4歳の春。巨大団地を出て、初めて幼稚園に向かうときの400メートルを軸に、記憶を建築物のように積み上げた坂口恭平さんの自伝的小説『幻年時代』。本書を読むと、今の自分をつくる記憶の重層性と、過去と未来が入れ替わるような時間を感じることができます。文庫解説で渡辺京二さんは「日本近代文学史上、誰も書かなかった小説」と評されました。このパノラマのような小説の冒頭を4回にわたりお届けします。
はじめに
家に帰ってきてしばらく遊んだあと、夕食を食べているときに母ちゃんが言った。
「恭平、ランドセルはどうしたの?」
僕はその重量を感じながら歩いていたので、家にあるはずだ。しかし部屋のどこにも黒色のランドセルはない。探すでもなくぼんやり佇んでいると親父が帰ってきた。
「恭くん、学校に忘れてきたんじゃない?」
僕の記憶はここで消えている。
そこで、勤めていたNTTを退職し、現在は病院の守衛をやっている親父に電話をかけた。
「親父? 今、ランドセルを忘れて帰ってきた話を書いてるんだけど」
「あ、そんなことあったね。ランドセルを忘れて帰ってきたよね。やっぱり恭くんはさすがのおっちょこちょいよ」
「新宮小学校でのことだから、一年生か二年生よね?」と言うと、「オレも覚えてない。たぶん一年生だろ」と親父。
僕と親父は日も暮れた福岡県糟屋郡新宮町でランドセルを探し回ったらしい。小学校で一番大事な、誰でも持っているはずのランドセルをどこかに置き忘れてきたわが子を見ながら、親父は何を思ったのだろう。
結局ランドセルは見つからないまま、僕の通う新宮小学校の前まできてしまった。ランドセルはやはり教室にあるようだ。
「で、どうなったんだっけ?」親父に尋ねる。
「それが、校門が閉まってて中に入れなかったのよ……」
一瞬の沈黙のあと、僕と親父は大笑いした。
固く閉ざされた門の向こうにある手の届かない真っ暗な校舎を見つめたあと、二人はとぼとぼ帰ったのだという。
次の日の朝、僕はいつものように登校した。同じ電電公社の社宅十一棟の親友である山本意たか徳のり、タカちゃんとともに。
「あれ? ランドセルは?」とタカちゃんが聞く。
「たぶん教室の机にあると思う……」
少し恥ずかしかった。しかし小学校にサッカー用のスパイクでカパカパ音を鳴らしながら通うタカちゃんである。飼っているトカゲを自慢するために僕の家に持ってきてうっかり逃がしてしまい、僕の母ちゃんにこっぴどく叱られたタカちゃんである。いつも僕らに花札の役を教えてくれる任俠の母親を持つタカちゃんである。僕がランドセルを忘れてきたと告げても、「あっ、そうなんだ」としか言わなかった。
二十歳頃、親父の転勤で熊本へ引っ越した九歳のとき以来会っていなかったタカちゃんに会いに行こうと思い立つ。そのとき、おそらく生まれて初めての躁状態だった僕は、ベトナム戦争で使われた米軍のヘルメットとオランダ軍のパラシュート部隊のツナギを着込んで、廃車置き場で拾ってきたスズキのバーディー一九六九年製のバイクに跨またがり、なつかしの新宮の町へと向かい、山本家のインターホンを押した。
「タカちゃん!」
「……恭くん?」
タカちゃんと僕の声が出会ったのはじつに十年ぶりのことだった。家に上がらせてもらうと、かつて団地中の壁にサッカーボールをぶつけまくるので大人たちから白い目で見られていた自由の象徴たる親友タカちゃんは、点滴を刺したままの姿で家の中を歩いていた。かといって弱っているのでもなく、「不治の病なんだ」とうそぶきながら、昔、僕とやったボードゲームを押し入れから取り出した。
今、生きているのかそれすらわからないタカちゃんのことを思い出し、不安になり、すぐさま新宮の町へ行きたいと熊本の喫茶店で原稿を書いている僕は思っている。
なぜ小学生は日本中どこでもランドセルを背負って登校するのだろう? タカちゃんという無二の親友と並んで歩く手ぶらの僕は、そのとき、おそらく日本で唯一ランドセルを背負わない小学生だった。
からだが軽い。自由の風が吹き抜ける。ゴミ捨て場のコの字をしたコンクリートの上に飛び乗ることさえできた。その軽さに興奮した僕は、町をスーパーマリオの面ステージと捉え、タカちゃんと一緒にさまざまな障害物を飛んだり跳ねたりして遊んだ。
その、なにも持たない軽さは今も続いている。
タカちゃんはランドセルを背負いながらも、すでに自由を獲得していた。タカちゃんの履くスパイクはオフロード用だ。誇らしげなタカちゃんは、抜け目のない遊び人だった。飛車角落としで僕と遊んでくれた。
結局、ランドセルはどうなったのだろう? 記憶はない。それよりもあの軽さだ。手ぶらの、七歳の僕の。
僕は坂口家の中であまりうれしくはない伝説をつくってしまった。小学校にランドセルを忘れてきた男、と家族によく笑われた。言われるたびに僕も一緒に笑った。おっちょこちょいで、すぐ物を忘れる、失くす。そんな特徴を持つ人間。たしかに事実として正しく、僕はすぐどこかに物を忘れてきた。たんに馬鹿にされているのではなく、事実としても迫ってくる感情が恐怖や不安であると理解できなかった僕は、その場でおどけて闘牛士のようにからだを翻し、かわしてみせた。あの牛の角つのはなんだったのだろう。
僕の幼年時代。それは幻の時間である。なぜ生きているのか? その意味はもう考えなくていい。あの幻の時間のおかげで今の自分が存在している。
親友とともに軽さを感じながら。目の前の現実を化石と感じながら。起きて見る夢として毎日を生きながら。そのような行為として、記憶の軌跡として、ただ幻の実像を書いてみたい。
幻に背中を押されながら──、いや、笑ったまま橋の上から突き落とされるような不慮の落下によって、この物語は始まる。
幻年時代
坂口恭平さんの自伝的小説『幻年時代』試し読み