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しらふで生きる

2022.10.30 公開 ポスト

「禁酒宣言」はやめておけ 芥川賞作家にとっての真面目さと不真面目さ町田康

芥川賞作家でミュージシャンの町田康さんは、30年間、毎日お酒を飲み続けていたそう。それがある日、お酒を飲むのをぱったりとやめました。いったいどのようにしてお酒をやめることができたのか? お酒をやめて、心と身体に、そして人生にどんな変化が起こったのか? 現在の「禁酒ブーム」のきっかけをつくったともいえる『しらふで生きる』から、一部を抜粋します。

*   *   *

「禁酒宣言で背水の陣だ!」

世の中にはいろんな宣言がある。いまの人はよく知らないかも知れないが、自分なんかが子供の頃、学校で習ったのは昭和天皇の人間宣言ってやつで、前の戦の後、それまでは現人神・現御神ってことになっていた天皇が、いや、それは神話・伝説であって……、という意味の詔勅を出して、これが人間宣言と呼ばれた。

その人間宣言に先だっては米英支三カ国が発した共同宣言があった。世に言うポツダム宣言である。

作家の筒井康隆氏はかつて言論弾圧に抗議して断筆宣言をした。

同じく作家で長野県知事を務めた田中康夫氏は無駄な公共事業を削減するべく脱ダム宣言というのを出した。

いずれも、自分の考えや意見、今後の方針を広く社会に発表したものである。

(写真:iStock.com/itakdalee)

というと、帝王や政治家、著名な作家でなければ宣言ができないように聞こえるが、そんなことはなく宣言は誰でもできる。宣言するための資格や条件は特になく、供託金・保証金といったものも必要ない。

なのでいまこの瞬間も多くの国民が様々な宣言をしている。

ダイエット宣言明日から働く宣言、はたまた、明日、仕事辞める宣言宅建取るぞ宣言今年中に結婚する宣言今年中に彼氏作る宣言パチスロやめる宣言マンション買う宣言……、と、そりゃあもうありとあらゆる宣言が世の中に発表されている。

そのなかには勿論、禁酒宣言、もあるに決まっている。

 

しかしこの禁酒宣言を聞いたことのある人は意外に少ないのではないだろうか。私自身、禁酒宣言を聞いたことが殆どない。

その理由は禁酒宣言を出す人が酒飲み・酒徒であるからだと思われる。というと、なにを当たり前のことを言っているのだ、と思われるかも知れないが、これは実に深刻な問題で、酒飲みにとって酒を飲むか飲まないか、或いは、飲めるか飲めないか、というのは人生を左右する、いわば死活問題で、どんな局面に於いても酒を飲むべく、さまざまに心を砕き算段する。

ところが一度、禁酒宣言をしてしまったら、算段もへったくれもなく酒が飲めない。ならば最初からそんな馬鹿な宣言はしない方がまし、とこう考えて酒飲み・酒徒は容易に禁酒宣言をしないのである。

 

しかし酒徒はときに、様々の、明快な、或いは不明快な理由で酒をよそうと強く思う。そうしたとき酒徒がどうするかというと、禁酒宣言より一段階下の、節酒宣言、を出す。

けれどもこれは効果が薄く、ダイエット宣言と同じぐらいの重みしかない。なので宣言して暫くは効力を発するがやがて、宣言した当人、これを聞いた世間、いずれも忘却してしまい、すべては旧に復する。

ということは。そう、それだけ重みのある禁酒宣言なのだから、やはりした方がいいのではないか。背水の陣、もうこれ以上、後がない、言い訳のできないどころか、一歩も引けないところまで自分を追い詰めてこそ、人は能く大事を為し得るのでは。てなものである。

 

尤もな考えであるが結論から言うと、私はこれはやめておいた方がよいと思う。というのは、人間にはけっこう真面目な人と比較的不真面目な人があるが、そのどちらにとっても、よい結果をもたらさないと思われるからである。

どういうことか。まず不真面目な人について考えると、もちろん不真面目な人と雖(いえど)も、その人が酒徒であれば酒を飲む/飲まないは人生の重大事で深刻に考えざるを得ず、僧人にとっても禁酒宣言は重いし、背水の陣であることは間違いがない。

しかし、一口に川と言ってもいろんな川があり、真面目な人の背後の川は滔滔たる大河であるが、不真面目な人の背後の川は、ほんの一またぎの小川であったり、甚だしきにいたっては、よく整備された都市公園の、「せせらぎ広場」的な場所の人工的な水の流れで、かたえでは三歳の幼児が楽しげに水遊びをしている、なんてものであることもある。

