発売後、思いもしない結末を迎える展開と、出てくる女性たちの強烈な個性と、そして、「目を背けたい」のに「なんとなくわかってしまう」人間の真理に反響続々のミステリ『レッドクローバー』。読み出したら止めることができない一気読みミステリですが試し読みを始めます。
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1 勝木剛──現在
「まー、世間の関心が薄れるのはしょうがないですよねー」
会社近くの居酒屋の小さなテーブルで、徳丸梓は海老の頭をチュッと吸ってから言った。同僚の徳丸とふたりで飲むのははじめてだった。
「いまどき大量殺人とか無差別殺人とか流行らないもん。最初だけですよ、大騒ぎするのは。そんな血なまぐさい事件より、みんな芸能人の不倫のほうが好きですから。うちは、おっさん向けの自称インテリ雑誌だから不倫とは無縁なだけで、だから売上もイマイチなんじゃないですかね」
「まあな」
徳丸の小気味のいい物言いに苦笑し、勝木剛は芋焼酎のグラスを口に運んだ。
徳丸の言うとおり、大量殺人や無差別殺人など凄惨な事件を特集した雑誌は売上が伸びない。それよりも芸能人の不倫や浮気、洗脳騒動といったスキャンダルを扱うほうがわかりやすく売れるらしい。
勝木や徳丸が担当する『月刊東都』は硬派系の総合雑誌で、芸能人のスキャンダルをセンセーショナルに取り上げることはない。核となるのは、学者や作家、芸術家、コラムニストなど、いわゆる有識者による時評だが、ドラァグクイーンのエッセイやイラストレータのグルメレポ、ライフスタイルやカルチャー情報などのエンターテイメント寄りのページが四分の一を占める。ターゲットは五十代以上で、メインの読者層は六十代の男性だ。豊洲バーベキュー事件は先月号で取り上げた。社会学者による時評で、事件が象徴する現在の格差社会を検証する内容だった。
「リアルな事件ってシャレにできないですからね。それにいまの時代、いつ自分の身に降りかかるかわかんないじゃないですか。不安になるし嫌な気持ちになるから知りたくない、って人多いですよね。それに比べて芸能人のスキャンダルなら遠慮なく叩けるし、正義の鉄拳をくらわせてストレス発散できるんですから、ほんとおいしいですよ」
徳丸はおしぼりで指をぬぐうと、ビールのおかわりを注文した。
最近、国民的男性アイドルグループのメンバーの二股疑惑からはじまり、お笑い芸人のいわゆるゲス不倫、人気女優の奇行などが立て続けに報じられ、週刊誌やワイドショーがスクープ合戦を続けている。そのせいもあって豊洲バーベキュー事件は過去の出来事になった印象だ。
「裁判が近づいたらまた注目されるんだろうけどな」
勝木はつぶやいた。
「勝木さん、ネットはよく見ますか?」
「見るようにはしてるよ」
「ニュースのコメント欄は?」
「コメント欄は滅多に見ないなあ」
「豊洲の事件って、だんだん被害者へのバッシングがひどくなっていったじゃないですか」
勝木は黙ってうなずく。
「特にほら、軽症だった無職の男」
徳丸が言っているのは、当時の強姦罪、現在の強制性交等罪で逮捕された過去を持つ被害者のことだと察した。案の定、「佐藤っていうその男、大学生のとき知り合いの女性をレイプしたくせに、祖父の力で不起訴になったって言われてましたよね」と徳丸は続けた。
「ああ。その話なら知ってる」
「その佐藤が大学卒業後、祖父が会長の広告代理店の子会社に就職したことは?」
「ほんとか。それは知らなかった」
「じゃあ、一ヵ月もしないで辞めたことも当然知らないですよね」
静かに驚く勝木に、「辞めたっていうか、無断欠勤を続けたみたいですけど」と徳丸は補足した。
「いま佐藤は三十五歳ですけど、一度もまともに働いたことがないみたいですよ。母親も資産家の娘で、佐藤は親が持つ恵比寿のタワマンでひとり暮らししてるんですよ。MTタワー恵比寿、一七〇一号室」
