人気の歴史小説作家・伊東潤さんが、作家デビュー15年の節目に満を持して上梓した『一睡の夢 家康と淀殿』。本作は、戦国時代の終焉となった「大坂の陣」が始まるまでの道程を、徳川方・豊臣方それぞれの思惑や因縁、野心や矜持を織り交ぜながら、哀歓豊かに描く歴史ロマンです。来年の大河ドラマ「どうする家康」が話題を振りまくなか、その予習の書としても最適な本書の読みどころや創作秘話を伊東さんにうかがいました。(聞き手 幻冬舎plus編集部)
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──関ヶ原の戦いを描いた『天下大乱』から大坂の陣を描いた『一睡の夢 家康と淀殿』へと、中1ヶ月置いただけの連続刊行となりました。まさに戦国時代の終焉を満喫させていただきました。
伊東 お疲れ様でした(笑)。研究の深化と自分の筆力の充実を考慮し、デビュー15年のこのタイミングで、戦国時代の白眉となる関ヶ原の戦いと大坂の陣を描いておこうと思いました。自分自身で「キャリアの折り返し地点」と位置付けている今年、この二作を出すことができ、感慨深いものがあります。
──二作とも、全く新しい視点から二つの合戦を照射しており、とても新鮮に感じました。
伊東 家康に対峙するものとして、『天下大乱』では毛利輝元を、『一睡の夢 家康と淀殿』では淀殿を視点人物に据えたことで、「対決」という要素が強く打ち出せました。二つの視点がスイッチしていくことで、駆け引きに緊迫感が生まれるデュアル視点の強みを十分に生かせたと思います。
──史料や研究書の渉猟もたいへんだったでしょう。
伊東 このあたりの歴史は、詳しい方が多いですからね(笑)。いいかげんなことを書けないし、小説にしにくい複雑な事件もオミットできません。とにかく一流の先生方の最新研究書を読み込み、一次史料を確認しつつ、自分なりの解釈を下していきました。
──その努力には頭の下がる思いです。しかし人間ドラマの部分も忘れていないからこそ、堂々たる歴史小説になったのだと思います。
伊東 小説は人間ドラマです。研究書では描けない視点人物の苦悩や葛藤、さらに本作のような軍記物では、油断、侮り、誤算、誤認、思い込み、思惑違い、勘違いといった人間が陥りやすい心の罠を描いていくことにこそ、小説としての存在意義があります。
秀忠がいたから幕藩体制は続いた
──ここからは本作だけの話になりますが、連載時のタイトルは『家康と淀殿』でしたね。それを副題にし、メインタイトルを『一睡の夢』としたのは、どんな意図があったのでしょう。
伊東 担当編集者が装幀家の芦澤泰偉さんと本作について語り合っている時、芦澤さんが「天下というのは儚い夢のようなものだね」と仰せになったのを聞き、「夢という言葉を入れたメインタイトルをつけたらどうか」と提案してくれたのがきっかけです。当初は「一炊」や「一穂」という字も検討したのですが、やはり上杉謙信の漢詩「四十九年一睡夢一期栄華一盃酒」から「睡」にしました。
──司馬遼太郎さんの『城塞』を意識していましたか。
伊東 もちろんです。作品を書くにあたっては、そのくらいの気概で臨まねばならないと思っています。『城塞』の時代から研究も進展したので、そろそろ真正面から大坂の陣を書き換える必要性を感じました。
──本作のテーマはずばり「継承」にあると思いますが、信長や秀吉が失敗した継承を、家康だけが、なぜ成功させられたのでしょうか。
伊東 一つ目は、家康個人に従う人格的主従関係から、幕藩体制という法的主従関係への転換に成功したからです。豊臣家の場合、秀吉を頂点にして表立ったことは秀長、内々のことは利休という自然に出来上がった大名統治法から、石田三成ら奉行衆が平等なルールで統治するものへと転換しようとしたのですが、組織を曖昧にしておきたい武断派大名たちと奉行衆との軋轢が、関ヶ原の戦いへとつながっていきました。
二つ目は、秀忠が二代目に向いていたことです。秀忠は謹厳実直で人を贔屓しないので、法的主従関係による組織のトップには最適です。もしも結城秀康が二代将軍となっていたら、幕府の組織や職掌がないがしろにされ、大名たちの不平不満が渦巻いていたかもしれません。
三つ目が、江戸と駿府の二元政治がうまくいったからです。本作中では派閥争いという形で二元政治の問題点を際立たせていますが、江戸と駿府という微妙な距離を置いたことで、二元政治のメリットをうまく引き出せたと思います。
それ以前に秀吉も秀次と二元政治を行おうとしたのですが、物理的距離がないことで棲み分けが難しくなってしまい、疑心暗鬼が生じて悲劇的結末を迎えてしまいます。こうした秀吉の失敗から家康は学び、同じ轍を踏まないようにしていたと分かります。
──本作では、秀忠を「守成の人」と呼び、その成長が描かれています。徳川の世が260年余も続いたのは、家康の継承策もさることながら、秀忠の存在も大きかったわけですね。
伊東 江戸幕府が長続きできる基盤を作ったのは秀忠です。家康は、「徳川の天下は三代も続けばよい」くらいに思っていたのではないでしょうか(笑)。ところが生真面目な秀忠はパクス・トクガワーナを永続させようとしました。この後に続く家光や家綱が名君とは言えなかっただけに、秀忠が泰平の世を築いたと言っても過言ではありません。「継承」というのは現代の企業でも大きな問題ですが、秀忠から学んでほしいですね。