なので退いて水に浸かったからといって、命に別状があるわけでもなんでもなく、「でも背水には違いないでしょう」と言って口を尖らせている、みたいな人は不真面目な人で、こんな人にとって、宣言は大した意味を持たない。本人的には重みがあっても社会的な意味が皆無なのである。

 

ああ、一応、念のために言っておくと、不真面目な人、或いはふざけた奴、とおもしろい人というのはイコールではない。私の知る限り、それはむしろ逆で、おもしろい人はみな真面目、それもクソ真面目な人が多く、不真面目な人はおもしろくないだけではなく、周囲を不快にしたり、近隣に迷惑を及ぼしたりする人が多い。

というわけで不真面目な人にとって禁酒を宣言するのはあまり意味がなく、してもしなくても結果は同じである。

不利な場所に陣を敷く必要はない

一方、真面目な人はどうか、というとこれはこれで深刻で、真面目な人は真面目なので、なにがあってもどんなことがあっても約束したことはこれを実行しなければならない、と思い込んで、それに向けて努力するのであり、例えば、「夕方までに土囊を千袋運べ」と言われたら、なんとかして運ぼうとする。

(写真:iStock.com/yamasan)

ところが土囊は一袋の重さが七十キロもあり、これを千も運ぶのはどう考えても不可能である。だから言った方だって別に本当に千袋運ぶとは思っておらず、目標値は高めに設定しておいた方がよいが、実際のところはまあ百五十も行けばいい方なんじゃないのお? と思っていた。

ところがいまも言うように真面目な人はこれを真に受けてしまい、なんとかして千の土囊を運ぼうとする。けれどもそんなことが人力でできるわけがない。で、どうなるかというと、七百くらい運んだところで血反吐を吐いて死ぬ、みたいな不幸が起こる。もちろん、現実的にそこまで行くことは少なく、多くの場合、挫折して逃亡する。しかしこのことは真面目な人の心に重い負担としてのし掛かってくる。そこで真面目な人は、自らを防衛するべく行動に出る。どうするかというと、「自分は悪くない。土囊を千も運べと言う奴が悪いのだ」という理論(実際、そうなのだが)を打ち立て、「土囊を千も運べと言う方が間違っている。断固、抗議する」と食ってかかり、ひとり革命運動を展開して、「わかった。じゃあ、帰っていいよ。そして明日から来なくていいよ」と言われる。

或いはもう理論もなにもない、鼻血を噴出させながら、デスメタルをアカペラで歌うなどして暴れて、周囲の人に、「あいつ、やばいよね」と言われて孤立する、みたいなことになる。

 

だからそんなことにならないためにも、適度に力を抜いて百二十くらい運んで、「いやー、百で限界っすよ」「だよなー。俺もそう思うよ」「だったら最初から千とか言わないでくださいよ」「だよなー。くわつはつはつはつはつ」「くわつはつはつはつ」みたいなことにしておけばよいのだが、真面目な人にはそれができない。

 

そしてこれを禁酒宣言に当てはめると事態はよりいっそう深刻なものとなる。

というのは、だってそうだろう、土囊を運べと言ったのは赤の他人であり、自ら宣言したわけではないが、禁酒をすると宣言したのは他ならぬ自分であり、真面目な人にとってこれは途轍もない重圧となる。

そして何度も言って申し訳ないが、酒飲みが意志の力で完全に酒をやめるのは重い土囊を千袋運ぶより辛いこと、苦しいことで、もちろん挫折する。そして不真面目でテキトーな人だったら、「いゃー、やっぱ飲んじゃいますよね。僕もう明日からわらじ履きで出社しますよ。主食は土囊って感じで」みたいないい加減なことを言って済ますところ、真面目な人はそうはいかず、自分の意志の弱さを自分で責め、その責めに耐えられず、結局は酒に逃げ、そうして飲んでいる自分をまた責め、さらに酒を飲むという地獄のスパイラルに陥っていく。そうして大酔した挙げ句、身近な人に、「こんな俺を軽蔑しているのだろう。内心で嗤っているのだろう」と言いがかりをつけ、「そんなことありません」と否定しても聞かず暴力をふるったり、岩の下敷きになった人や岩のりを採集する人の形態模写をするなどして迷惑を撒き散らす。

或いは、挫折にすら至らず、酒をやめると宣言した以上、酒をやめなければならない、と思った瞬間、プレッシャーに押し潰されて酒を飲み始めるのかも知れない

そうなるともうこれは真面目なのではなくてふざけているのではないか、と思ってしまうが、極度に真面目な人はそれほどに真面目なのである。

 

