。

まさきとしか『祝福の子供』

虐待を疑われ最愛の娘と離れて暮らす柳宝子。私は母親失格――。悩み続けたある日、二十年前に死んだはずの父親の遺体が発見される。遺品には娘への手紙と猟奇事件の切抜き記事。父の過去を探り事件を追う宝子だったがそれが愛する家族の決死の嘘を暴くことに。父の手紙の意味は? 母が犯した罪とは? 愛に惑う“元子供たち”を描く感動ミステリ。

まさきとしか『ある女の証明』

主婦の小浜芳美は、新宿でかつての同級生、一柳貴和子に再会する。中学生時代、憧れの男子を奪われた芳美だったが、今は不幸そうな彼女を前に自分の勝利を噛み締めずにはいられない。しかし――。二十年後、ふと盗み見た夫の携帯に貴和子の写真が……。「全部私にちょうだいよ」。あの頃、そう言った女の顔が蘇り、芳美は恐怖と怒りに震える。

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特集『レッドクローバー』

シリーズ累計40万部突破『あの日、君は何をした』の著者、まさきとしかさん書き下ろし長編『レッドクローバー』特集記事です。
北海道の灰色に濁ったゴミ屋敷で、一体何があったのか。
極上ミステリ!

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まさきとしか

1965年生まれ。北海道札幌市在住。2007年「散る咲く巡る」で第41回北海道新聞文学賞を受賞。13年、母親の子供に対する歪んだ愛情を描いた『完璧な母親』(幻冬舎)が刊行され、話題になる。他の著書に『熊金家のひとり娘』『大人になれない』『いちばん悲しい』『祝福の子供』『屑の結晶』などがある。書き下ろし文庫『あの日、君は何をした』『彼女が最後に見たものは』が大反響。

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