バブル末期、巨大自動車会社の最新モデルの部品製造を下請けした飯野電気。工場の全員が連日の深夜残業と休日出勤で心身疲弊の極限に達し、暴行事件が発生。そして聞こえる奇怪な音。事故の連鎖、自殺、突然死、殺人、気づけばいたるところに隈笹が不気味に繁茂し――傑作ホラー『猿神』(太田忠司著)から、一部を抜粋してお届けします(毎週水曜公開/全5回)。
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二〇一七年 夏
ノンアルコールとはいえ、ビールを飲むのは久しぶりだった。一気に三分の一ほど胃に流し込み、水滴の付いたグラスを置く。冷たい感触が喉と指に残った。
塚田市郎は自分に飲むことを勧めた相手に眼を向けた。あちらは本物のビールを飲んでいる。白いテーブルクロスが掛けられたテーブルを挟んで向かい合っているのがなんだか滑稽に思えて、思わず笑ってしまった。
「何かおかしいですか」
すかさず尋ねられる。
「いや……またこんなふうにして一緒に飲む日が来るとは、思いもしなかった」
「たしかに」
相手も微笑んだ。「最後に一緒にお酒を飲んだのは、誰かさんの送別会でしたっけ」
「長尾君だ。本社に行った」
「ああ、そうでした……それにしても、いい景色ですね」
話題を逸らされたなと思いながら、塚田も視線を移す。五十二階の窓からは、この町のビル群が一望できた。
「ここも、変わったよ」
塚田は言った。「引っ越してきてすぐ駅ビルは建て替えられたし、隣にこんな大きなビルもできた。あの頃とは風景が全然違う」
「塚田さんも私も、すっかり変わってしまった」
「そりゃしかたないよ。もう三十年近く経ってるんだから。俺もすっかり爺さんだ」
「お孫さん、いるんですか」
「いや、まだ息子は結婚してない。するかどうかもわからないな。最近の子は結婚に消極的らしいから」
「それも変わったことですね。あの頃はまだ、男でも三十歳過ぎると『どうして結婚しないんだ?』と訊かれたりしましたから」
「米田さんのことか」
「ああ、あのひと。いろいろ言われてましたよね。もしかしたらゲイなんじゃないかとか」
「そんなこと言ってる奴がいたのか。ひどいな」
「あの時代はまだ、セクハラという言葉も広まってませんでしたから」
料理が目の前に運ばれてきた。くらげに叉焼に蒸し鶏の前菜。続いてフカヒレのスープ。そして北京ダック。
「なかなか豪勢なメニューだ。美味いよ」
塚田は言った。
「しかし高そうだな」
「値段のことは、今日は言わないでください。興が削がれます」
「悪かった。しかし、そろそろ興を削ぐようなことを言うんじゃないのか」
「それはもう少し料理が進んでからにしましょう。もう一杯いかがですか」
「じゃあ、烏龍茶にするよ」
その後も豪勢な料理が次々と出てきた。車海老のエビチリ、鮑の姿煮、牛肉のカキソース炒め。食べながら塚田はこのコース料理を一万円前後と推測した。かなり奮発したようだ。
それだけに、これからされる話が気になった。
デザートの杏仁豆腐が終わり、熱い烏龍茶が供される。それを一口啜ると、塚田は言った。
「そろそろ話してくれてもいいだろう?」
「そうですね。じゃあ」
相手は居住まいを正す。
「メールでお伝えしたとおり、私は今、ライターの仕事をしています」
「知っているよ。あのメールで教えてもらった、君が出した本というのを読んだよ。『生き残りたかったらライフサイエンスを学べ』だったかな。なかなか興味深い内容だった。新聞の広告でも『10万部突破!』とか派手に宣伝されてたね」
「恐縮です」
「君がライフサイエンスの分野にあれほど詳しいとは知らなかった」
「飯野電気を辞めてから勉強しました」
「このペンネームも、君にふさわしいな」
「あの話、覚えていてくださったんですね」
「印象深かったからね。ネットで調べてみたところ夢乃先生の本は他にもあるようだが、かなり手広くやってるようだな」
「他に料理やペットについての本も書いてます」
「ライフサイエンスと料理やペットの話は、どう繋がるんだ?」
「繋がりません。得意分野がひとつだけじゃ食べていけない業界なんで手広くやってます。昨日は紫蘇の葉の美味しい食べかたと夏に増える犬の病気についての記事を書きました。他にも芸能記事や嫁姑のトラブルについての記事も書いてます。まあ、何でも屋ってやつですね。その流れで今度は、バブルについて本を書くことになりました」
「バブル……あの時代のことか」
「はい。八〇年代前半の金融自由化を布石として、一九八五年のプラザ合意後の超金融緩和政策によって日本は金に溺れるような狂乱の時代に入りました」
資料をそのまま読み上げるように、言った。
「地価と株価は信じられないくらいに上がり、高いものほど飛ぶように売れ、誰も彼もが財テクに走り、ワンレン、ボディコンの女たちがジュリアナで踊り狂った」
「ジュリアナ東京ができたのはバブルが過ぎた後だ」
すかさず訂正を入れる。
「ああ、そうでした。テレビでバブルというとすぐにジュリアナでのダンスシーンを流すから、うっかり刷り込まれているようです。とにかく、浮かれた時代というのがバブル期の日本に対するパブリックイメージでしょう。でも、私たちはどうでした? あの時代を過ごしたはずの私たちは、そんな華やかな生活を送れましたか」
「いや」
塚田は即答した。
「あんなの、テレビの中だけの幻想だと思ってたよ」
「私もです。だから、そうでなかったバブルの話を書きたいんです。自分が実際に経験したあの時代の話を。となれば」
視線が、強くなった。
「当然、あの話も書かないわけにはいかない」
やはりか、と塚田は思った。バブル云々と言い出したときに、予期はしていた。自分にその話をするということは、あのことについて語れということだと。
「塚田さんに教えてほしいんです。あのとき本当は何があったのか」
「君も知っているとおりのことだ。新聞にも書かれた。事故だったんだ」
「いいえ、そうは思いません。塚田さんだってあれを見たはずです。あんなの事故なわけがない。あんな……」
言葉が途切れる。唇を嚙んでいるようだ。
「気持ちはわからないでもない」
塚田は穏やかに語りかけた。
「あの件ではみんな、ショックを受けた。でもみんな、乗り越えてきたはずだ」
「みんなじゃありません。私のことです」
強い口調だった。
「私は乗り越えてなんかいません。今でも、あのときのあの場所にいます。何もわからないまま、ただ茫然としています。三十年間、ずっとそうなんです。もういいかげん、けりをつけたいんです」
「それが君の目的なのか。バブルについて書くというのは口実か」
「いいえ、書くのは事実です。でも仕事として書くだけでなく、自分を納得させるために真実が知りたいんです。教えてください」
強い視線に捉えられ、塚田は身動ぎもできなかった。少し間を置いて、言った。
「きっと、信じてはもらえない」
「信じる信じないは、聞いてから判断します」
即座に言葉を返された。
「……わかった」
そう言ってから、塚田は自分の気持ちに気付いた。自分も誰かにあのことを話したかったのだ。洗いざらいぶちまけたかったのだ。
「じゃあ、話そう」
そう前置きして、彼は語りはじめた。
猿神
また、あれが鳴いた……今度はだれが死ぬんだ? 狂乱のバブル時代、自動車関連工場の絶望と恐怖。