具体的には、「周囲の言に耳を傾ける」「愚直なまでに法やルールを順守する」「特定の人間を贔屓しない」といったところですね。家康は戦国の世を終わらせましたが、秀忠の実直さが泰平の世を築いたのです。
作中で思い入れのある人物は片桐且元
──本作が「継承」をテーマにした物語というのはよく分かりましたが、読みどころはほかにもありますか。
伊東 戦国時代をいかに終焉させるかという家康の手腕でしょうね。家康は「幕府は常に正しくあらねばならない」という理念を念頭に置き、後ろ指をさされないような手を地道に根気よくコツコツと打っていきました。
家康がもっと荒っぽい人物だったら、「何事も実力だ」とばかりに、力ずくで豊臣家の滅亡を推し進めていたはずです。そうなると、たとえ結果が同じでも幕藩体制は長く続かなかったはずです。それだけ正義は大切なのです。すなわち徳川家臣団が「正義」の旗を掲げられたからこそ、「この体制を守っていこう」という思いが引き継がれていったわけです。
──戦国時代の勝敗というのは、結末から帰納法で考えれば、何事も「実は陰謀があった」となってしまいますよね。しかし伊東さんは、「多少の意図はあっても陰謀まであったとは言い切れない」というスタンスを取っています。
伊東 確かに小説なので、最初から家康は天下を狙っていて、着々と駒を進めるという物語にもできるんですが、そうなると家康はいつも余裕綽々で、迷いや葛藤がありません。結果が読者に分かっていても、登場人物が未知の未来に向けて迷い苦しみながら、最適解を探していく物語がやはり面白いのだと思います。実際の歴史もそうだったと思いますしね。
──作中で思い入れのある人物はいますか。
伊東 片桐且元ですね。現代社会でも板挟みになって苦悩する人はいますが、大半は、その人に原因があります。それを本人は気づかない。こうした人は目先の問題の解決しか念頭に置けないからです。とくに且元は事なかれ主義の傾向が強く、場当たり的に決断していくので、その負債が膨らんでいきます。確固たる信念やポリシーがないのを見透かされ、家康に利用されてしまうんです。もしあの役割を別の人間が担っていたら、豊臣家は何らかの形で残ったかもしれません。
もう一人は淀殿の妹の初ですね。冬の陣から夏の陣にかけて、初が走り回っているのが史料からうかがえます。彼女は何とか淀殿と秀頼の命を救おうとしていたんです。おそらく彼女は、自立心を持った現代的な女性だったのではないかと思います。
そして淀殿ですね。「どんな形でも秀頼(息子)に生き残ってほしい」という母親なら誰もが抱く思いと、誇りを胸に死んでいった父母たちの狭間で揺れ動く淀殿の心中は、言葉では言い表せないほど辛いものでした。それでも彼女は、毅然として自分の考えを貫きました。まさに戦国を生きる女性の凛とした美しさに拍手を送りたい思いです。
「日本三大悪女」を描き切る
──来年の大河ドラマ「どうする家康」では、新しい家康像が描かれると思いますが、伊東さんの場合、これまで『天地雷動』『峠越え』『天下大乱』、そして本作で描いてこられた家康像は根底の部分では一貫しているように思います。こうしたイメージは最初からできていたのですか。
伊東 史料や研究書を読んでいくうちに自然に出来上がりました。『天下大乱』と本作で気をつけたのは、『天地雷動』『峠越え』の家康とは同じように描かないという点です。根底では小心者で臆病で、自らが凡庸だと自覚している家康ですが、老成するに従い、自信らしきものも芽生えてきます。そうした要素をうまく加味していくようにしたので、違和感はないと思います。
──本作のみならず伊東さんの描く家康像を通して、読者に何を伝えたいですか。
伊東 凡庸だからこそ戦国時代を終わらせ、天下を泰平に導けたことです。天才信長や芸術家肌の秀吉にはできなかったことが家康にできたのは、凡庸を自覚し、それゆえ慎重に周到に事を運べたからです。凡庸こそ強さなんです。それを多くの方に知っていただきたいですね。
──そういえば『修羅の都』と『夜叉の都』で北条政子を、『天下を買った女』で日野富子を、そして本作で淀殿を描いたことで、「日本三大悪女」と呼ばれた女性を描き切りましたね。
伊東 本作では「家康軸」とは別に「女傑軸」というものも意識しました。北条政子、日野富子、そして淀殿の三人には、今でも悪女イメージがつきまといますが、彼女たちは平和を希求し、様々な判断を下していっただけです。全く悪女ではないんです。この四作には、彼女たちの真の姿を正しく伝えたいという思いがありました。
三人の書き分けにも気を遣いました。共通しているのは、「強さと弱さを併せ持った女性」です。どこにでもいるような普通の女性が苦しみ、迷いながらも、難局を打開するために懸命に知恵を絞るという姿を描きたかったのです。
──最後になりましたが、読者へのメッセージをお願いします。
伊東 作家デビュー15年目を『天下大乱』、そして本作『一睡の夢 家康と淀殿』で飾ることができました。これもひとえに拙著を購入してくださった皆様のおかげです。本作を作家キャリアの折り返し地点として、来年からは心機一転し、新しい伊東潤をお見せしたいと思っています。
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