四歳の春。巨大団地を出て、初めて幼稚園に向かうときの400メートルの道のりを軸に、記憶を建築物のように積み上げた坂口恭平さんの自伝的小説『幻年時代』。本書を読むと、現在をつくる記憶の重なりと、過去と未来が入れ替わるような時間を感じることができます。文庫解説で渡辺京二さんは「日本近代文学史上、誰も書かなかった小説」と評されました。このパノラマのような小説の一部を抜粋してお届けします。
二 砂利
幼少期に二つの記憶がある。どちらも僕はベビーカーに乗っている。どちらも楽しい思い出ではない。どちらも僕は大きな声で泣いている。なのに、音の記憶はない。無音のまま誰かを呼んでいる。おそらく両親を呼んでいる。両親の姿はない。背後にいてベビーカーを押しているのかもしれない。ともかく僕には見えていない。ベビーカーが動いているのならば、背後に押している誰かがいるはずだ。
ベビーカーの小さく不定期な振動は、誰かが一緒にいるという暗号なのだ。一方、ベビーカーの停止は僕に不安を与える。
二つとも場所は把握している。
一つ目の記憶は、僕が当時住んでいた福岡県糟屋郡新宮町にある、親父の勤める電電公社の団地から歩いて二十分ぐらいの松林だ。その松林の先には白浜が広がり、玄界灘が見える。無数の松林に囲まれた砂利道の真ん中で、僕はベビーカーに乗って泣いていた。両親を探したいのに、ベルトで捕らえられているのでからだを動かすことができない。とにかく叫ぶしかない。その声は、なぜか僕自身には聞こえていない。だからさらに大きな声をあげる。
二つ目の記憶は、電電公社の団地の二階か、三階だ。階段の踊り場に置かれたベビーカーの上で、やはりこちらも泣いていた。踊り場には柵があり、その隙間から地面が見えている。やはり無音であり、誰かを探している。宇宙に自分ひとりしかいない。そんな不安に襲われている。
二つの記憶には共通点がある。自分の目から見た視点、その坂口恭平を遠くから眺めているもう一つの視点が共存していることだ。そのことを両親に言うと、母ちゃんがあることに気づいた。
「写真で見たのよ。松林の中で泣いている写真。ほら」
手渡された一葉の写真には、海へと繫がる松林の砂利道でベビーカーに乗って泣き叫んでいる僕の姿が写っていた。そうか、写真か。いつ頃かこの写真を見た僕は、泣き叫ぶ自分の目の裏側に入り込み、記憶の風景を勝手につくり出したのかもしれない。ただ、以前にどこかでこの写真を見たという記憶が、僕にはない。踊り場で泣いている僕を撮った写真も存在しているという。しかしその写真は出てこないし、やはりこちらも見た記憶がない。
母ちゃんによれば、僕は二歳のときにはもうベビーカーから降りていたそうだ。つまりベビーカーに乗っていたとすれば、それは一歳のときのこと。一歳の記憶なんて残っているはずがないと親父は言う。
僕もそう思う。でもベビーカーの上で泣いている記憶は、僕の中にたしかにある。さびしがりやの僕は、親父か母ちゃんかは特定できないが、その人が写真を撮るために離れていくのを見て泣いたのではないか。
思い出すことはほとんどない。別にトラウマになっているというわけでもない。でも、たしかにその記憶は沈殿している。
「写真よ」という母ちゃんの言葉が耳にこびりついているが、正直、僕はその言葉を完全に信じてはいない。と同時に、僕は記憶を捏造しているのかもしれないという疑念もどこかにある。
〇歳から九歳までを新宮町で過ごした。小学三年生の夏休みに僕は親父の転勤で熊本市へ引っ越した。熊本市へ移動してからの記憶には背骨が通っており、今の自分にまで直結する。しかしこの新宮での記憶は、それだけで独立しており、僕の人生とは繫がりの薄いものとして残っている。にもかかわらず鮮明なのだ。断片的というよりは、一つの塊としてある。
その塊を形容する言葉を僕は持っておらず、近似した感覚を集めたりすることで、言葉ではなく空間として再現しようと試みたりもした。しかしいつでもその試みは失敗に終わった。何度試みても塊は、すべての部位がそれぞれの機能を理解している機械のごとき九歳以降の記憶に吸収されてしまうのだ。
新宮の記憶は、僕が今、生きていくための柱としている記憶とはまったく別の世界の出来事に思える。坂口家の構成も同じだったはずだが、機能が違っていたのではないか。同じ要素でありながらも、まったく別の生命体だったのではないか、などと考えてしまう。
まったく別の人間の記憶が一部入り込んでしまっているのではないか、とすら思う。新宮町で日常だったはずの世界は、不確定な気体のように今も僕を煙に巻く。
あの日々がなんだったのか。その意味を探りたいのではない。それよりも、僕は自分の中にたしかに存在する生き生きとした空間に興味を持っているのだ。記憶だけでその空間を立ち上がらせることはできないだろうか。多層な記憶による建築を。
体験を通じて感じた大気の手触りが、僕には整理された記憶よりも真に迫ってくる。
幻年時代
坂口恭平さんの自伝的小説『幻年時代』試し読み