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リンカーンの医者の犬

2002.09.01 公開 ポスト

母と娘上原隆

 「お金貸して」電話から母聡子(56歳)の声が聞こえてくる。
〈またか〉斉藤真弓(35歳)は一瞬にして暗い気持ちになる。
「あんた聞いてんの?」しわがれた母の声だ。
「私は貸さへんっていうてるやろ、他あたって」真弓の声は震えている。
「100万、どうしても明日までに必要やねん、それぐらいあるやろ、お願いやから」母がすがりつく。
「そんなこといわれても困る……」といったきり真弓は黙る。
「私はあんたの親やで、100万なんてあんたにとってたいしたことないやろ、なんとかして」母がいう。
 真弓は受話器をギュッと握りしめ、開きそうになる親子の情の扉を必死になって押さえている。

 真弓が高校1年生の時に、父が癌で亡くなり、母はホステスとして働きはじめた。働きだして、母は生き生きとした。水商売が性に合っていたらしい。小柄で二重まぶたの大きな目をした美人の母は、いつも両手に3つ以上の指輪をはめ、香水の香りをふりまいて歩いていた。
 高校2年生の時に、母に恋人ができた。男は不動産業を営んでいた。彼の力で母は自分の店を出してもらった。さらに、母も不動産業に手を出し、大金を動かすようになる。
 大学生になった年に、母は男といっしょに住みはじめるが、真弓は男と口をきかないようにした。
 真弓は大学を卒業し、小学校の教師となり、同じ職場で知り合った男と結婚した。25歳の時だ。母が鉄筋2階建ての家を建ててくれた。1階に母と恋人が住み、2階に真弓と夫が住むことになった。ひとつ屋根の下に身内全員が住む。これが母の望みだった。母は身内のためなら命を捨ててもいいという人だ。自分がそうなのだから、子どもだって同じように思って当然だと考えている。
 真弓はそういう母をうっとうしいと感じていた。
 26歳で長女、真知子を生む。その頃から、母の不動産業が危うくなってきた。バブル経済が崩壊した頃だ。
 家を担保に5,000万円を借りたいので、書類に判を押してくれと母が真弓にいった。名義は真弓のものになっているが、もともと母の金で建てたものだ。母の自由にしたらいいと思った。
 その年の暮れ、真弓のところに、銀行からの督促状がきた。家を担保に貸した金の利息を支払えというのだ。
 督促状を母に渡した。
 しばらくすると、また銀行から、今度は電話で、利息を払えといってきた。真弓は銀行に出向いてお金は母が借りたのだと説明した。
 2日後、母から学校に電話があった。銀行が彼女に通知したらしい。
「あんたなんてことしてくれたんよ」母は怒っている。「私はちゃんと返すいうてるのに、よけいなことするな!」

 母は不動産業で大きな借金をかかえていた。
 身内は一体だ、だから、自分が困れば、娘のお金を頼りにするのは当然だと母は考えている。真弓は母親に10万、20万と何度となく貸した。
 母は真弓に借りたお金で孫の真知子におみやげを買ってきたりする。真弓はそんな母が嫌いだ。
 母が2階に上がってきた。
「掃除しいや」
 入ってくるなり、文句をいう。
「忙しくて、そんなにきれいにしてられへんわ」真弓は2歳の真知子を抱きかかえながら答える。
 母は床にすわりこむと、真弓を見上げた。
「あと7時間以内に50万いるねん。なんとかして」
「そんなお金、手元にないわ。それに、いまからこの子を病院に連れていかんとあかんねん」
「キャッシュカードあるやろ、ちょっと貸して」母がいう。
「あるけど……」
「あんたが時間ないのやったら、自分で行ってくるから、ちょっと貸しといて」そういうと母は立ち上がり、真弓が抱いている真知子を受け取った。母は真知子を抱き、頬ずりをしている。
 真弓はバッグから銀行のキャッシュ・カードを出して、母に渡した。
「銀行からの督促状や催促の電話はいややからね」
「なにビビッてんの。あんた公務員なんやから、大丈夫やて」母は抱いていた真知子のほっぺたにキスをしてから真弓に渡す。
 真弓は母のベタベタした感じがイヤだなと思う。
「50万だけやで、カードすぐ返してや」真弓はいう。
「わかってる。あんた気ィきついな。親に対する情というもんがないのんかいな」そういうと母は一階に降りていく。
「わたしかてやさしい娘でいたいわ」真弓は母の背中にいった。
 すこしして、母が戻ってきた。
「暗証番号教えて」母がいう。
「1023」真弓がいう。
「私の誕生日?」母がきく。
「うん」真弓はうなずいて母を見る。
 母はちょっととまどったような、泣きたいような顔をした。

