発売後、思いもしない結末を迎える展開と、出てくる女性たちの強烈な個性と、そして、「目を背けたい」のに「なんとなくわかってしまう」人間の真理に反響続々のミステリ『レッドクローバー』。読み出したら止めることができない一気読みミステリですが試し読みを始めます。
* * *
その夜は気持ちが昂り、布団に入っても眠れそうになかった。
ちひろは目を開き、階下の物音に耳を澄ませていた。
テレビの大音量がふつっとやみ、すべての窓が閉められ、ドアが開閉し、トイレの水が流れて止まる。最後に寝室のふすまが勢いよく閉じられる。祖母が就寝前に立てる音だった。ちひろが驚いたのは、玄関に鍵をかけるのが就寝前だということだ。ちひろがそう言うと、「なんで家に人がいるのにわざわざ鍵をかける必要があるんだ?」と、祖母はわけがわからないといった顔をした。
すべての音がやむと、濃厚な夜がゆっくりと忍び寄ってきた。埼玉と灰戸町では静けさの質がちがって感じられる。埼玉にいたときはベッドに入ると部屋が物音を遮ってくれた。しかし、ここは虫の鳴き声が絶え間ないのに、その騒々しさが底知れない静けさを連れてきた。
枕もとの時計を見るとまだ九時半だった。
埼玉ではもっと遅くまで起きていた。それはわかるのに、なにをしていたのかがすぐに思い浮かばない。テレビを観ていたのだろうか、勉強をしていたのだろうか、それともゲームだろうか。いや、そんな時間までゲームをすることを母が許すはずがない。
ちひろは寝返りを打った。髪の毛がひと筋、頰に落ちた。その感覚に意識を集中すると、くちびるにかかりそうな髪の毛が少しずつ伸びていき、やがて自分のなかに入り込み、根を張る光景が思い浮かんで慌てて手で払った。
埼玉にいたときの自分がどんなふうに暮らしていたのか、なにを感じたり考えたりしていたのか。たった二日前までの自分がすでにおぼろげになっていることが怖かった。
あーもういらいらする、という母の尖った声。おまえはほんとに母親似だな、という父の嫌悪に満ちた顔。
楽しかったこともたくさんあるはずなのに、不快なことしか頭に浮かばない。無理に思い出そうとすると、それは自分によく似たちがう人の記憶のように感じられた。
ほんとうに楽しいことなどあっただろうか? そんな疑問が膨らんでいく。まるで自分が自分から切り離されているみたいだ。鼓動が速くなり、呼吸が浅くなった。
ちひろは目をぎゅっとつぶった。
まぶたの裏の暗闇に小さな破片が浮かんだ。三葉の手のひらにのっていた歯だ。
殺された女の人も、土のなかでこんなふうにゆっくりと記憶を失っていったのかもしれない。
そんなふうに考える自分を子供っぽいと思った。
神社の小屋の下に死体が埋まっているとか、町の人たちがグルになって殺したとか、三葉が殺された人の子供だとか、どれもほんとうだとは思えない。世の中には幼稚な噓をつく人がたくさんいることをちひろは知っている。
三葉は自分のことをほんとうの子供じゃないと言ったが、ちひろはいままで三人から同じような話を聞いたことがあった。なかには、自分のほんとうの両親は芸能人で、年に一度だけこっそり会いに来てくれるのだと言った子もいた。ちひろ自身も、ほんとうの親が別人だったらいいと願った時期もあったが、いずれも小学校の低学年までの話だ。いまではそんな奇跡みたいなことは起こらないと理解している。
しかし、その一方で、北海道の田舎の町では、あり得ないことが起こっても不思議じゃないという気もした。
ちひろは布団から出た。Tシャツとズボンに着替え、静かに階段を下りた。祖母の眠りが深いことはすでに知っている。
玄関のドアを開けて、夜のなかに体を滑り込ませるように外に出た。
街路灯の鈍い橙色が坂をぼんやりと照らしている。
ちひろは上へ向かって歩きだした。
まだ十時前なのに、あかりのついた窓はほとんどない。三葉が言ったとおり、このあたりは年寄りしかいないのかもしれない。家は上に行くほどまばらになり、空き地が占める割合が高くなる。空き地に棲む虫たちはちひろが近づくとぴたっと鳴くのをやめ、通りすぎるとまた鳴きはじめた。
無人の夜のなかを歩くのははじめての経験だった。街路灯と月明かりしかないのに、不思議と怖くなかった。人の気配がしないせいかもしれない。文句を言う人も、危害を加える人もいない。人々が死に絶えた世界を透明人間になってさまよっている気分になった。
ちひろは坂の下を振り返った。
海と町がしろじろとした月明かりに照らされている。重たげな海には月光の帯ができ、沖のほうにまばゆい光が点在している。はじめて見たとき超常現象かと思ったちひろに、あれは漁火といってイカ釣り漁船のあかりだと祖母が教えてくれた。
海のほうからぬるりとした風が吹き、前髪を揺らした。
知らない町にいるのだなあ、と思った。いまここにいる自分はほんとうに存在しているのだろうか。
十字路まで上り、左に曲がった。少し歩いて、闇神神社に続く石段の前で立ち止まった。
石段を見上げると、両側に茂った木々が覆いかぶさるようにして月明かりを遮っている。上のほうは漆黒に塗り潰され、鳥居は闇に溶けて見えない。
光さえ吸い込むような圧倒的な闇をちひろはいままで知らなかった。未知の闇を目にし、頭とは別に体が恐怖を感じ、背中に鳥肌が立った。ちひろは怖気づいた自分を鼓舞するために、はっ、はっ、はっ、はっ、と獰猛な獣を真似た息を吐いてみた。
