コロナ禍で強いられた窮屈で不自由な生活。コロナ禍の前から拡大していた家庭格差。この厳しい社会環境で生きる子供たちに、いま何が起きているのか? 石井光太さんの話題のベストセラー『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)から、冒頭部分を抜粋してお届けします。
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「母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」
都内のある公立小学校から講演会に招かれた時のことだ。校長先生が学校の空気を感じてほしいと国語の授業見学をさせてくれた。小学四年生の教室の後方から授業を見ていたところ、生徒の間から耳を疑うような発言が飛び交いだした。
「この話の場面は、死んだお母さんをお鍋に入れて消毒しているところだと思います」
「私たちの班の意見は違います。もう死んでいるお母さんを消毒しても意味がないです。それより、昔はお墓がなかったので、死んだ人は燃やす代わりにお湯で煮て骨にしていたんだと思います」
「昔もお墓はあったはずです。だって、うちのおばあちゃんのお墓はあるから。でも、昔は焼くところ(火葬場)がないから、お湯で溶かして骨にしてから、お墓に埋めなければならなかったんだと思います」
「うちの班も同じです。死体をそのままにしたらばい菌とかすごいから、煮て骨にして土に埋めたんだと思います」
生徒たちが開いていたのは国語の教科書の『ごんぎつね』だ。作家新実南吉が十八歳の時に書いた児童文学で、半世紀以上も国語の教材として用いられている。生徒たちはその一節を読んだ後、班ごとにわかれてどういう場面だったかを話し合い、意見を述べていたのである。
『ごんぎつね』の話を覚えていない方のために、おおまかな内容を記そう。
ある山に、「ごん」という狐が住んでいた。ごんは悪ふざけが好きで、近くの村の人たちに迷惑ばかりかけていた。その日も、小川で兵十(ひょうじゅう)という男性が獲ったうなぎや魚を逃がしてしまった。
一〇日ほど経った日、ごんは兵十の家で母親の葬儀が行われているのを見かける。兵十が川で魚を獲っていたのは、病気の母親に食べさせるためだったのかと気づく。自分はそれを知らずに逃がしてしまったのだ。ごんは反省し、罪滅ぼしのために毎日のように兵十の家へ行き、内緒で栗や松茸を届ける。
そんなある日、兵十は自分の家にごんが忍び込んでいるのを目撃する。彼は、いたずらをしに来たのか、と早とちりして火縄銃で撃ち殺す。だが、土間に栗が置かれているのを見て、これまで食べ物を運んでくれていたのがごんだったことに気づきその場に立ちすくむ――。
授業で取り上げたのは、ごんが兵十の母親の葬儀に出くわす場面である。そこでは、兵十の家に村人たちが集まり、葬儀の準備をしているシーンが描かれる。家の前では村の女たちが大きな鍋で料理をしている。作中の描写は次の通りだ。
〈よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました〉
新実南吉は、ごんが見た光景なので「何か」という表現をしたのだ。葬儀で村の女性たちが正装をして力を合わせて大きな鍋で何かを煮ていると書かれていることから、常識的に読めば、参列者にふるまう食事を用意している場面だと想像できるはずだ。
教員もそう考えて、生徒たちを班にわけて「鍋で何を煮ているのか」などを話し合わせた。ところが、生徒たちは冒頭のように「兵十の母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」と回答したのである。
当初、私は生徒たちがふざけて答えているのだと思っていた。だが、八つの班のうち五つの班が、三、四人で話し合った結論として、「死体を煮る」と答えているのだ。みんな真剣な表情で、冗談めかした様子は微塵もない。この学校は一学年四クラスの、学力レベルとしてはごく普通の小学校だ。
おそらく私にとって初めてのことなら、苦笑いして流していただろう。だが、似たような場面に出くわしたのは一度や二度ではなかった。
私は著述業をする傍ら年間に五〇件ほど講演会を引き受けており、子供をテーマにしたノンフィクションや児童書を数多く手掛けていることから、依頼の三割は学校をはじめとした教育機関だ。そのため、この十数年ほぼ毎月、全国のいろんな教育機関を訪れ、実際に授業に参加させてもらったり、教員や保護者と語り合ったりしているのだが、たびたび同様のことを目撃していたのである。
