四歳の春。巨大団地を出て、初めて幼稚園に向かうときの400メートルの道のりを軸に、記憶を建築物のように積み上げた坂口恭平さんの自伝的小説『幻年時代』。本書を読むと、現在をつくる記憶の重なりと、過去と未来が入れ替わるような時間を感じることができます。文庫解説で渡辺京二さんは「日本近代文学史上、誰も書かなかった小説」と評されました。このパノラマのような小説の一部を抜粋してお届けします。
一 守衛
守衛の親父から僕のケータイに電話がかかってきた。すでに午後十一時を回っている。
「恭くん? 恭くん?」
「そっちから電話かけてきてるんだから恭平に決まってるでしょ」
「今、守衛の仕事してるんだけど」
「知ってるよ。今日も朝まで?」
「うん。で、お願いがあるの。さっき急患で運ばれてきた人が家に帰りたいって言ってて、どうにかしないといけないと思ってさ」
「タクシー呼びなよ。というか、それぐらい自分で考えられるでしょ」
「そう言ったんだよ。そしたら、お金がないっていうもんだから……」
「じゃ、歩いて帰せばいいじゃん? 守衛ってそんなことまでしなきゃいけないの?」
「いや、ちょっと痴呆症みたいな感じの人なんだ。歩いて帰らせるのは心配でさ……」
「優しい守衛だね」
「恭くん、今日クルマ乗ったでしょ?」
「昼間借りたよ。ありがとね」
「恭くんがその人を送ってくれんね?」
「……えっ?」
「頼む、恭くん」
「無理だよ。だって今、酒飲んじゃってるもん」
親父がこのあとどうしたかは知らない。聞いてみると、その出来事自体を忘れていた。
「なんで覚えてないの?」
「父さんは体験したことをすぐ忘却の彼方に追いやってしまうんだよ」
親父はいつもそうだ。自分の欠点を語るのに自信満々なのだ。そんなところが昔は大嫌いだった。夢も希望もない人だと思っていた。だが自分も子どもを持った今、親父の言葉は意外にもすうっと心に入ってくる。深い意味などなく、ただ、すうっと。
僕はたまに実家のクルマを借りる。そして、病院で守衛をしている親父のもとへそのミニクーパーを返しにいく。
ある日、仕事を終えた母ちゃんを拾って、一緒に向かったことがあった。鬱で死にたくなっている状態からは少しだけ回復して外に出られるようになってきた頃だから、これを書いているたかだか一ヵ月前のことのはずだ。なのに、すでに記憶はおぼろげだ。鬱状態の僕を、鬱から抜けた状態の僕はほとんど覚えていない。からだが自然と再稼働していくにつれ、地獄に滞在していた記憶はゆるやかに抹殺されていく。
そこは誰もいない休日の病院だった。一階ロビーはがらんとしている。ロビーの中心にある受付窓口には普段なら医療事務の職能を持った女性が座っているはずだが、今は僕の親父が座っている。とても退屈そうに週刊誌を読んでいる。いつから座っているのか。それこそ永遠に座り続けているかのようだ。
僕と母ちゃんは、通院している人が使う革張りの長椅子に座る。こんなふうに親子三人で親父の働く仕事場にいるのは現実感がなかった。僕は鬱状態である。快方に向かってはいるが、まだ絶望も引きずっている。
受付を出た親父が僕と母ちゃんの座る長椅子に歩み寄る。親父は運河とカモメの描かれた水色のキーホルダーのついたミニクーパーの鍵を僕から受けとると、長椅子に座る僕の左斜め上の白い壁を指差した。その先には額装された一枚の花の絵があった。
「あれぜんぶ本物の押し花なんだよ。院長の奥さんが押し花が好きで、花瓶に入った花束を押し花で表現してるの」
しかし僕にはそれが、本物の花束と花瓶を撮影した写真にしか見えない。鬱のせいで精神的な視覚効果がかかっているのかもしれない。そう思って僕はもう少し近づいてみる。
「すごいよね」と親父の声。親父は僕が興奮して近づいたと思っているのだ。
「これ、写真だよ?」
「えっ!?」
親父が慌てて額のそばまでくる。本来なら病院の空間に慣れ親しんでいるはずの親父が、一番初々しく感じられた。廊下の電気が落とされた病院は薄暗い。幼い頃、僕のぜんそくの吸入治療をするために親父と母ちゃんと三人で通った深夜の救急病院を思い出す。あのときも三人だった。あのときも親父は慌てていた。
「あっ、ほんとだ。写真だ」
親父は押し花であると自慢したばかりの作品の前に立ち、投げるようにつぶやく。その小さな声がこつんと当たって母ちゃんも「ははっ」と笑う。僕もつられて笑ってしまった。
病院は真っ白だ。薄暗くて、どこが角なのか壁なのかその境目もわからない。こんなからっぽの空間に夜八時から朝八時までいる親父とはいったいなんなのか。僕の「親父」の役目を果たしているこの男は何者なのだろう。そして親父の役目を果たしている男性と長年連れ添っている、僕の背後から酩酊したような笑い声を響かせるこの「母ちゃん」と呼ばれる女性はいったい誰だ。
僕の親父の役目を果たしている男性がまた別の場所で言葉を放っている。
「こっちが押し花だったよ! 恭くん!」
男の指の先には、先ほどと同じように花瓶に入った花束の美術作品が白い額に飾られていた。こちらはまぎれもなく押し花であった。ちぎりとった花だけでつくり上げられた、山下清の貼り絵のごとき美しい押し花絵だ。三人で作品を眺めながら、感心の声を離ればなれに投げている。交わりそうで交わらず。
僕は今が何時なのかもわからなくなり、目の前の男と女が生み出している光景が、どこか路地裏で言語が通じないのに手振りと笑顔でなんとなく理解し合えた異国の人たちとの会話に見えてきた。親父と母ちゃんの図像がノイズの入ったテレビ画面のように揺れ、歪み始めたので、僕はすぐにその思考を止めた。
幻年時代
坂口恭平さんの自伝的小説『幻年時代』試し読み