バブル末期、巨大自動車会社の最新モデルの部品製造を下請けした飯野電気。工場の全員が連日の深夜残業と休日出勤で心身疲弊の極限に達し、暴行事件が発生。そして聞こえる奇怪な音。事故の連鎖、自殺、突然死、殺人、気づけばいたるところに隈笹が不気味に繁茂し――傑作ホラー『猿神』(太田忠司著)から、一部を抜粋してお届けします(毎週水曜公開/全5回)。
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12
高村課長は工場棟西の階段の下で発見された。普段はあまり人通りのない区域で、工場内の社員が息抜きに来る程度の場所だった。製造製品変更の空き時間に煙草を吸いに来た製造課の山岸が、俯せで倒れている高村に気付き、騒ぎだしたのだった。
塚田が現場に駆けつけたとき、ちょうど救急車が到着した。野次馬でごった返す中、救急隊員が高村をストレッチャーに乗せた。とりあえずで頭に巻かれたのだろうタオルがほとんど赤く染まっていた。
高村を収容した救急車が走り去った後、その場にいた者たちは口々に喋りながら、その場から立ち去らずにいた。毎日同じようなことが延々と続く日々の中で起きた非日常的な出来事を前にして、誰もが不安と、それから少なからぬ昂奮に取り憑かれているように見えた。
「おい」
声をかけられ振り向くと、徳井がやはり不安げな表情で立っていた。
「一体、何がどうなってるんだ? どうして高村さんが殺されたんだ?」
「いや、まだ死んだわけじゃない。勘違いするなよ」
「同じだ。奴は殺すつもりで殴ったんだろ?」
徳井は吐き気を催したかのように顔を顰める。
「氏家さんの次は高村さん。次から次へと課長が襲われてる。光川の奴、そんなに課長たちが憎かったのか」
「高村さんも光川がやったっていうのか」
「違うのかよ。あいつに決まってるだろ」
気が付くと塚田と徳井の会話に周囲の者たちが聞き耳を立てている。塚田は慌てて口を噤んだ。
「そんな憶測で話しちゃ駄目だ。ちゃんと警察に調べてもらわなきゃ」
「警察が来るのか。来るんだろうな。それで捜査とかでまた仕事が止まって生産が遅れて俺たちは残業だ。いい迷惑だ」
誰かが「そうだそうだ」と相槌を打った。
「光川の奴が捕まらないかぎり、落ち着いて仕事ができん。塚田、なんとかしろよ」
徳井にいきなり言われ、塚田は面食らう。
「なんとかって、どうして俺が?」
「会社の中じゃ、おまえがこの事件を取り仕切ってるんだろ。そう聞いたぞ」
「何だよそれ? 誰が言ってるんだそんなこと?」
「みんなだ。警察への対応とか工場長との話し合いとか、みんなおまえがやってるんだろ?」
「それは、違う」
否定しながら塚田は、厄介なことになったと思った。知らないうちに事件の中心人物にされている。なんなんだ、これは。
「俺には何の権限もないし、そもそも関係者でもない。たまたま警察や工場長に事件のことを説明する羽目になっただけなんだ」
「じゃあ誰に言えばいい? 崎村課長か。それとも工場長か」
「それは……」
答えられない問いかけに口籠もっていると、
「おい、何やってるんだ!?」
駆けつけてきたのは崎村だった。
「こんなところで突っ立ってないで、みんな仕事しろ。得意先のラインが止まるぞ」
最強の呪文であるかのように、彼は言った。ラインが止まる。その言葉で社員たちはぞろぞろと工場内に戻りはじめる。
徳井も戻りかけたが、ふと思いついたように崎村に言った。
「課長、気を付けたほうがいいですよ」
「何がだ?」
「氏家さんに高村さん、次々と課長がやられてるから。犯人が光川なら、一番恨んでるのは誰かって話です」
「犯人が光川って……おい、何だよそれ!?」
崎村は徳井の肩を摑んだ。
「今度は俺がやられるっていうのか」
徳井は課長の手を払いのけると、工場に戻っていった。残された崎村は彼の後ろ姿を茫然と見つめている。
「……何だよそれ? 俺が何をしたっていうんだ?」
同じくその場に残った塚田に気付くと、彼は必死な表情で、
