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猿神

2022.11.16 公開 ポスト

4話「失態……と、仰いますと?」「工場内に警察が入ってきたことだ」―― 自動者関連工場で続く不審死。傑作ホラー太田忠司

バブル末期、巨大自動車会社の最新モデルの部品製造を下請けした飯野(いいの)電気。工場の全員が連日の深夜残業と休日出勤で心身疲弊の極限に達し、暴行事件が発生。そして聞こえる奇怪な音。事故の連鎖、自殺、突然死、殺人、気づけばいたるところに隈笹(くまざさ)が不気味に繁茂(はんも)し――傑作ホラー『猿神』(太田忠司著)から、一部を抜粋してお届けします(毎週水曜公開/全5回)。

*   *   *

一九八九年 春

9

… … …

「おい、塚田」

声に振り向くと高村課長が彼を睨みつけていた。いつにも増して不機嫌な顔をしている。

「工場長がお呼びだ」

「何でしょうか」

残業が多すぎると説教されるのか。いや、仮にも工場長が一社員の残業時間のことをとやかく言うとは思えない。しかしそれ以外に呼び出される理由を思いつかなかった。訝る塚田に課長は言った。

「昨夜の話を聞きたいそうだ」

光川(みつかわ)氏家(うじいえ)課長のことですか。でもどうして俺に? 関係ないのに」

「関係ないことはないだろう。その場にいたんだから」

「いませんよ。俺が駆けつけたときには氏家さんは倒れていて、光川はいなくなってました。一緒にあのブロックにいた連中に訊いたほうがいいです。あるいは責任者の崎村(さきむら)課長とかに」

「その崎村がおまえが一番詳しいと言ってるんだ。いいから早く行け」

それ以上抗弁することもできず、塚田は部屋を追い立てられた。

なんなんだよ、まったく。舌打ちをして歩き出す。

事務棟は塚田が普段仕事をしている工場棟の隣にあった。打ちっぱなしのコンクリート壁と大きなガラス窓が目立つ洒落た建物で、経理部や業務課など事務方の事務所や会議室、応接室などが入っている。工場長室はその最上階にあった。

ドアの前で一息つき、それからノックした。

「品質管理課の塚田です」

ドアを開けたのは崎村課長だった。

「おう、来たか」

力ない笑みを浮かべる崎村の眼の下に隈ができている。白眼は赤く充血していた。まさか泣いていたのか。塚田は思わずたじろいだ。

「入りなさい」

奥から声がする。塚田はおずおずと部屋に入った。

(たちばな)工場長は自分の椅子に座っていた。いつもどおり白髪まじりの髪をきっちりと整えている。作業服の下に(のり)の利いたワイシャツを着て紫色のネクタイを締めていた。恰幅(かっぷく)がよく、左右に大きく張り出した耳朶が目立つ。

彼がこの喜里工場のトップだった。次期役員も確実で、ゆくゆくは社長になるかもしれないと噂されている。

「おはよう」

メタルフレームの眼鏡の奥から入室してきた塚田を捉えた。

「おはようございます」

塚田は丁寧に頭を下げた。

「塚田君、一昨日だったか本社で役員と工場長の会議があったとき、君の話が出たよ」

少し(しわが)れているが深みのある声で工場長が言った。

「俺……私の、ですか」

「ああ。SB9の開発では君の仕事ぶりが目立っているとね。営業も設計も評価していた。従順なようでいてなかなか粘り腰だと。アスカの担当にも(おく)さずにものを申しているらしいね」

「は……申しわけありません」

「謝る必要はない。君は評価されているんだから。私も同意見だ。君は有能だよ。高村君よりもな」

「……ありがとうございます」

危険だ。頭を下げながら塚田は思った。褒め殺しでなければ、何か大きな爆弾を落とされる前触れかもしれない。

「昨日の深夜のことも、警察には君が対応してくれたようだな。今、崎村君から聞いた」

自分の名前を呼ばれ、崎村が体をぴくりと震わせた。以前彼は工場長のことを評して「言葉尻で人を動かす人間だ」と言っていた。ちょっとした言葉の使いかたで部下に忖度(そんたく)させ、従わせると。だとしたら今のは、どう解釈したらいいのだろう。逡巡している間に工場長は言葉を継いだ。