という訳で真面目であろうと不真面目であろうと、禁酒宣言することはよい結果を生まないということがわかった。

また、それだけではなく禁酒宣言は当人に非常な不利益をもたらすことが最新の研究でわかってきた。というのは仮に頑張って、死ぬほどの痛みと苦しみを感じ、血の涙を流して、あらゆる業苦と果てしのない劫罰に耐える思いで、一週間、酒をやめたとする。このとき周囲の人にポツリと、「一週間、酒を飲んでないんだよ」と洩らしてみる。

このときの周囲の反応が、宣言をしているか、していないかで大きく異なるのである。

禁酒宣言をしていない場合、周囲は、「ほう、あなたのような大酒飲みが一週間も飲まないなんて凄いですな」と言うなど概ね好意的で称賛されることすらあるのに比して、宣言をしている場合だと、「まだ、一週間ですか。先は長いですな」と言うなど、否定的とまでは言えないにしても、当然のことと認識されるだけで、好意的な印象を持つ、ということは殆どない。

そしてそれだけならまだしも八日目に酒を飲んだときの評価はさらに極端で、宣言をしていない場合、今度はそれが(飲むのが)当然のこととして受け入れられるのに比して、宣言をしてしまった場合、「あああああっ、飲んでるうううっ。やめるって言ったのに」と非難がましい口調で言われ、「こいつは本当に昔から口先だけの奴でね」など言われて人格的評価がだだ下がりに下がり、やがてそれが広まって、意志薄弱で重要な仕事は任せられないクズ人間、という評判が定着するのである。

 

このような結果を見れば宣言をするかしないかどちらがよいかは明白であろう。他にいくらでも陣を敷く場所があるのになにもわざわざ不利な場所に陣を敷く必要はまったくないのである。

ではどこに陣を敷けばよいのか。

関連書籍

町田康『しらふで生きる 大酒飲みの決断』

30年間、毎日酒を飲み続けた作家は、突如、酒をやめようと思い立つ。絶望に暮れた最初の三か月、最大の難関お正月、気が緩む旅先での誘惑を乗り越え獲得したのは、よく眠れる痩せた身体、明晰な脳髄、そして寂しさへの自覚だ。そもそも人生は楽しくない。そう気づくと酒なしで人生は面白くなる。饒舌な思考、苦悩と葛藤が炸裂する断酒の記録。

町田康『リフォームの爆発』

マーチダ邸には、不具合があった。人と寝食を共にしたいが居場所がない大型犬の痛苦。人を怖がる猫たちの住む茶室・物置の傷みによる倒壊の懸念。細長いダイニングキッチンで食事する人間の苦しみと悲しみ。これらの解消のための自宅改造が悲劇の始まりだった――。リフォームをめぐる実態・実情を呆れるほど克明に描く文学的ビフォア・アフター。

町田康『餓鬼道巡行』

熱海在住の小説家である「私」は、素敵で快適な生活を求めて自宅を大規模リフォームする。しかし、台所が使えなくなり、日々の飯を拵えることができなくなった。「私」は、美味なるものを求めて「外食ちゃん」となるが……。有名シェフの裏切り、大衆居酒屋に在る差別、とろろ定食というアート、静謐なラーメン。今日も餓鬼道を往く。

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しらふで生きる

元パンクロッカーで芥川賞作家の町田康さんは、30年間にわたって毎日、お酒を飲み続けていたといいます。そんな町田さんがお酒をやめたのは、いまから7年前のこと。いったいどのようにしてお酒をやめることができたのか? お酒をやめて、心と身体に、そして人生にどんな変化が起こったのか? 現在の「禁酒ブーム」のきっかけをつくったともいえる『しらふで生きる』から、一部を抜粋します。

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町田康

1962年大阪府生まれ。町田町蔵の名で歌手活動を始め、1981年パンクバンド「INU」の『メシ喰うな』でレコードデビュー。俳優としても活躍する。1996年、初の小説「くっすん大黒」を発表、同作は翌1997年Bunkamuraドゥマゴ文学賞・野間文芸新人賞を受賞した。以降、2000年「きれぎれ」で芥川賞、2001年詩集『土間の四十八滝』で萩原朔太郎賞、2002年「権現の踊り子」で川端康成文学賞、2005年『告白』で谷崎潤一郎賞、2008年『宿屋めぐり』で野間文芸賞を受賞。他の著書に『夫婦茶碗』『猫にかまけて』『浄土』『スピンク日記』『スピンク合財帖』『猫とあほんだら』『餓鬼道巡行』など多数。

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