オカルトホラーの新星、滝川さりさんの新刊『めぐみの家には、小人がいる。』の試し読みをお届けします。
机の裏に、絨毯の下に、物陰に。小さな悪魔はあなたを狙っている――。
* * *
飛び交う叫び声まで、あのときと同じだ。
床に広がった自分の吐瀉物を眺めていると、不思議と頭は冴えていった。
天妃愛たちだ。そうに違いない──めぐみから交換日記のノートを取り上げて、中身を読んで、美咲の恐怖症を知って、こんな嫌がらせを思いついたのだろう。
喉が熱い。苦く酸っぱい味が舌にまとわりついている。床とつながった唾液の糸を、ぺっと唾を吐くことで切って捨てる。
「先生……大丈夫……?」
女子児童……織田さんが箒を放り出して、美咲の背中をさすり始めた。
「大丈夫……ありがとね」
他の子たちはみんな唖然として、目を丸くして立ち尽くしていた。美咲はフラフラと雑巾と塵取りを持ってくると、自分の吐いたものを片付けた。それから、子供たちにもう帰っていいことを伝える。誰もが素直に言うことを聞いた。
ノートを回収すると、教室を出た。
窓から校門の方を見ると──いた。三人と一人。ノートを磔にしたのが掃除中のことなら、まだ校内にいる可能性は高いと思った。
駆け足で階段を降り、上履きのままで校門へ走る。
「天妃愛さん」
追いついて呼びかけると、振り返った天妃愛は口だけで笑った。オーバーサイズの真っ白なセーターのせいで、妙に艶っぽく見える。
一緒にいたのはやはり西沢詩音と根本きらりで、彼女たちも軽薄な笑みを浮かべていた。もう一人はめぐみで、彼女はランドセルを三つも両手に抱えていた。なぜか三人よりもずっと後ろめたそうな顔をして、美咲を見つめている。
校門付近には、他にも下校する子供たちがいた。美咲に向かって「先生さようなら」と手を振ってくれる子もいる。
だが美咲は返さなかった。じっと目の前の少女を見つめていた。
「これ、あなたたちがやったの?」
美咲は、穴だらけになった交換日記のノートを見せた。自分たちの嫌がらせがちゃんと日の目を見たことを知り、天妃愛たちは嬉しそうにした。子供だから詰めが甘いというより、完全に美咲を舐めているのだろう。
「いいえ? 何ですかそれ。知りませーん」
ねー、と天妃愛が呼びかけると、詩音ときらりも「知らなーい」と甘えた声を出す。
「どしたの先生? 顔色悪いですよ」
「……どうして、小紫さんがみんなのランドセルを持ってるの?」
「え? 荷物持ちじゃんけんで負けたからですけど。そういう遊びなんです」
明らかな嘘。隠す気すらない。嘘だとすぐわかる嘘をつくことで、こっちをからかっているのだ。
「……ねぇ、もうやめない? こんなこと」
「こんなことって何ですかー?」
口の中がまだ酸っぱい。
「いじめだよ。わからない? いじめられる側が、どんな気持ちでいるか」
くすくすと少女は笑った。
「わかんないよ。いじめられたことないし。でも、先生はよくわかるんですよね」
ぷ、と詩音が噴き出した。
「……何が言いたいの?」
まださっきの嘔吐が尾を引いている。胃が痙攣している。
「ママが言ってた。『あの先生は、絶対やられた側だ』って。大人になってもそういう人はバレバレだって。タイテイは仕事もできないし、人をイライラさせる」
かわいそう、ときらりが笑いながら言った。
美咲は無意識に拳を握っていた。
赤い衝動が目の前でチカチカする。ぶん殴ってやろうか。本気でそう考えた。やったらやり返される。そのことを最後にこいつらに教えて、教師など辞めてやろうか。
一歩踏み出そうとしたとき、校門の近くに一台の車が停まった。
中から出てきたのは、天妃愛の母親──中村真奈だった。
その顔を見た瞬間に熱が冷め、拳は自然にほどけた。彼女の目は吊り上がっていた。
「立野先生」
一目で高価とわかる真っ白なコートをなびかせて、真奈は天妃愛と美咲の間に立つ。
「中村さん……どうかされましたか?」
「あなたって人は、どうしようもない人ですね」
赤い唇から、いきなり鋭い声が出た。
「教育者として自覚が足りないんです。若いからって何度でも許されると思ったら大間違いですよ」
「あの、いったい、どういう……」
「胸に手を当ててみなさい。……いや、あなたの手に持ってる物が答えじゃないですか」
美咲は手を見た。あるのは、ズタズタになったノートだ。
そしてようやく、美咲は真奈の訪問の理由を悟った。
「交換日記をしているそうですね。特定の児童──ここにいる小紫さんと。教師として、著しく公平性を欠くと思わなかったんですか?」
ノートは天妃愛の手に渡っていた。そして、真奈の目に触れたのだ。よりによって、最も知られたくない相手に。
「こ、これは……」
言葉を紡ごうとする美咲に、真奈は手のひらをかざした。
「ああ、大丈夫です。先生にはしっかりとご説明いただこうと思い、こうして時間を作ってきたんですから。寒空の下でなく、職員室で」
ではいきましょう、と真奈は促す。
美咲はめぐみを見た。大きな瞳は潤んで、震えていた。天妃愛たちから助け出してほしいと訴えているように見えたし、自分のせいで真奈に文句をつけられていることを詫びているようにも見えた。
違う──めぐみは悪くない。交換日記だって悪いことじゃない。
こんなものはただの難癖だ。言いがかりだ。
真奈は濃いアイシャドウで塗られた目に好戦的な光をみなぎらせていた。彼女の後ろで、天妃愛は口を押さえて笑いをこらえている。
こいつらは、弱い者いじめがしたいだけだ。
「……あ、あなたの娘さんは、いじめをしています」
「は?」
真奈の声は低く響いた。
「ランドセルを持たせています。このノートだって、この子たちがやったんです」
真奈は天妃愛に視線を送ると、
「何言ってるんですか。違うよね? ソフィちゃん」
「うん。ランドセルは荷物持ちじゃんけんしたからだし、ノートはママに見せてからちゃんとめぐみに返したよ」
ほら、と美咲に向き直る。
もう何も言う気が起きなくなっていた。
「いきましょう。ソフィちゃんたちは、先におうちに帰ってて。みんなで仲良くね」
はぁいと答えると、天妃愛はめぐみの方へ走り、そのランドセルを背後からバンと叩いた。よろけためぐみは前のめりに倒れて、アスファルトに手をついた。両手に持っていた天妃愛たちのランドセルが投げ出される。
「あ、何やってんの」
「あたしたちのなのに。あーあ、これ罰ゲームだね」
「いいよ。みんなでいっぱい遊ぼう」
三人は無理やりめぐみを立たせると、校門の外に向かって歩き出す。待ちなさいと声をかけようとした美咲を、真奈が睨んだ。それがどうした。止めなければ。放っておけば、どんなことになるかわからない。
すると、めぐみが振り返った。そして美咲を見て、ランドセルがかかった腕を重たそうに持ち上げて手を振った。
それがどういう意味なのか、美咲にはわからなかった。「大丈夫だよ」と安心させようとしてくれたのか、「もうお前には頼らない」と見限られたのか。
彼女は最後まで、声を出そうとはしなかった。
めぐみの家には、小人がいる。
滝川さりさんの新刊『めぐみの家には、小人がいる。』の情報をお届けします。
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