オカルトホラーの新星、滝川さりさんの新刊『めぐみの家には、小人がいる。』の試し読みをお届けします。
机の裏に、絨毯の下に、物陰に。小さな悪魔はあなたを狙っている――。
大人たちまでがそう呼ぶようになったのは──夏休み前の「ある事件」がきっかけだ。
その日の新聞記事は、職員室でも回覧された。
異人館で変死体発見 女性死亡
9日夜、××県神海市喜多野町の異人館で、女性から「母親が死んでいる」と110番通報があった。××県警神海東署から警察官数名が現場に向かい、無職女性(72)が死亡しているのを発見した。
捜査関係者によると、遺体は全身に細かい穴があいており、一部は腐敗していたという。同署は事件と事故の両面で捜査を進めている。
「全身に細かい穴」……美咲はつくづく、記事を読んだことを後悔した。
想像してしまったのだ。全身に小さな穴があいた死体を。
頭から爪先まで細い針か何かで刺され、その全てからぷっくりと血の玉が湧いてくる。
赤い斑点まみれになった老婆の死体──
胃の奥から何かがこみ上げてきて、美咲は頭を左右に振った。
そのとき、足許をさっと何かが通って、美咲は短い悲鳴をあげた。
見ると、黒猫が片足を上げたまま、緑色の目をこっちに向けている。
その口が、何か小さいものを咥えていた。わずかだが動いている。
薄暗い中でも、赤いものが点々と土に落ちているのがわかる。
血だ。食べられているのは生き物だ。
何だろう、あれ──
美咲は屈んで確かめようとしたが、獲物を奪われると思ったのか、猫は後ろの方へ飛びのいてしまった。
「あっ」
「先生」
振り返ると、冴子が開け放した扉の前に立っていた。足許にあるランタンで全身が照らされている。モカ色のセーターに、黒のロングスカート姿だった。
「こんばんは。お忙しいところすみません、先生」
声は、相変わらず無機質な感じがした。
「いえ、こちらこそ、夕食時に押しかけまして申し訳ありません」
「とんでもないです。……どうぞ」
美咲は振り返ったが、すでに猫は消えていた。前庭を抜けて、玄関へと進む。
家に入ると、暖かい空気に包まれる──と同時に、全身が粟立つのを感じた。
思わずあたりを見回す。広い玄関は、蜂蜜のような重い灯りの中に沈んでいる。
ふと横を見ると──靴箱の上に、大きな絵が飾られていた。
何の絵なのか、すぐにはわからなかった。荒れ狂う夜の海にも、巨大な黒い獣にも見える。やがてそれが森の絵だとわかったとき、美咲は、身体の奥が震えた気がした。
闇を吸ったような深緑の森……その入り口だろうか。絵の右側には靄(もや)のような優しい光が描かれている。一方、絵の左側──森の奥には、息が詰まりそうな闇が佇んでいた。右側の光が陰影を含んで立体的に描かれているのに対して、左の闇は平面的な黒に塗り潰されている。一歩でもそこに踏み込めば、底なし沼のような闇に捕まって二度と戻れない──そんな気がして、美咲は視線を絵から引き剥がした。
先に進んでいた冴子が、スリッパの中に手を入れてから、こちらに差し出した。
「どうぞ。……コートはこちらに」
冴子は美咲の手からコートを受け取ると、木の形をしたアンティーク風のコートハンガーにかけた。廊下には赤い絨毯が敷かれ、すぐそこに二階へと続く階段がある。ダークブラウンの腰壁が、重厚な雰囲気を醸していた。奥からはやはり、ビーフシチューの芳しい匂いがする。
おかしなものは何もない。だが、奇妙な感覚は今も肌にまとわりついている。
それは、昼間、冴子に感じた「胸のざわつき」と同じものだった。
まるで、何かにじっと見られているような……
「古びた家で驚かれましたか」
立ち止まった美咲に、冴子が言った。
「あ、すみません、何だか外国のおうちみたいで、びっくりして……」
冴子は、初めて微笑みを見せた。
「失礼ですけど、先生はおいくつですか」
「二十六です」
「お若いのね。……先に、お茶でもいかがですか」
「いえ、ご迷惑になりますので」
家庭訪問のときには、極力飲食の提供は受けないようルールがある。コーヒー一杯でも、贈賄と取る保護者がいるからだ。
しかし、そんなルールがなくても、この館に長居しようとは思わなかっただろう。
「そうですか。……どうぞ、めぐみは二階の自室にいます」
玄関からは、階段の踊り場に飾られた女性の肖像画が見えた。大きな茶色い瞳がこちらを見つめている。先ほどの感覚は、あの絵のせいだろうか。
スリッパを履き、冴子に続いて階段を昇る。
踏板はぎしぎしと鳴り、館の古さを訴えてくる。
すると、くしゃりと乾いた音が鳴った。
見ると、飴玉の包み紙が落ちている。
あの子ったら、と冴子はそれを拾い上げ、スカートのポケットに入れた。
よく見ると、階段や廊下には点々とお菓子の袋が落ちている。キャンディーやクッキー、チョコレート……空の袋もあれば、中身が入ったものもある。めぐみが家中に落としているのだろうか。そんなにだらしない子には見えなかったが。
踊り場にさしかかり、美咲は肖像画を横目で見た。
古い絵だ。ドレスを着た茶髪の外国人女性が、真顔と笑顔の中間くらいの表情を浮かべて椅子に座っている。
「ゲオルグの娘で、私にとっては高祖母にあたります」
冴子が言った。簡単に言えば、ひいひいおばあちゃんだ。言われてみれば、めぐみにもどこか似ている気がする。
二階に上がると、見られている感覚はますます強くなった。
やはり踊り場の絵のせいではない。美咲は、この感覚を知っていた。
まだ教育実習生のとき。初めて教壇に上がって、子供たちの視線を一身に浴びたときの居心地の悪さ。あれに似ている。
たくさんの目に見つめられる感覚。
「めぐみ。……立野先生がいらしたわよ」
気のせいだ、と美咲は自分に言い聞かせる。「あの事件」が頭にあって、不安になっているだけだ。
「めぐみ。めぐみ。……入るからね」
返事はなかった。冴子は扉から離れ、手を扉に向けた。どうぞ、ということらしい。
めぐみの家には、小人がいる。
滝川さりさんの新刊『めぐみの家には、小人がいる。』の情報をお届けします。
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