昆虫図鑑制作の苦しくも楽しい舞台裏をつづった、丸山宗利氏の『カラー版 昆虫学者、奇跡の図鑑を作る』(幻冬舎新書)が発売即重版となり大きな話題を呼んでいる。
今回は本書の一部を紹介。7000種も撮影したのに図鑑に載ったのは2800種。しかし4200種の「犠牲」があったからこそ良いものができたのだという。
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まさか編集者は1人?
時は流れ、秋が深まると、だんだんと編集作業が本格化していき、『学研の図鑑LIVE 昆虫 新版』の編集者である牧野嘉文さんからの指示がわれわれ制作陣にLINEで飛ぶようになった。
実は、最後まで口に出さなかったが、私はどこかの段階で編集プロダクションの人が数名入って、実質的な編集はその方たちが行うのだろうと思っていた。しかし、いつまで経ってもその様子はない。
「これは牧野さんが1人でほとんど全部編集するのか」と確信したのは、編集が本格化してしばらくした時のことだ。
これまでにたくさんの本の制作に携わってきたが、このような大規模な企画で、出版社の編集者1人が直接すべて編集するという経験はほとんどない。
これには驚くとともに、この先の牧野さんの膨大な仕事量が心配にもなった。
7000種以上を2800種に絞る
それからは写真や掲載種の選定だ。まず、甲虫に関しては、2600種以上の写真が集まっており、写真数そのものが膨大だったので、1種につき1枚、変異がある場合は2枚を選ぶ作業を始めることにした。
あまりにも大変な作業になりそうだったので、2021年10月末に牧野さんとともに伊丹市昆虫館に集まり、図鑑副監修の長島聖大さんのパソコンを見ながら作業することにした。同時に、今後の編集方針の打ち合わせをおこなった。
長島さんにはいろいろな謎の特技があるが、データの整理というのが非常に得意で、コマンドを組んで効率的に作業を行える。
しかし、写真そのものの選定はそうはいかない。一枚一枚見ながら、1種ごとに写真を確定していく。その際、「これは重要種なのに良い写真がなかった」と気づくこともあった。
いずれにしても大変な作業で、結局、伊丹市昆虫館で作業した丸2日間で、甲虫全体の5分の1しか終わらなかった。
あとはウェブ会議で進めたが、膨大な時間がかかったことは言うまでもない。
その後、私が過去の学研の図鑑や他社の図鑑を見ながら、当初からの方針である「普通種をできるだけ載せつつ、美しい種や驚くような珍しい種を交ぜる」という観点で、甲虫の各ページの掲載種を決めていった。
並べる順番というのも大切なので、あとで入れ替えの手間が少なくなるよう、パワーポイントで位置を決めて、それを牧野さんに送り、牧野さんがそれをさらに細かく調整し、画像とともにデザイナーさんに送るということが続いた。
また、その他の昆虫に関しては、「この目(もく)は4ページなので、虫の大きさから考えてだいたい50種を選びましょう」というような感じで、牧野さんから各担当者に選定と順番の決定をお願いした。
基本的に原寸大で掲載するが、何種載せられるかはレイアウトを組んでみないと正確にはわからないこともあり、少し多めに選んでもらって、仮組みの段階で調整するというのが基本方針だった。
その際、読者のために重要な種の最良の写真を掲載するという姿勢を崩さず、撮影者や協力者への忖度(そんたく)は行わないようにした。
最終的には7000種以上の写真が集まっていて、仕方ないとはいえ、写真を削り、掲載種を削るというのは胸の痛む作業でもあった。とくに、重要種だと思い、協力者に採集をお願いして撮影したにもかかわらず、どうしても掲載できなかったものは、大変申し訳なく思った。
しかし、どんなものでもそうだが、本当に良いものを作るには、たくさんの無駄が必要だ。
最小限の材料では、決して良いものはできない。今回の図鑑では、最終的には約2800種を掲載したが、3万枚を超える写真と4200種以上の「犠牲」があって初めて、2800種の内容が良いものとなったと確信している。
また、多く撮影したからこそ、必要な重要種がほとんど網羅できたということも大切な点だ。
毛虫の毛を残す画像編集の妙技
レイアウトと同時に進行していたのが、長島さんによる白バック処理作業である。各ページにどの種を載せるのかが決まると、牧野さんが長島さんに、それら掲載種の一覧を送り、それを見ながら長島さんが白バック処理をするという作業が続いた。
制作初期に撮影隊に対してオンラインで行なった、長島さんによる白バック撮影講座のころ、長島さんが伝えた撮影の大切なコツとして、背景を真っ白に飛ばすように撮影しないという点があった。
そうすると虫本体の色も明るくなりすぎてしまい、写真から必要な情報が消えてしまうことがあるからだ。いわゆる「露出オーバー」だ。そのため、少し暗めに撮影することが全員に言い渡された。
ただ、逆に暗すぎると、「黒つぶれ」といって、黒っぽい昆虫の表面構造の情報が撮影できていないということにもなりかねない。その暗さの度合いも大切な点なのである。
