オカルトホラーの新星、滝川さりさんの新刊『めぐみの家には、小人がいる。』の試し読みをお届けします。
机の裏に、絨毯の下に、物陰に。小さな悪魔はあなたを狙っている――。
中村邸が見えてきた。その前に、女の子が二人いる。
すると家の扉が開いて、中村天妃愛が飛び出してきた。
鉄の柵を開いて、天妃愛は門の前にいた二人に「おはよう」と声をかける。二人は西沢詩音と根本きらり──天妃愛の取り巻きだ。毎朝家の前で天妃愛を待っているのか。
薄紫色と、水色と、エメラルド。美咲が小学生の頃にはなかった色のランドセルが三つ、身を寄せ合って坂を上っていく。
そして、美咲は──自分の足が止まっていることに気づいた。
あの三人が見えなくなるまで、待とうとしている自分がいた。
それは懐かしくも忌まわしい感覚だった。中学生の頃、登校中にクラスメイトの派手なグループ四人組が、先を歩いて道を塞いでいたことがあった。会話しながら歩いている彼女たちは美咲よりも歩みが鈍く、美咲は四人の後ろでゆっくりと歩いていた。そのうち煩わしくなって、抜いてしまおうという気になって、歩道の端から四人を追い抜いたのだ。
すると、背後の会話が止まった。
四人分の視線が、背中に集まっているのを感じた。
──歩き方、キモッ
誰かがそう言って、四人が大笑いする声が弾けた。聞こえたって今の。いやいやキモイでしょあれ。何かさっきから後ろチョロチョロしてんなーって思ってたけど。
美咲は、頭の奥がじんと熱くなるのを感じた。鞄を持つ手に力が入る。
その場から逃げ去りたい衝動に駆られたが、そうすれば彼女たちにさらなる笑いを提供することになる。だから、聞こえなかったふりをして、歩き続けるしかなかった。あれ以来、登校中や下校中にその子たちを見つけたら、わざわざ遠回りするようになった。
そのときと同じことをしている。
身体に染みついた「いじめられっ子」の行動を実践している。
自分の教え子相手に。
小学校三年生相手に。
彼女たちに近づけば、また嫌な思いをすると思って怯えている。
──負けるもんか
美咲は一歩踏み出すと、不自然でない速度で再び歩き出した。子供相手ではすぐに追いつく。追い抜き、他の児童と同様に「おはよう」と声をかける。それでいい。
だが、天妃愛の後ろまで迫って、美咲は彼女がポケットに手を入れているのを見つけてしまった。
見逃す手もあった。何事もなく通り過ぎて、気づかなかったふりをすることもできた。
「──おはよう中村さん。手、ポケットから出そっか」
なのに口にしてしまったのは、多分、「教師」でいたかったからだと思う。
微笑みながら、できるだけ優しい口調で言ったつもりだったが、楽しげだった三人の会話がピタリと止んだ。まだあどけない六つの瞳が美咲を睨んでいる。
当たり前のように誰もあいさつを返してはくれない。美咲は天妃愛たちを追い越すと、前に向き直って、不自然にならないよう歩いた。背後からは「何あいつ」とつぶやく低い声が聞こえた気がした。
それでも美咲には、これでいいと思えた。
小学校に着くまでは。
職員室に入ると、受話器を手で押さえた白井が美咲を呼んだ。
「ああ、立野先生。よかった、早く出てください」
自分宛てに電話がかかっているのだとすぐにわかった。電話の相手が誰なのかも。
こんな時間にかけてきて、白井が焦る相手は一人しかいない。
鞄も置かずに受話器を受け取る。
「……もしもし、代わりました」
『立野先生ですか?』
早口気味の、やや神経質そうな声。
『中村です。中村天妃愛の母ですが』
でしょうね、と口の中でつぶやく。やはり中村真奈だ。お世話になっております、と言ってみたが、真奈は「どうも」と言っただけだった。
白井は美咲のそばで手を後ろに回して立っている。職員室はやたら静かだ。真奈からのクレームの電話だと全員が察していて、聞き耳を立てているのは明らかだった。
『今朝のことなんですが、うちの天妃愛がポケットに手を入れて歩いていたのを、注意してくださったそうで』
はい、と美咲は返す。今朝というか、ついさっきのことだ。どうやって知ったのだろう。まさか、天妃愛はあの後、わざわざ家に戻って母親に報告したのだろうか。
『逆襲のつもりですか?』
はい? と聞き返さずにはいられなかった。
『この前、先生がポケットに手を入れているのを私が注意したもんですから、天妃愛に注意し返して、意趣返しのつもりですかと申し上げているんです』
「……いえ、そんな──」
どういう発想なのだろう。美咲は心底困惑した。自分はただ、教師として言うべきことを言っただけだ。相手がどの子だろうが、毅然とした態度で公平に対応しようと──
『そもそも、一度注意されているあなたが、そのことでいっぱしに子供たちに注意できるとお思いですか?』
冷静を取り繕おうとしているが、真奈の声には隠し切れない怒りがにじんでいる。
「あの、何か、誤解があるみたいで」
『あなたはどうやら、私たち母娘のことを目の敵にしているようですけどね』
愕然とした。自分を目の敵にしているのはそちらではないか。
そう言い返してやりたい気持ちを、ぐっと堪える。
『子供を注意するときには個人的な感情に流されず、論理的に、粛々とやるべきではないでしょうか。そうでないと、傍(はた)から見れば子供同士のケンカのようになってしまう……そう思われませんか?』
「そんな、個人的な感情では」
『思われませんか? はいかいいえでお答えください』
「いや、それは」
『はいかいいえでお答えください』
「中村さん、私はですね」
『はいかいいえでお答えください。三度目ですよ』
「……はい。その点は、おっしゃるとおりだと思います」
すると、電話口から大げさなため息が聞こえてきた。
『よかった。まだ先生が、ご自分の非を認められる方でホッとしました』
目が回るような気がした。いつの間にかこっちが悪いことになっている。自分の非とは何だろう。天妃愛がポケットに手を入れていて、そのことを注意しただけなのに。
いや、わかっている。真奈は、天妃愛は、悔しかったのだ。見下している相手に注意されて、何とかやり返さないと気が済まなかったのだろう。注意したことが、そもそも間違いだったのだ。
『感情的になるのはよくありません。理性的でいることが我々大人の仕事でしょう?』
「はい」
『先生はまだお若いから難しいでしょうけど、子供たちと一緒に成長していかないと』
「はい」
『よかったです。それじゃあ、教頭先生と代わっていただけます?』
「はい」
受話器を渡すと、白井は一拍置いてから受け取った。二、三言話してから電話を切ると、美咲に向かってうんうんと頷きながら微笑んだ。
「立野先生」
「はい」
「中村さんには何とか矛を収めていただけました。今後は、大人の対応をお願いします」
それがとどめだった。
一学期のときと同じだ。いつの間にか「美咲が天妃愛の名前を笑った」ことが事実になっていたときと。今度は「美咲は天妃愛に感情的な態度を取った」という事実を、真奈と白井によって作り上げられてしまった。
美咲はようやく自分のデスクに鞄を置くと、静かに座った。隣の芝田はもういなかった。職員室からはぞくぞくと担任を持つ教師が出ていく。もうすぐ一時間目が始まる時間だ。
パソコンの上には、ミニドーナツが置かれていた。
しかし、それに手を伸ばす気はどうしても起きなかった。
めぐみの家には、小人がいる。
滝川さりさんの新刊『めぐみの家には、小人がいる。』の情報をお届けします。
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