会社員の傍ら、定期的な自費出版を10年続け、文芸イベント『イグBFC』第2回王者になるなど、コアな読者を獲得している吉田棒一さん。個人的な創作物が知らない誰かのもとへ届くことには他にない特別さがあるそう。本棚を眺めて思うのも、本がたどるかもしれない長い長い旅のこと――。
「紙の本」という物理的な実体が放つ希望
SNSが普及して、それも文字から写真、写真から動画へと主流が変遷していくにつれて、長文をブログに載せる行為は明らかに廃れている。htmlで自作したWEBサイトに友人向けの文章を書く趣味が高じて、賃労働の傍ら自費出版や文筆活動をするようになった自分にとっては隔世の感がある。
作文は数少ない趣味のひとつで、日常では発散し切れないものを発散するための大切な行為になっている。自費出版はその延長にあり、WEB上に書き溜めた文章(どうにか小説やエッセイと呼べそうなものもあれば、日記や愚痴、戯言としかいいようのないものまで様々)から気に入ったものを選んで本の形にする。それをネットで買えるようにするのだが、こじんまりした個人的な創作物が知らない誰かから受け容れられ面白がられることの痛快さは、他では得難い癒しがある。会社の激務の合間に製本の注文やら発送やら会計まで全部自分でやるのは面倒なのだが、もう十年もこんなことを続けている。
本はよく買う。以前は本以外に買いたいものがいくらでも思いついたが、今は本くらいしか欲しいものがない。衣服にお金を使わなくなる予感はあったが、CDやレコードを買わなくなるとは思わなかった。外出する時は何かを買って帰らないと外出した気がせず、そうすると今は本しか買うものがない。逆に言うと、必ずと言っていいほど本を買って帰るので蔵書は増えるばかりとなる。
所有する本は「本棚に収まる量だけ」としている。そうしないと際限なく増え続けてしまう。部屋には自動販売機ほどの大きさの本棚がふたつ。片方は小学四年で自分の部屋を与えられた時から使っている。給食の牛乳を学校から持ち帰った日に誤ってランドセルを踏んづけてしまい、破裂した紙パックから飛び散った牛乳のシミが今も残っている。いつ貼ったのか全く記憶にない南米人みたいな謎のおじさんのシールもある。
自宅には自著が一冊もない。理由は、作り終わった本には興味がなくなってしまうからである。しがない自費出版では校閲も自分でやるしかなく、本を作る過程で嫌というほど自分の文章を読み返すので、完成する頃には二度と読みたくなくなっている。
本棚の前に立って背表紙の列を眺めてみる。かつては漫画本で埋め尽くされていたはずが、今では海外文学の文庫本が最も場所をとっている。何冊もあるのはヘミングウェイ、P・K・ディック、ブコウスキーなど。自伝や伝記が好きで、特に感動した『マイルス・デイヴィス自叙伝』『真相マイク・タイソン自伝』『終わりなき闇チェットベイカーのすべて』は生涯手放すことがないように思う。
印象に残っていない本もある。所謂「積み本」も多く、既読/未読の判別はかなり怪しい。印象にないものは読んでいないだけかも知れない。読んだのに読んだことを忘れている本もあるだろう。読んでいないのに読んだ気になっていて、しかもなぜか印象に残っている本もある気がする。自宅の蔵書だけでそれだけのグラデーションがあるのだから、手放した本も含めるといよいよその彩りは多様になっていく。読んだきり永遠に忘れ去られてしまう本。ある日どこかで再会して電撃のように思い出される本。視界の片隅に入ることすらなく、人生で一度たりとも認識さえされない本。
本棚から溢れた本は人に譲るか古本屋に売りに行く。自分が売った本が古本屋の棚にいつまでも並んでいるのを見ると、なんとも味わい深い苦笑が込み上げてくる。「まだいんの、お前」みたいな。あんまりずっと残っていると手放した張本人のくせに「またウチくるか?」などと思うこともある。今もいくつかの店にそういう本があり、彼らの生存確認も古本屋に通う楽しみのひとつになっている。
逆にすぐに売れてしまって店から姿を消す本もある。今ごろ誰かの本棚に収まっているのだと思うと「こないだまでうちにいたのに」と不思議な気持ちになる。自宅にある本も多くは古本なので、自分の手元に辿り着くまでにはそれぞれの経緯と歴史があったはずである。本が生まれてから死ぬまで。本と出会ってから別れるまで。古本屋さんは「Aさんちにあった本が今はBさんちにあるんだなあ」などとほくそ笑んでいるのかも知れない。楽しそうである。
一度、行きつけの古本屋で自著を見つけたことがあった。古本屋にあるということは誰かが売ったということで、つまりいらなくなったということである。悲しむべきことなのに、なぜか嬉しかった。
Google以前は個人のWEBサイトが他人から発見されるのはまだ難しく、ネットで文章を書くのは小瓶に入れた手紙を無人島から海に放流し続けるような孤独さがあった。そこから始まった自分の遊びも、今ならSNSで簡単に情報発信できるし、WEBショップにアクセスすれば「あなたの本が何冊売れましたよ」と正確な数字が確認できる。昔より色んな人に知られている、読まれている、という実感は十分あったつもりなのだが、誰かに読み古された自著が古本屋の棚にちょこんと挟まっているのを見るのは、これまでに味わったことのない妙な感慨深さがあった。「この遊びもとうとうここまできたか」と思った。
電子書籍を買うことも増えたが、本を作る側からすると紙の本にはまだ十分に意味があると感じる。自分の本は何百冊も売れたりはしないが、それでも紙の本として物理的な実体を持って世に出たうちの一冊くらいは、百年後、二百年後まで捨てられず、燃やされることもなく、色んな本棚を循環しながら生き残るのではないか、という予感がある。
その場合、蔵書として誰かの本棚に置かれている必要は必ずしもない。愛されていなくてもいい。洞窟のような古書店の奥まった暗闇に何世代も埋もれていたり、住人のいなくなった古い家屋の屋根裏で何回もの大掃除をくぐり抜けたり、そんなケースの方が生き残る可能性は高いのではないか。著者の死後も肉体を持ち続ける本。存在を忘れ去られながら、ページを開けば著者の精神が活字となって息づいている。不気味だ。
とにかく自分が死んだあとにも肉体として自著の紙本が残るであろう、残るに違いない、という確信めいた予感がある。重版を繰り返す歴史的名著としてではなく、名もない自費出版の一冊として、というところが良い。夢がある。この夢のためにむしろ自分は売れる本など書いてはならん、文筆家として成功してはならん、売文の輩として無名であり続けなければならん、とさえ感じる。とはいえ「そんなこと言わず、うちの媒体でも何か書いてください」という相談があれば遠慮なくご連絡ください。無名であり続ける方法はこちらで考えます。
自分は本を一冊読むのにどれくらいの時間をかけているだろうか。ただでさえ遅読であるうえ、仕事の合間にしか読めないので、場合によっては読み終わるのに一ヶ月かかることもある。ジェイムズ・エルロイの『アンダーワールドUSA』三部作なんて全部読むのに半年もかかった。本棚を見ていると今ここにある本やもうここにはない本のページをめくっていた膨大な時間とともに、自分より遥かに長生きする可能性のある本の一生について思いを馳せてしまう。
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