とはいえ、授業に口出しするのも憚(はばか)られるので、毎回私はその場にいた教員と「困りましたね」と笑って済ませたり、聞こえなかったふりをしてやりすごしたりしていた。だが、この時の授業では、生徒たちから出ていた意見があまりに現実離れしていたこともあって強烈に頭に残り、これまでの体験との関連性を考えずにはいられなかったのである。
講演会が終わって校長室でお茶を飲んでいる時、私は『ごんぎつね』のことを持ち出し、ああいう意見はよく出るのかと尋ねた。校長の男性は、三〇年以上の教員経験があり、国語を専門にしていた。彼は次のように語った。
「今日のケースは少々極端でしたが、最近は多かれ少なかれあのような意見が出るのは普通です。教員もそれをわかっているので、先ほどの授業でも班になって話し合わせたのでしょう。それでもああいう回答になってしまったようですが……。残念ながら、似たようなことは、私も他の学校でしばしば経験してきました」
校長が同じような例として挙げたのが、四年生の国語の教科書に載っている戦争文学の名作『一つの花』(今西祐行)だった。物語の概要を記す。
戦時中、どの家も貧しく十分なご飯がなかった。ひもじい生活の中で育った少女ゆみ子は、「一つだけちょうだい」と言うのが口癖になっていた。そう頼めば、何かもらえると思ったのだ。イモ、カボチャの煮つけ、何を求めるにしても、かならず「一つだけ」と付け加えるのを忘れなかった。
戦争が激しくなり、ついに父親が兵士として戦場へ行くことになった。駅へ見送りに行く途中、ゆみ子は「一つだけ」と言って父親が持っていくはずのおにぎりをみんな食べてしまった。汽車に乗り込む前、ゆみ子はまた「一つだけ」とおにぎりをせがみだす。もうおにぎりは残っていない。父親は不憫に思い、駅構内のゴミ捨て場のようなところに咲くコスモスを摘んで、「一つだけあげよう」と言って渡す。
一〇年が過ぎ、戦争が終わって日本に平和な日常が訪れた。父親は戦争から帰ってこなかった。その代わり、ゆみ子の家の周りにはたくさんのコスモスが咲き乱れていた――。
校長によれば、この物語を生徒たちに読ませ、父親が駅でコスモスを一輪あげた理由を尋ねると、次のような回答があるという。
「駅で騒いだ罰として、(ゴミ捨て場のようなところに咲く)汚い花をゆみ子に食べさせた」
「このお父さんはお金儲けのためにコスモスを盗んだ。娘にそのコスモスを庭に植えさせて売ればお金になると思ったから」
作中には、父親がコスモスを渡した時の心理描写はないが、登場人物の立場に立ち、状況や背景を踏まえれば、行間から父親の気持ちを想像できるだろう。だが、一部の生徒たちはその力がないので、父親の悪意や欲望を描いた作品だと受け取ってしまう。二〇二二年二月八日の朝日新聞朝刊でも、この物語の誤読問題が取り上げられているので、特別な例ではないのだろう。
校長はつづける。
「学校は学力を育てる場なので、子供たちが誤読をするのは悪いことではありません。そこで教員に正してもらうことで、読解力を高めていけばいい。でも私は、こうした子たちの反応は単なる読み間違いではないと考えています。
もし『ごんぎつね』の鍋のシーンを、家が食堂を経営しているとか、喪服を消毒していると読んだのだとしたら、誤解と言えるでしょう。ありえないことではないからです。しかし、母親の死体を煮ているというのは、常識に照らし合わせれば明らかにおかしいとわかるはずで、平気でそう解釈してしまうのは単なる読み間違いではありません。
こうした子たちに何が欠けているのかといえば、読解力以前の基礎的な能力なのです。登場人物の気持ちを想像する力とか、別の事を結び付けて考える力とか、物語の背景を思い描く力などです。自分の考えを客観視する批判的思考もそうでしょう。それらの力が不足しているから、常識に照らし合わせればとんでもないような発想をしているのに気づかず、手を挙げて平然と答えられてしまう。読解力の有無で済ましてはいけないことだと思うのです」
校長がそう語る背景にあるのは、近年教育業界を中心に湧き起こっている「読解力の低下」の議論だ。
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続きはぜひ『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋)でお読みください。