市川海老蔵改め十三代目市川團十郎白猿を昨年、見事に襲名、市川團十郎家は今後安泰か――。世襲が目立つ三業界(政・財・歌舞伎界)を徹底比較した注目の新刊『世襲 政治・企業・歌舞伎』(中川右介著)から、約400年続く歌舞伎界の中心・市川宗家をピックアップ。男系男子にこだわらず、女系男子、女婿、養子などあらゆる策で「世襲」を維持してきたトップの家の歴史とは。
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「歌舞伎役者はみな親戚」とよく言われるが、それは誇張ではなく、数人の大幹部とその子・孫たちは、ひとつの巨大ファミリーを構成している。逆に言えば、このファミリーに属していなければ、歌舞伎座で主役級の役につくことはできない。
巨大ファミリーの中心に位置するのが市川團十郎家だ。「市川宗家」とも呼ばれ、劇界全体の「宗家」である。
市川團十郎家をはじめ昭和戦後から平成年間までは、ほとんどの家で実子が家と名跡を世襲しているが、これは約四百年の歌舞伎の歴史のなかで珍しいことだ。昔は世襲したとしても養子が継ぐことのほうが多かった。
実子による世襲がうまくいくには、まずその役者に男子が生まれなければならない。戦後から平成にかけては、奇跡的に、結婚したほとんどの幹部役者に男子が生まれた。男子が生まれなかったのは二代目中村吉右衛門くらいだ(女子が四人で、ひとりが尾上菊之助と結婚)。
次に、その生まれた子が役者になってくれるかどうかという問題が生じる。他の道を選ぶ子がいても不思議ではないのだ。だが、「役者なんていやだ」と思い、青春期に一時的に歌舞伎から離れる子はいても、結局、ほとんどの子が役者になっている。
そして三番目の問題が、役者になった子が父と並ぶくらいの役者になれるかどうかである。他の演劇などでは、これがいちばん難しい。俳優になれても大成できるかどうかは、実力と運によって決まる。
だが歌舞伎の世界では、世襲もさることながら、門閥主義が定着しているので、御曹司として生まれて役者になると、よほどのことがない限り、舞台で父が演じた役をもらえる。逆に言えば、幹部役者の子でなければ、歌舞伎座で主役を演じることはできない。
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なぜ「市川團十郎」は特別なのか
序で述べたように、現在まで続く歌舞伎役者の「家」で最も長い歴史を持つのが市川團十郎家である。血統は途中で絶えたが、「家」としては途切れることなく、十三代続いた。しかも、ただ長く続いているだけでなく、歌舞伎界のトップであり続けた。
初代市川團十郎は元禄時代に江戸歌舞伎を創始し、明治の九代目が歌舞伎と歌舞伎役者を高尚化させることに成功した点で、歌舞伎界に重要な功績があり、この家を中心かつ頂点とすることで、劇界は秩序を維持してきた。
したがって「なぜ市川團十郎は特別なのか」という問いは、無意味である。「市川團十郎を頂点とする世界が、歌舞伎の世界」なので、それを認めたくない人は出ていくしかないのだ。
初代市川團十郎の生年は諸説あるが、約三百六十年前、万治三年(一六六〇)が一応の定説となっている。本名「堀越海老蔵」という。堀越家のルーツについては、出身地は諸説あるが、武士だったという点では一致している。父・堀越重蔵は江戸の俠客のひとりだった。
以下、代々の市川團十郎については、代数のみで示す(他の役者と紛らわしい場合は補う)。
徳川時代、役者は武士ではないので公式には苗字を名乗れなかったが、代々の團十郎には自分は「堀越」だという意識があった。明治維新となり役者も苗字を持てるようになった際、九代目は自分の姓を「堀越」として届け出て、それが現在まで続き、八代目市川新之助は本名の「堀越勸玄」として舞台に出ていた。
江戸で俠客となっていた堀越重蔵の子がどうして歌舞伎役者になったのか、その詳しい経緯は分からない。市川宗家が刊行した史書『市川團十郎の代々』(伊原青々園著)によると、初舞台は十四歳になる延宝元年(一六七三)で、中村座。この時点では「市川海老蔵」と名乗った。海老蔵は初代の本名だが、なぜ姓が「市川」なのかは、堀越家の出身地が奥州の市川だとする説があるが、はっきりしない。「市川團十郎」と名乗るのは(最初は「段十郎」)、二年後の延宝三年(一六七五)のことである。
市川團十郎家の「家の藝」の基本は、「荒事」にある。
通説では、初舞台で初代は『四天王稚立』の坂田公時を演じ、一気に人気が出た。この時、團十郎は顔の筋肉を誇張した隈取くまどりという独特の化粧法と、奇抜な衣装で舞台狭しと暴れまわった。江戸の芝居にはすでに荒々しい武者が立ち回りをする「荒武者事」と呼ばれるものがあったので、それと融合させ、英雄豪傑が暴れまわる、荒唐無稽と言えばそれまでだが爽快な活劇となった。これが、「荒事」と名付けられ、「市川團十郎の家の藝」となる。
この「荒事」の芝居を十四歳の初代が自分で考えたのか、周囲にいまでいうプロデューサーやシナリオライター、演出家のグループがいたのか、その背景はよく分からない。
ともかく、ひとりのスターによって江戸歌舞伎は新しい歴史を歩み始めたのである。
初代が初舞台を踏んだ「中村座」の座元が中村勘三郎である。この家については後述するが、初代中村勘三郎は、寛永元年(一六二四)に、江戸に初めて常設の芝居小屋を建てて興行を打った人で、初代團十郎の初舞台は、三代目勘三郎の時代だ。
初代の突然の死が二代目を生む
どんなに優れ人気のある役者でも、その人が死ねばその藝も消える。伝説は残るかもしれないが、実体は消えてしまう。だが、「市川團十郎」はそうではなかった。初代は死んでもその藝が息子へと引き継がれた。
代を重ねるにつれて、初代團十郎個人の藝は「家の藝」となっていく。「個人の藝」から「家の藝」への飛躍は二代目によってなされた。なぜ、二代目團十郎にはそれが可能だったのか。
この飛躍は、初代團十郎が周到に計画し用意していたところに、偶発的な事件が起きたからこそ可能だった。どちらかが欠けても、こうはならなかったであろう。
※続きは『世襲 政治・企業・歌舞伎』(中川右介著)をお手にとってお楽しみください。