「部屋まで知ってるのか?」
「全部ネットに晒されてるんですよ。両親はもちろん、きょうだいの名前と顔写真、勤め先まで。それだけじゃないですよ。昔の写真がどんどん出まわって、大学時代の友達まで同じ目に遭ってるんですから。ニュースのコメント欄には、死ねばよかったのにとか殺されろとかクズとかゲスとか誹謗中傷がすごいし、SNSも大炎上したし。ひどいですよね」
「それはひどいな」
枝豆を食べながら同意した。ネット私刑の凄まじさは勝木でも知っているつもりだった。
「そうかな」
「ん?」
「ほんとにひどいですかね」
突き放すような平坦な口調に、勝木は黙って徳丸を見つめた。
「いや、頭ではわかってるんですよ。ネットの中傷やバッシングは暴力だって、ちゃんと理解してるんです。でもね、そのくらいの罰を受けて当然だ、とも思っちゃうんですよね。だって、レイプしといてなんの償いもしてないんですよ? ひどいのはどっちですかね」
「うーん」
不起訴になった経緯がわからないからなあ、と続けようとしたが、徳丸のほうが早かった。
「いちばん怖いのが、いいぞいいぞ! もっとやれ! ってどんどん熱くなっていく自分なんですよね」
ため息が混じった声に変わった。徳丸はビールジョッキの取っ手をなぞる自分の手もとに視線をとめている。
「佐藤なんて私には全然関係ない人間で、しかも一応はヒ素で殺されかけた被害者なのに、ネットのコメントを読んでいくうちに、絶対に許せない、罰を与えなきゃいけない、もっと晒されろ、もっとひどい目に遭え、ってわけのわかんない怒りがこみ上げてくるんですよ。しかも、怒れば怒るほどエネルギーがあふれてきて、変な話、生きてる実感みたいなものが湧いてくるんですよね。典型的な正義中毒ってやつですよ。ったく、ドーパミンにいいようにやられてるなあ」
自嘲するようにくちびるを歪めると、徳丸は勢いよくビールを飲んだ。
他人を誹謗中傷すると、脳内に快楽物質のドーパミンが分泌されることはよく知られている。快楽を求めてより強い刺激を求めるため、どんどん攻撃性が増していくらしい。
「勝木さんはどうですか? バッシングする人の気持ち、わかります?」
「そうだな。わかる気はするけどな」
「でも、勝木さんはそうならないでしょ?」
「理不尽だな、とは思うぞ。世の中に腹が立つこともあるし」
「ふうん。勝木さんでもそうですか。なんか意外」
「そうか?」
勝木は軟骨の唐揚げに箸を伸ばす。
「だって勝木さん、のんきそうに見えるし、いい時代を生きてきた世代でしょ」
さばさばとした口調には嫌味や毒が感じられない。だからこそ、本心からの言葉だとわかった。
「でも、私も結局のところ、クズみたいな人間がいい思いをしてる理不尽さにムカつくのかもしれない。だって、佐藤なんか働かなくてもタワマンで悠々自適に暮らしてるんですよ? なにやっても権力が守ってくれるんですよ? こんな不公平あっていいと思います? 世の中に怒っても暖簾に腕押し的ですけど、実在の人間に怒りをぶつけると、なんとなく手応えを感じられるじゃないですか」
徳丸はビールを飲み干し、「おかわりくださーい」と店員にジョッキを掲げた。
「時間、大丈夫なのか? 娘さんがいるんだろ?」
そう聞いた勝木を、徳丸が眉間にしわをつくってきっと睨みつけた。
「時間、大丈夫なのか? 娘さんがいるんだろ?」徳丸はゆっくり復唱すると、「あのさあ、勝木さん」と、いきなりガラが悪くなった。テーブルに片ひじをのせ、ぐっと体をのり出す。
「その台詞、私が男でも言う?」
勝木の返事を待つまでもなく、「私が女で母親だから聞いたんでしょう。じゃあ、平田君と飲んでも、娘がいるんだろ? 早く帰らなくていいのか? って聞く? 聞かないですよね。それって子供の世話をするのは母親だって決めつけてるってことですよね」
