オカルトホラーの新星、滝川さりさんの新刊『めぐみの家には、小人がいる。』の試し読みをお届けします。
机の裏に、絨毯の下に、物陰に。小さな悪魔はあなたを狙っている――。
館の中には、焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
美咲はきょろきょろと食堂を見回した。真ん中には、黒い木のテーブルが置かれている。八人掛けの大きなテーブルで、白いクロスが敷かれていた。テーブルの中央には、火の点いていないキャンドルスタンドと花瓶に生けられたポインセチアの花。片隅には、二人分のシチューの皿と、パンが入ったバスケットがあり、できたての湯気を放っていた。さぁ食べようというところで中村真奈に呼び出され、慌てて出ていったのだろう。
天井からは木製の小さなシャンデリアが吊るされ、蜂蜜色の光で部屋を満たしている。壁際に見えるのは、天井まで届く焦げ茶色の大きな棚と、シンプルな装飾の暖炉だ。暖炉の上には、小紫家と思しき家族写真が飾られていた。
椅子を重たそうに引くと、めぐみは「どうぞ」と促した。ありがとう、と美咲は辺りを見回してから、鞄を足許に置いて腰掛ける。
めぐみは自分の席に座ると「いただきます」をして、木のスプーンでシチューを啜り始めた。美咲の前には、濃い黄色のシチューが入った皿が置かれている。人参(にん じん)と玉ねぎがたっぷりと入ったカボチャのシチューだ。この家でなければ、さぞ食欲を刺激されたことだろう。
「……先生? いただきますは?」
パンを千切りながら、めぐみが言う。
「うん……やっぱり、先生はいいよ。見てるだけで」
「お腹、空いてないの?」
「うん」
嘘だ。最近はこの時間帯に旧ゲオルグ邸に行くために、昼休み返上で働いている。休み時間に非常食の菓子パンを胃に入れたが、お腹と背中がくっつきそうな状態だった。
それでも食欲が湧かないのは──さっきから全身に感じる、無数の視線のせいだ。
館に入ったとき……いや、館の前に立ったときからだ。視線の針がちくちくと全身を刺す。向けられる視線は初めて訪れたときよりも無遠慮で──量が増えている気がした。
美咲は早くも館に入ったことを後悔していた。
目を動かす。さっきから部屋中が気になって仕方ない。
何かが、こっちを見ている。
気のせいなんかじゃない。
あちこちに何かが隠れている。
壁。
床下。
天井裏。
暖炉の奥。
冷蔵庫の裏。
テーブルの下。
写真立ての裏側。
バスケットの奥底。
シャンデリアの死角。
ポインセチアの花の陰。
シチューの入った皿の下。
閉め切られたカーテンの裏。
食器棚のわずかに開いた隙間。
薄暗い森が描かれた風景画の裏。
アンティーク調の振り子時計の中。
そのとき、かたん、と足許で固い音がした。思わず肩が跳ねる。
何の音だ。
何かが落ちた音だ。
美咲は恐る恐る、テーブルの下を見る。
小さな丸いものが動いている。咄嗟に椅子を後ろに退いた。
照明の下に現れたのは──裸の飴玉だった。
「ふふ」
ばっと美咲は顔を上げた。めぐみが口に手を当てて無邪気に笑っている。
「……どうしたの?」
「だって、先生、変だよ。さっきから。きょろきょろしてる」
くすくすと笑うめぐみは、馬鹿にしているわけではなく、心底おかしいという様子だった。確かに、さっきから自分の振る舞いはずいぶん滑稽だろう。
美咲は飴玉をつまみ上げると、めぐみに見せた。
「これ……めぐみちゃんが落としたの?」
「ううん。でも、落としておいて」
「どうして? 汚いよ」
美咲は鞄からティッシュを取り出すと、落ちた飴玉を包んで、鞄のポケットに入れた。
「ねぇ、めぐみちゃん。日記のことなんだけど」
「うん」
「小人が猫を……その、殺したって書いてたよね。それは本当なの?」
「……どうして?」
めぐみは目を伏せる。尋ね方がよくなかった。疑っていると思わせてはいけない。
「先生ね、猫が好きなんだ。だから、その猫のお墓を作ってあげたいと思って。もしかして、めぐみちゃんがもう作ってあげた?」
めぐみはパンを咥えながら、ふるふると首を横に振った。
「お墓は作ってない……けど、埋めた」
「埋めた? どこに?」
「家の前」
「家の前って、この前の場所? めぐみちゃん作ってたよね。お友達の──」
言いかけて、美咲は、めぐみがノートに書いていたことを思い出した。
先生に、わたしのひみつの友だちを教えてあげるね。
それから、館の前で交わした会話も。
──誰のお墓?
──友達の
──友達って?
友達とは、何のことだ。
「……えらいね。ちゃんとお墓作ってあげたんだね」
「うん」
「一人でやったの? 言ってくれたら、先生も手伝ったのに」
「だめ」
めぐみの口調は、にべもなかった。
「……どうして?」
「見せられないから」
「何を?」
「猫の死体」
言って、めぐみは新しいパンをかじり始めた。
見せられない。つまり──猫の死体などないのだ。
賢いとはいっても、やはり小学生だ。嘘をつき通す力はない。
猫の死体もない。小人もいない。
なら、この無数の視線も、やはり気のせいに違いないのだ。
そう思うと、空気が軽くなった気がした。細い息を吐いて背もたれによりかかる。
カチャカチャと、スプーンが食器に当たる音だけが響いている。
めぐみの家には、小人がいる。
滝川さりさんの新刊『めぐみの家には、小人がいる。』の情報をお届けします。
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