恋愛小説の名手・加藤千恵さんが贈る短期連載。第四回は希望していない部署に異動になってしまった「わたし」のお話です。食ショートストーリーと短歌と共にお楽しみください。
このところのわたしと来たら、三年も前になる入社試験の面接のことばかりやたらと思い出している。自分がどんなふうに広告に携わっていきたいのか、どんな広告を作っていきたいのか、熱く語っていた自分の姿だ。もういいですよ、大丈夫ですよ、と面接官の一人が笑って言ったときに、あ、これは落ちたかも、と思ったが、予想に反して、届いたのは通過メールだった。あれは二次試験だったから、それ以降の三次試験と最終試験は、少しは控えめにしたつもりでいたが、それでもやる気は充分に伝わっていたのではないかと思う。
内定通知をもらったのは、人生で一番嬉しかった瞬間、といっても過言ではない。大学に合格したときも、初めて彼氏ができたときも嬉しかったが、間違いなくそれ以上だった。
そして一ヶ月前に総務部庶務課に異動になったことは、人生で一番悲しかった瞬間、ではない。おじいちゃんが死んだときとか、初めてできた彼氏にふられたときとか、大学の卒業旅行で訪れたパリでスリにあったときとか、いくつも思いつく。けれど一番ではないにしても、相当悲しい。しょっちゅう三年前の面接を思い返して、あの頃はあんなに前向きな気持ちだったのに、と現状と比較してため息を連発しそうなほど悲しい。
だって、あの頃やりたかった仕事とは、似ても似つかない。自分がどんなふうに郵便物の仕分けをしたいのか、とか、備品の在庫管理にかける思いとか、そんなもの、あるはずがない。
誰が見てくれているのかもわからないのに、やたらと社内に掲示しているポスターを片付けるのに時間がかかり、珍しく遅くなった昼食をとろうとエレベーターに乗って一階で降りたところで、反対にエレベーターに乗り込もうとしている集団がいた。その中の一人が、こんなふうに言う。
「わ、みつこじゃん。ごめん、先に行ってて」
前半はわたしに、後半は一緒にいた(おそらくどこかで昼食を一緒にとっていた)人たちに向けての言葉だった。
同期入社の玲ちゃんだ。入社して研修を終えてからすぐプロモーション部に配属され、今もそこに在籍している。同期入社の人たちの中では、わたしはみつこ、と呼ばれている。下の名前ではない。苗字の光井をもじったあだ名だ。
「久しぶりだよねー。前はしょっちゅう会ってたけど」
総務部に配属になる前、わたしはマーケティング部にいて、プロモーション部とは同じフロアだったので、玲ちゃんの言うとおり、しょっちゅう顔を合わせていた。週に何度も。
「ね、久しぶり」
わたしは答える。早く会話を切り上げたいな、と思う。お腹がすいているのだ。
「っていうか、みつこ、なんで総務部なの? 驚きなんだけど」
なんで、なんて、わたしが聞きたい。実際に聞いたことだってあった。マーケティング部の先輩や上司。みんな、示し合わせたように、同じような答えを返す。若いうちにいろいろ経験させようっていう考えなんだと思うよ。大丈夫、すぐまた異動になるって。けれど彼らもたいていは、総務部なんて経験していない。どうして大勢いる中で、わたしが総務部に異動となったのか。たとえば玲ちゃんではなく、わたしだった理由が、明確にあるのだろうか。
「わたしもほんっとびっくりしたよー」
ほんっと、に力を入れて、明るく言った。
話しているわたしたちの隣を、多くの人が通り過ぎていく。マーケティング部の人とは会いたくないなと、なんとなく思いながら毎日を過ごしている。今だって同じだ。
「希望出したわけじゃないんだよね? 上司との面談とか」
玲ちゃんに訊ねられ、そんなわけないでしょ、と苛立ちそうになってしまう。クリエイティブ部門に異動したいと、ずっと思っていたし、年に二回ある上司との面談でもそう話していた。おそらく多くの社員がそうであるように。今わたしがいる場所は、むしろ対極だ。
「全然全然」
わたしは明るく話せているだろうか、と心配になる。口角を上げ気味にするように心がける。
「驚きだよね。ね、今度、ゆっくり話そうよ。またランチ行こ。夜でもいいんだけど、最近、スケジュール読めなくって」
ほぼ毎日定時で退勤しているわたしに対する皮肉だろうか、と思ってから、いや、そんなはずはない、玲ちゃんはわたしの退勤時刻なんて知らないんだし、と思い直す。こんなふうに意地悪く思ってしまう自分こそが、意地悪い。
「うん、行こうー。LINEするね」