就学前の子供がいる徳丸はいつも定時で退社する。勝木も新聞社の文化部にいた頃は定時退社を日課にしていたが、それは一刻も早く一杯やりたいからで、その分誰よりも早く出社していた。そんな勝木とはちがい、徳丸が早く帰るのは子供を保育園に迎えに行くためだと思っていた。勝木としては気を使ったつもりだった。というより、自然と出てきた言葉だった。
しかし、指摘されてみると反論の余地が見つからず、たしかに彼女の言うとおりだと思った。こういうとき勝木は、自分のことを時代の流れに取り残された人間だと感じる。終わった人間、用済みの人間だ。まるで重いものを手渡されたようにはっきりとそう感じるようになったのは、妻の美和子を見送ってからだ。
悪かった、と言おうとしたとき、
「なーんて。本気で勝木さんを責めてるわけじゃないからそんな顔しないでくださいよ」
徳丸はおどけた。その笑みはなにかを振り払おうとするようにも見えた。
「ときどき、世の中のすべてにムカつくんですよね。もし私の手のひらに地球がのってたら、迷わず床に叩きつけて粉々にしますよ。みんな死ね、って叫びながら。あのなにもかもをぶっ壊したくなるほどの怒りってどこから生まれてどこに向かってるんでしょうね。自分でもわかんないです」
そう言うと、うふふふ、となぜか恥ずかしそうに笑った。けっこう酔っているのかもしれない。
「みんな死ね、か」
勝木は自然とつぶやいていた。迷いなく発せられたその言葉を胸で嚙みしめ、彼女は普段その衝動をどこにしまっているのだろう、と考えた。
「なんだか少しずつ毒を飲んでる感じなんですよね。たまに解毒しなきゃ自分の毒に当たって自家中毒になっちゃいますよ。……さっきの話ですけど」
「ん?」
「みんな大量殺人より、芸能人のスキャンダルに興味があるって話」
「ああ」
「結局、私たちって他人が失敗したり転落したりするのを見るのが好きなんですよ」
他人の不幸は蜜の味、と勝木は声にはせずにつぶやく。たしか自分と似た境遇の人が不幸な目に遭うと脳が歓ぶことは科学的に実証されているはずだ。
「そんな自分の狭量さに自己嫌悪の日々ですよ」
「客観的に考えられるんだから立派だと思うけどな」
本心からの言葉だった。
勝木は、徳丸の言葉どおり自分はいい時代を生きてきたと思っていた。世の中に対して憤りや無力感を覚えることは多々あったが、少なくとも少しずつ毒を飲んでいる感覚はなかったし、自家中毒を起こすこともなかった。そういう時代の空気だと思っていたが、単に恵まれた環境にいたからかもしれない。
そこまで考えたところで、勝木は自分の人生をすでに終わったものとして見ていることに気づいた。そして、終わってみると自分の人生は完璧に幸せだったのだな、と改めて思った。
「……って思ってます」
徳丸がつぶやいたが、隣席のサラリーマンの笑い声にかき消された。
「ん? なんだって?」
勝木は耳を近づけた。
「ざまあみろって思ってます」
徳丸の声は予想外に大きく、勝木の鼓膜を震わせた。ぎくりとした勝木に、「ほら、豊洲バーベキュー事件の犯人の言葉ですよ。その気持ち、わかる気がする」と徳丸は続けた。
ああ、そうだ、と思い出した。
──ざまあみろって思ってます。
取り調べ中、丸江田はこう言ったという。
その言葉が大きく取り上げられたため、一方的に恨みを募らせたことによる犯行だと世間は受け止めた。
しかし、実際のところ丸江田ははっきりとした動機を口にしていなかった。
(つづく)
特集『レッドクローバー』
シリーズ累計40万部突破『あの日、君は何をした』の著者、まさきとしかさん書き下ろし長編『レッドクローバー』特集記事です。
北海道の灰色に濁ったゴミ屋敷で、一体何があったのか。
極上ミステリ!