バブル末期、巨大自動車会社の最新モデルの部品製造を下請けした飯野電気。工場の全員が連日の深夜残業と休日出勤で心身疲弊の極限に達し、暴行事件が発生。そして聞こえる奇怪な音。事故の連鎖、自殺、突然死、殺人、気づけばいたるところに隈笹が不気味に繁茂し――傑作ホラー『猿神』(太田忠司著)から、一部を抜粋してお届けします(毎週水曜公開/全5回)。
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プロローグ その前に
喜里工業団地はS県北部整備計画に基づき、昭和五十二年(一九七七年)に開発の基本計画が決定された。その計画範囲は喜里町陣屋西部から猿神にかけての約百五十ヘクタールを対象とするものであった。
土木工事施工主体である県企業局から県教育委員会に開発計画の通知があったとき、問題となったのは陣屋周辺の遺跡群だった。その名のとおり陣屋西部には江戸時代に多田藩の陣屋があり、それ以前にも住居があったことから遺跡が複数発見されていた。そのためあらためて調査が必要とされ、五十二年六月から発掘を実施、詳細な記録が残されることとなった。
一方、隣接する猿神地区についてはそうした調査の要不要が審議されることさえなかった。なだらかな斜面が続く猿神は隈笹が一面に密生するだけの土地で、歴史上そこに人が住居を構えた記録はなかったからだ。
十ヘクタールに満たないその地がなぜ猿神と呼ばれていたのか、陣屋の隣地であったのになぜこれまで人が住まなかったのか、明確に答えられる者は郷土史家にもいなかった。古い文献を漁っても猿神についての記述は一切なかったからだ。喜里の住民であの地を猿神と呼ぶことを知っている者さえ、ごくわずかだった。そこはただ「笹っ原」と呼び習わされていた。
笹っ原──その名はしかし、喜里町民にとってはいくらか暗い記憶を呼び起こすものだった。
笹っ原には行くな。子供の頃に年寄りからそう注意された者は少なくない。理由は聞かされない。ただ「行くな」と言われるだけだ。
当然その言いつけを守らず──あるいは言われたからこそ──笹っ原に遊びに出かける子供はいた。だが行ってみてもそこは笹が生い繁るだけの何もない土地だった。遊ぼうにも笹笛を吹くくらいのことしかできないし、下手に歩き回ると笹の葉に切られて手足が傷だらけになった。
笹っ原に長くいると、なんとなく気持ちが変になる、と言う子供もいた。なんだか心がざわざわして、怖くなってくる。ずっとここにはいられなくなる。
結局逃げ帰ってきた子供が奇妙な体験を話すと、年寄りはいつも頷いて言った。
そうだ。あそこは、そういう場所だ。だから行くな。
笹っ原が工事で潰されると聞いたとき、喜里の住人のうち何人かは、そのときのざわざわとした気持ちを思い出した。そしてあそこに人の手が入ることに、なんとなくだが危惧を覚えた。禁忌というほどではないが、あそこに手を付けるのは気持ちの良いことではなかった。とはいえ、反対を口にするほどでもない。ただ黙って、そのことは忘れた。
昭和五十四年(一九七九年)、造成工事が開始された。ブルドーザーが猿神に入り、隈笹は鉄の爪によって根こそぎ掘り返された。
その爪が笹と一緒に地面から掘り出したものがあった。腐った木片と、石で作られた像だった。
石像は稚拙な作りのものだった。ほぼ筋彫りで人とも獣ともつかないものが刻まれていた。直径二十センチほどの歪な筒形で、高さは五十センチ近くあった。それは地面に突き刺すように地中に埋められていた。
周囲にあった木片は石像のまわりにあった祠の名残だった。隈笹の中に埋もれ、長い年月を誰にも見つかることなく、その場に在った。郷土史にも記述はなく、説話の類も残されていなかった。
ブルドーザーの運転手も気付かないまま、石像は掘り起こされ、その爪で真っぷたつに折られた。
その瞬間、晴天にもかかわらず空に雷鳴のような音が響き渡ったのだが、ブルドーザーの振動と騒音に紛れて運転手はその音を認識しなかった。
こうして猿神の地は均され、広大な敷地が造成された。そこに嵯峨野精機喜里工場、飯野電気喜里工場、水上ゴム喜里製作所など、七つの工場が建設され稼働を始めるのに、更に三年の月日がかかった。
それぞれの工場で働く者たちは誰ひとりとして、そこに何が在ったのか知らなかった。
ただ工場内の芝生地に雑草と共に生えてくる笹の処理に悩まされるだけだった。
その日までは。
猿神
また、あれが鳴いた……今度はだれが死ぬんだ? 狂乱のバブル時代、自動車関連工場の絶望と恐怖。