わたしからはしないだろうな、と他人事のように思いながら、手を振って別れる。何を食べるか、どこの店に行くかは決めていなかったが、とにかく会社の外に出て、歩き出したかった。
・・・
会社に戻ろうとした直前、あ、光井さん、と声をかけられた。
呼び方で同期ではないのはわかっていた。振り向くと、係長である前田さんが立っていた。おそらく四十歳前後の男性である前田さんとは、今まであまり話したことはない。席も少し離れているし、話しかける理由も特になかった。
「おつかれさまです」
そう言うと、ちょっといい? と手招きをされた。理由がまるでわからないが、従う。
「どうしたんですか」
こちらの問いには答えずに、数戸隣の、小さなビルの入口まで行ってしまう。わからない。
「どうしたんですか」
知らないビルのエレベーター横で、同じ質問をした。
「光井さん、甘いもの好き?」
「え、好きですけど」
「よかったー」
前田さんはバッグから茶色い紙袋を取り出す。さらに中身を。
「半分食べて、これ」
「ドーナツ……?」
「そう。カスタード。あ、まだ少しあったかいかも」
薄紙の上から手で半分に割られたドーナツ。片方を薄紙ごと渡される。まだ生姜焼き定食がお腹に残っていたが、断れない。穴のないタイプのドーナツだ。表面には粉糖がまぶされていて、中には黄色いクリーム。
「……いただきます」
仕方ないので、立ったままかじりついた。あたたかい。カスタードクリームのとろりとした食感が、口の中を満たしていく。
「おいしいですね」
「おいしいなー」
わたしよりも断然、前田さんの言葉に力がこもっていた。
「好きなんですか、ドーナツ」
「近くにドーナツ屋あるのわかる? 最近できたとこ」
「わかります。甘い匂いしてますよね」
「そう。気になってたんだけど、ついに今日買っちゃって、でもさすがに一つは大きすぎるよな、昼飯も食ったしな、と悩んでたら、光井さんが通りかかってくれた。渡りに光井」
「何もかかってないですよ」
言いながら、ドーナツを食べ進める。見た目ほどは甘くなくて、大きすぎるように感じられた二分の一個は、問題なく食べられそうだった。
「どう、仕事は」
前田さんが言う。ここで聞くことですか、と言おうかと思ったが、少しずつ慣れてきました、と答える。
「クリエィティブじゃなくて、ガッカリしてるでしょ」
「え」
わたしはどう答えていいものか悩む。正直に言っていいのか、それともこれは罠のようなものなのか。
「面接のときから、広告作りたいんです、って気持ちで溢れてたもんなあ」
前田さんは言う。
「面接?」
「おぼえてない? 二次試験のときに、おれ、光井さんの面接官やってるんだよ。おれもかなりやったし、全員のことをおぼえてるわけじゃないんだけど、妙に記憶に残ってたんだよね」
もしや、もういいですよ、と優しく言った面接官は、前田さんだったのか。言われてみればそんな気もするが、違う気もする。けれど嘘をつく理由なんてないし、おそらく面接に立ち会っていたのは事実なんだろう。
「そうだったんですね。すみません。その節はありがとうございました」
「いや、おれは△つけてたんだよね。あまりに熱意ある人って、あとでギャップで苦しんだりとか、空回りしちゃったりとかするじゃん。でも、他の二人が〇つけてたから、結果的に通ったけど」
「それは」
そう言ってから、どう続けていいものか迷った。
「まあ、まだ会社生活は長いし、いろいろ勉強していってよ。庶務の仕事も結構おもしろいもんだから」
「はあ」
どこがなのかを詳しく教えてほしかったのと、ドーナツを食べ終えたことで、喉の渇きを感じて、曖昧な返事になってしまう。外にある自販機でお茶を買っていいものか迷う。
「誰がやってもいい仕事ってさ、でも、誰がやっても同じ仕事ではないんだよ。ちゃんとその人に、はねかえってくるもんだから」
前田さんはそう言い終え、行こうか、とつぶやいた。わたしの返事を待たずに、歩きはじめる。
「あ、はい、あの、ごちそうさまでした」
「いや、こっちこそ。付き合わせちゃってごめんね」
こちらを振り向いたりはせずに言う、ワイシャツ姿の前田さんの背中を見つめながら、この人は何年庶務課にいるのだろうな、と思う。
誰がやっても同じ仕事ではないんだよ。
お腹がさっきよりも重い。口の中にはまだ甘さが残っている。午後の仕事は、午前よりも頑張れそうな気がした。
≪水滴のようにかすかな仕事だけどどこかで海につながっていく≫
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