そして、白バック処理というのは、虫本体の色彩を適切なものに調整し、背景をきれいに白く飛ばすことだ。
おそらく、長島さんほどそれが上手い人はそうそういない。たとえばケムシのような毛深い虫は、普通に処理をすると、細い毛は一緒に飛んでしまう。ところが長島さんには毛を上手に残し、なおかつ背景を真っ白にするという芸当が可能だ。
ただ、すべてが簡単にできるわけではなく、撮影者や使用するカメラの機種によっては、かなりの癖があり、1枚に相当な時間を要する場合もあったようだ。
また白バック処理が終わればそれで終了というわけではない。多くはRAWという、たくさんの情報を含んだネガのようなデータから、現像して処理を行うのだが、場合によってはレイアウト後に執筆者から「もう少し明るく」「赤みを少なく」というような指示が入り、RAWから処理をやり直すことも再三あった。
長島さんには日常の昆虫館の業務があるし、カメムシ目の担当でもあったので、その部分の種選定や執筆も行わなければならない。厳しい日々の始まりだった。
「子ども科学電話相談」の経験も生きた
各種解説の執筆にあたっては、牧野さんがウェブ上で全員で共有できるエクセルを作り、必要な情報をセル(表のマス)ごとに執筆者が埋めていくという方針にした。
甲虫に関しては、執筆担当者たちで生態の記述に関して侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をしながらやっと書き上げることができた。
何しろ昆虫は種数が多く、新版に掲載されている種であっても、すべてについて、文献で生態が詳しく紹介されているわけではない。甲虫に関しても、私たちのこれまでの観察経験を記述するほかないものが多く、その経験を議論して均(なら)す必要があった。
さらに、名前や生態を調べるのに役立つのはもちろんのこと、読んでいても面白いものにしたく、各種の解説ができるだけ個性的になるよう、注意を払った。ほかの分類群の多くは1人の執筆者によるもので、きっとまた違った苦労や葛藤があったことだろう。
甲虫に関しては、掲載種が1000種ほどと種数が多いので、執筆中に同定の問題に気づいたり、写真に適当なものがなかったりもした。
校正の段階で「同定が間違っていた!」と気づいたり、科の所属の変更に関する論文が出て焦ったりすることもあった。別の専門家に同定やその確認をお願いしつつ、執筆を進めながらも、あわただしく内容の再検討が続いた。
今回、甲虫類各種の執筆はあくまで私の副次的な仕事であり、本来の私の担当は、図鑑全体の主要部分の解説だった。
図鑑のおおまかな構成は、昆虫の多様性や進化に関する昆虫全体の概論、目(もく)ごとの概要や体のつくりの解説、そして各目(もく)の種解説だ。概論以外の部分を先に片づけていく方針で、目ごとの解説をどんどんと書いていった。
さらに、各見開きの最初にリード文というものがあって、文章や表現の統一性を持たせるため、そこも私が基本的にすべて書くことになった。
いずれも、わずか数百字の短い解説の積み重ねなのだが、実はこれが気の遠くなるほど難しい作業だった。
たとえばリード文はわずか200~300字にもかかわらず、それを書くために論文をいくつも読んだということはざらだ。必要な情報をできるだけ詰め込みたいが、子供が理解できないような内容では仕方ない。
また、出現期や食べ物など、そのページの種のすべてに共通する特徴がある場合、種の解説部分でそれを削り、リード文に入れ込むなどの調整も必要だった。
子供向けの文章というのは本当に難しい。
今回、文章を担当していただいた皆さんに私が伝えていたのは、「正確さも大切だが、細かい例外にこだわりすぎるより、本質的な部分を簡潔に説明することが重要」ということだ。
ある物事に詳しい人が文章を書くと、どうしても例外を思い浮かべ、短い文章に書ききれなかったり、「など」を多用したりして、冗長な含みのある表現にしてしまいがちである。
しかしそれは読者である子供には不親切であり、専門家の臆病なプライドと自己満足の発露にすぎない。
私はNHKの「子ども科学電話相談」というラジオ番組にも出ているが、いつも回答には迷い、専門家たる自分との戦いがある。
子供への説明においては、いかに簡潔に要点を述べるかということが大切だ。「細かい例外にこだわるな」というのは、そのような経験のなかで培った子供向けの文章の重要なコツだと思っているが、意外にこれを心得ている専門家というのは少ない。
教育や普及啓発において、物事を長くても正確に説明することこそ「誠実」だという見方もあるだろう。しかし、短く端折(はしよ)ってでも、伝えるべきことをしっかりと伝えることも誠実さである。
両立できればよいが、それは容易でないことが多い。これは常に問い続けなければならない課題だと思う。
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