そのとき、石段の上の闇のなかに光が見えた。小さいが、くっきりと明るく、まるで針の穴から陽光が漏れ出たようだった。それが懐中電灯のあかりだと気づくまでさほど時間はかからなかった。
──みんなでグルになって殺したからだよ。
三葉の言葉がよみがえった。
──だってこの町の人たちが殺したんだから。
石段を下りてきたのは女だった。
ちひろはとっさに隠れようとした。が、隠れようとしたことがバレるとひどい目に遭わされる気がして体が動かなかった。
ひゃっ、と声をあげたのは女のほうだった。自分の前にいるものの正体を確かめるために懐中電灯をちひろに向けた。
「あんた誰さ」
低い声はアニメの魔女を連想させた。
「望月です」
まぶしさに目を細めながらちひろは答えた。せっかく感じのいい笑顔をつくったのに、反抗的に見られないか不安になった。
「望月? 望月なにさ」
「望月ちひろです」
女は二、三秒の沈黙を挟んでから、あっ、と声をあげた。
「あんた、もしかして塩尻のばあさんのとこに来た子? 久仁子の娘かい?」
そういえば母がこの町を嫌っていた理由のひとつが、どこに行っても知り合いがいることだったと思い出した。
「そうです」
ちひろが答えると、女はやっと懐中電灯を胸のあたりまで下げてくれた。
「私、あんたのママの友達なんだよ。春香っていうの。いまは丹沢だけど、前は種田。種田春香ってママから聞いたことない?」
ちひろは首を横に振ったが、春香はがっかりしたようではなかった。
「で、ママは? 塩尻のばあさんちにはママと一緒に来たんだよね?」
ちひろは返事をためらった。
母はちひろを灰戸町まで連れてはこなかった。函館空港で飛行機を降りると、待っていた祖母に荷物を手渡すようにちひろを託し、空港から出ることなくそのまま羽田行きの飛行機に乗って帰っていった。そのときのことを思い出すと、耳の後ろがすうすうした。
「だーかーらー、ママはいまどこにいるのか聞いてんの。まだばあさんちにいるのかい。いるなら会いに行かないとね」
「ママはもう帰りました」
笑顔のまま答えたら棒読みの口調になった。
「なんだ、帰ったのかい。じゃあ、夏休みのあいだあんただけここにいるのかい。またママが迎えに来るんだよね?」
「いえ」
「いえ?」
「もうちょっとだけおばあちゃんのところで暮らすんです」
「あんただけ?」
「はい。おばあちゃんと一緒に」
おばあちゃんと、の部分を強調した。
「じゃあ、あんた置いてかれたってこと?」
春香の顔は細長く、意地悪そうに笑うと歯をむいた馬のようになった。
ちひろは手をぎゅっと握り、笑顔のまま首をかしげてみた。子供だから詳しいことはよくわからない、と伝わるように。
「へー。あんた置いてかれたんだ」春香は嬉しそうだ。「もしかして、あんたのパパとママうまくいってないんじゃない? 実は、そんな噂ちょっと聞いたんだよね。ねえ、どうなのさ。私、あんたのママの幼なじみなの。誰にも言わないからほんとのこと教えてよ。ママの相談にのってあげられるかもしれないよ」
ちひろは首を反対側に倒し、んー、と曖昧な声を出した。握りしめた手のひらに冷たい汗が滲んでいく。
春香は首を伸ばし、細い目をらんらんと輝かせてちひろの返事を待っている。
ほんとうに馬そっくりだ。そう思ったことを悟られないように笑顔を保とうとすると、力を入れすぎたくちびるの両端がぷるぷる震えた。
「あの、この上って神社があるんですよね」
無邪気なふりをしてちひろは話題を変えた。
え? と、春香の顔がにやつきを残したまま固まった。
「こんな時間にお参りしたんですか?」
「お参りなんかしてないよ。するわけないしょ。最近、運動不足だから階段を上り下りしてただけだって。そんなことより、あんたはどうしたのさ。こんな時間に子供がひとりで出歩いていいと思ってんの?」
急に保護者のような口ぶりになった。
「コーラが飲みたくなって、コンビニか自販機はないかなって探してたんです」
あらかじめ考えておいた言い訳を口にすると、「こんなところにコンビニも自販機もあるわけないしょ」と春香は笑った。
「ばあさんには言ってきたの?」
想定していなかった質問に、「いえ」と正直に答えた。
「じゃあ、ここで会ったことはふたりだけの秘密ね。いい? 誰にも言っちゃだめだよ。もし言ったら、夜にふらふら出歩いてたこと、ばあさんに言いつけるからね。わかった?」
「わかりました」
「あんた、夏休み終わったら奥山小学校に通うの?」
「そうです」
「私の娘、一年生なんだ。富恵っていうの、丹沢富恵。仲良くしてね」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
ちひろは頭を下げた。
春香は満足そうに笑うとなぜか林のなかに入っていき、次に現れたときには電動自転車を押していた。
木の陰に電動自転車を隠していたのだと察した。ということは、闇神神社に来たことを誰にも知られたくないのかもしれない。だから、ここで会ったことは秘密だと言ったのか。
春香が去ってから、ちひろは石段を見上げた。
さっきよりも闇が濃く見えた。
──みんなでグルになって殺したからだよ。
三葉の言葉が耳奥で響いた。
(続きは単行本でお楽しみください)
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