「俺はさ、普通に仕事してるだけなんだよ。普通に一生懸命、いろんなこと管理してさ、上に頭下げたり下の機嫌を取ったりしながらさ、ぎりぎりでやってきてるんだ。それが駄目だっていうのか。光川が俺のことも恨んでるって? そうなのか」
充血した眼で塚田を見つめながら──どうやら泣いているのではなく、結膜炎か何かで眼が赤くなっているらしいと気付いた──問いかけてくる。塚田は何も言えなかった。
事務所に戻ると恵里が視線で尋ねてきた。
「高村さんは病院に運ばれた。怪我の状態はわからない」
「そんな……まさか……」
恵里は息を呑んだ。
事務所には他の社員も四人戻ってきていた。
「どうなってるんだろうねえ、この工場は」
米田が暢気にも聞こえる声で言った。「なんだか荒れてる高校みたいだ。喧嘩が絶えないねえ」
「他人事みたいに言うけどさ、米田だって狙われてるかもしれないよ」
そう言ったのは米田と同期の二宮だった。
「ほら、前に光川が不良を出したときにねちねち厭味言ってなかったっけ?」
「厭味? そんなこと言ったかなあ」
「俺、聞いたよ。女といちゃいちゃしてる暇があったらちゃんと仕事しろって言ったでしょ」
一瞬、空気が強張った。塚田は恵里に視線を向けないよう気を付けた。
「そんなこと言ったかねえ。まあ言ったとしても、そんなことくらいで襲われたら迷惑だなあ」
椅子の背凭れに上体を預け、米田は天井を見上げる。
「恵里ちゃん、お茶」
「あ、はい」
即座に恵里が動く。給湯室へ向かう彼女に、やはり塚田は視線を向けることができなかった。
「駄目だよねえ、あんな男と付き合ってたんじゃ」
恵里がいなくなるとすぐに米田が言った。
「かわいいんだから、もっと男を選ばなきゃ」
「米田とか、ってことかな?」
二宮が茶化すと、
「俺だって、選ぶ権利はあるよ。顔が良くても頭が悪い女は女房にできないなあ」
「そんなこと言ってるから、いまだに結婚できないんでしょ」
武上が冷やかす。後輩だが口さがないタイプだった。
「結婚できないのは君も同じだろ」
「僕はまだ二十代ですから。三十過ぎて独身なんて、いろいろ言われちゃうでしょ」
「言いたい奴には言わせとくさ。どうせもうすぐ仲間ができるし。ねえ塚田君?」
「俺ですか」
「来年には君も三十路だよな。結婚しないの?」
米田は普段自分が言われつづけている質問を、ねちっこい口調で塚田に向ける。
「相手を探してる余裕なんかないですよ」
感情を表に出さないように心がけながら言葉を返した。
「そんなの、工場で適当に見繕えばいいじゃん。女の子はいっぱいいるんだしさ」
これも彼自身が言われていることだろう。それを他人に向けるのは楽しいのかもしれない。言葉の端に松脂のような粘っこさを感じた。
「そうですね。考えておきます」
それだけ言うと、塚田はファイルを抱えて席を立った。残った奴らがまた何か言うだろうが、かまうものか。
戻ってきた恵里と鉢合わせした。泣きそうな顔をしている。外でも彼らの会話が聞こえていたのだろうか。塚田は小さな声で言った。
「あいつら、最低だ」
恵里の表情が少しだけ緩んだ。
「もう、帰るんですか」
「いや、これからSB9の新製品立ち上げ会議がある。出なきゃ」
「徹夜してるのに、まだ仕事ですか」
「昨日の徹夜はイレギュラーだよ。むしろ仕事ができなくて溜まってきている。もしかしたら今日も徹夜になるかもしれない」
「そんな……体、壊しちゃいますよ」
「かもな。むしろ壊れてくれたら、大手を振って休めるよ」
冗談めかして言うと、塚田は事務棟へ向かった。
昨日聞いたのと同じパトカーのサイレンが聞こえてきた。
頼むから、これ以上俺の時間を奪わないでくれ。さもないと俺が暴れるぞ。
怒りに近い願いの言葉を胸の中で唱えた。
* * *
――絶望と恐怖の連鎖はさらにここから……。続きは本書『猿神』をご覧ください。
猿神
また、あれが鳴いた……今度はだれが死ぬんだ? 狂乱のバブル時代、自動車関連工場の絶望と恐怖。