 28歳の時に真弓は2人目の子を身ごもり、出産休暇をとって家にいた。平日の午後、洗濯ものをたたんでいると、男がたずねてきた。ドアを開けると、「斉藤聡子を出さんかい」と怒鳴った。黒のシャツに金のネックレス、見るからにヤクザだ。
「いません」と答えると、「嘘つくな」というなり、家に上がりこんで、探しまわった。
〈こんな体だから、私には乱暴をしないだろう〉と真弓は考えていた。
 男は「どこいってん」とすごむ。「店だと思う」と答えると、男は電話の受話器を取り上げ、「電話番号」とにらんだ。電話番号を教えた。男は店の人といい合っていたかと思うと、何もいわずに出ていった。
 真弓はドアの鍵をかけて、床にへたり込んでしまった。
 1時間ほどして母が帰ってきた。
 母にヤクザが来たことを説明した。
「家にあがって、電話を使った? 勝手に人のうちの電話を使うなんて、なんちゅうヤツや」母は怒っている。
 母がこわがらずに怒っていることに真弓は驚いた。
「2階の電話かして」というと、母は2階に上がった。警察に電話をしていた。
 しばらくすると、2人の警察官が来て、話をきき、1階の電話から指紋を採った。
〈私には耐えられない〉真弓は家を出ようと思った。
 彼女は夫と相談して、マンションを買い、家を出た。

 家を出て以来、母からの借金の申し込みはすべてことわることに決めた。しかし、母は真知子の服を縫ったからとかバッグを買ったからとかいっては訪ねてきた。家に上がり、おしゃべりをしていると、「ちょっと、お金を貸して」ということになる。真弓はことわりきれずに、10万、20万と渡してしまう。母が帰った後で、ことわりきれない自分が情けなくなる。
 ある時、学校に借金取りから電話がかかってきた。母が1,000万円近く借金したのだという。「娘なら100万でも200万でも返せ、返せないなら校門の前でふれまわるぞ」と脅された。回りに先生たちのいる職員室で電話をしていて、真弓は「はい」とか「いいえ」しかいえなかった。何度も何度も電話がかかってきた。真弓は眠れなくなり、精神的におかしくなりそうだった。仕方なく、100万円を返した。
 真弓はもう、親子の縁を切ろうと思った。

 母と会わないようにした。電話がかかってきても母の声だとわかると受話器を置いた。何度も「真知子の顔が見たい」といってきたが、真弓は無視した。ひとことでも話すと、母の言葉に引きずられて、グチャグチャの関係になってしまいそうだからだ。
 会わないし、話もしないし、声もきかない。そんな日々が2年近く続いた。
 ある日、ピンポーンとインターフォンがなった。
「はい?」と真弓は答える。
「私」と母親の声がする。
「なに?」真弓がきく。
「真知子にセーターつくったから」
〈会いたくない〉と真弓は思う。
 真弓はインターフォンに聞こえるように、
「真知子、おばあちゃんが来てはる、ちょっと出て」という。
 小学校2年生の真知子は玄関に行き、ドアを開ける。母と話している。ドアが閉まる音がする。母は去ったらしい。真知子が走って戻ってくる。小さな腕に紙袋を抱えている。
「真知子のセーターあんでくれたんやて」真知子がうれしそうにいう。
「そう。よかったな。開けてみ」真弓がいうと、真知子は紙袋からセーターを取りだす。クリーム色のセーター、胸にキティちゃんの模様が入っている。
「キティちゃん!」真知子が喜ぶ。
「着てごらん」
 母にとって真知子は可愛い孫なのだ。会いたくて会いたくて仕方がないことは知っている。そう思うと母がかわいそうだが、母が自分の生活に入ってくれば、また金銭沙汰でもめて、つらい思いをするに決まっている。
 真知子がセーターに腕を通す。首を入れようとするがナカナカ入らない。どうにか着ると、袖が短く、丈もへそのところまでしかない。小さすぎる。
〈なんでこんな小さいなものを?〉真弓は考えた。そして、すぐにその理由がわかった。真弓の目が涙でいっぱいになった。
 母と真知子は2年前に会ったきりだった。 

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リンカーンの医者の犬

心にグッとくるエピソードを求めて、東へ西へ南へ北へと歩き続けて靴底を減らす上原隆さんの新連載始動!

 

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上原隆

1949年横浜市生まれ、コラムニスト。著書に『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬舎アウトロー文庫)『喜びは悲しみのあとに』(幻冬舎)などがある。心にグッとくるエピソードを求めて、東へ西へ南へ北へと歩き続けて靴底を減らしている。お話を聞かせてくれる方は uehara@t.email.ne.jp までご連絡をください。

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