「あらためて昨日何があったのか、教えてくれないか。もちろん崎村君からも聞いているが、君が一番冷静に事態を把握しているそうだから」

「……はい」

塚田は自分の視点から昨日の出来事について語った。憶測や曖昧(あいまい)な伝聞を交えないよう心がけた。

話を聞き終えてから、工場長は言った。

「君は光川という社員のことをよく知っているかね?」

「いえ、二、三回言葉を交わしたことはありますが、特に親しいということはありません」

「それでもいい。どんな人間だと思う?」

「私の印象を言えばいいのでしたら、普通の若者です。これまで会社内でトラブルを起こしたという話も聞いていませんし」

「勤務態度も悪くなかった、と崎村君は言っている。ただ、少し反抗的な態度を取ることもあったようだ。そうだな?」

「あ、はい」

崎村は大袈裟(おおげさ)に頷いた。

「昨日も、その、本島係長が残業を頼んだら、最初は、その、ちょっと嫌そうな顔をしまして。日曜に休日出勤させたせいかもしれませんが」

「どんどん残業してどんどん稼げるんだ。嫌なことはあるまい。そうだな?」

今度は塚田に矛先を向けてきた。ここは同意すべきだろう。それはわかっていた。

「金より休みが欲しいというのも、率直な心情かもしれません」

しかし塚田は、そう言った。

「日曜の試作では光川君にも随分と働いてもらいました。少し休憩が欲しいと願っても無理はないかと思います」

「それで不満が溜まり自暴自棄になって氏家君を襲ったというのかね?」

「そのように短絡的には考えられません。本人の話を聞くべきでしょう」

塚田は工場長を見た。工場長も彼を見つめている。その口の端が笑みを作った。

「なるほど、君らしい意見だ。その冷静さは他の社員も学ぶべきだな。しかしそれほど冷静でいられる君がどうして、今回このような失態を招いたのかな?」

首筋に刃物を当てられたような嫌な感触。

「失態……と、仰いますと?」

「工場内に警察が入ってきたことだ」

工場長の口調は穏やかなままだった。なのに塚田は胃のあたりがぎゅっと締めつけられる感覚に襲われた。

「氏家君の怪我は同じ会社の者に襲われたせいだと、君が救急隊員に告げたそうだね。それで警察に通報が行った。どうしてだね?」

「それは、犯罪の疑いがあるときに警察に通報することが救急隊の任務ですから──」

「そんなことを訊いてるんじゃない。なぜ救急隊員にそんなことを言った?」

工場長が何を言いたいのか、わかってきた。でも、あえて塚田は抗弁した。

「それは、事実だからです」

「警察沙汰になってもか」

「それが正しいと判断しました」

「新聞に載るぞ。飯野電気喜里工場で暴行事件と。いい恥さらしだ」

「嘘をつくべきだったと仰るのでしょうか」

「おい塚田……」

崎村が(とが)めた。しかし一度口から出た言葉は引っ込められない。塚田は続けた。

「氏家さんは自分で転んで治具の角に頭をぶつけたとか、そう言い繕うべきだったと?」

「そういう機転も必要だったな」

「それは、三つの点から無理だと考えます」

脳が沸騰しそうなほど感情が込み上げてきたが、塚田は冷静さを心がけつつ言った。

「ひとつ、それでは氏家さんが納得しないかもしれません。ふたつ、光川が今後どのようなことを言い出すかわかりません。ふたりの口から真実が出れば、こちらが嘘をついていたことが明白になります」

「氏家も光川も、社内のことだ。納得してもらえばいい。ふたりとも事を大袈裟にはしたくないだろう」

工場長は事も無げに言った。塚田は声を荒らげそうになるのをぎりぎりで堪えて、言葉を続けた。「三つ、病院でこちらの嘘の証言と氏家さんの怪我の状態との矛盾に気付かれる可能性があります。そうなったら犯罪を隠蔽(いんぺい)しようとしたと看做(みな)され、飯野電気の立場はより悪くなるでしょう。これは社内のことと違ってこちらではコントロールできない問題です」

「そこまで病院が細かくチェックするだろうかね。ちょっとした怪我に過ぎないのに」

「怪我の程度についてはまだわかっていません。少なくとも失神してしまうほどの怪我であることは間違いないので、軽く考えないほうがよいかと思います。下手をすれば命に関わりますから」

「ああ言えばこう言う、だな。口の減らない男だ」

工場長の口調が変わった。感情を隠しておけなくなったようだった。

「とにかく、今回の君の対応には承服しかねるところがある。業務のほうにマスコミからの取材依頼が殺到しているようだしな。夕刊あたりに大々的に取り上げられるかもしれん。そうなったら君の責任は重いぞ」

「私は誰も襲っていませんし、逃げてもいません」

これを言ったらおしまいだ、とわかっていても、言わずにはいられなかった。

「私がどんな責任を取らされるというのでしょうか」

「サラリーマンの責任の取りかたは、ひとつしかないよ」

「辞めろ、ということですか」

「この忙しいのに有能な社員を辞めさせるわけがないだろう」

険しくなっていた工場長の表情が、また変わった。かすかに笑みを浮かべている。

「これからも滅私奉公(めっしほうこう)してもらう。休んでいる暇はないよ。ばりばり働いてくれ」

関連書籍

太田忠司『猿神』

バブル末期、巨大自動車会社の最新モデルの部品製造を下請けした飯野電気。 工場の全員が連日の深夜残業と休日出勤で心身疲弊の極限に達し、暴行事件が発生。 そして聞こえる奇怪な音。事故の連鎖、自殺、突然死さらに殺人。出没する正体不明の影。 だが最優先される納期、無言の勤務。気づけばいたるところ隈笹が不気味に繁茂し……。傑作ホラー。

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また、あれが鳴いた……今度はだれが死ぬんだ? 狂乱のバブル時代、自動車関連工場の絶望と恐怖。

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太田忠司

1959年、名古屋市生まれ。名古屋工業大学電気工学科卒業。81年「星新一ショート・ショートコンテスト」で「帰郷」が優秀作に選ばれる。「狩野俊介」シリーズ、「新宿少年探偵団」シリーズ、「ミステリなふたり」シリーズなど、著書多数。

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