数年前のこと。恋人が私の家に泊まり、翌日の朝早く、近所の寺町を散歩した。空は晴れわたり、小鳥のさえずりがきこえていた。歩いている人はあまりいない。と、いきなり彼女は私の手を取り、「楽しいわ」とつぶやいた。「それは良かった」私は答えた。
今朝、彼女から電話があり、ちょっとした口論になった。その時に、彼女が数年前の会話を持ちだし〈なんで、あんなことを覚えているのだろう?〉、「それは良かった」という私のいい方が他人事のようで、とても冷ややかだったといわれた、そして、彼女はこうつけくわえた。
「あなた、私のことを愛してないよのね。もしくは人の気持ちを受け止める感性が相当ニブイ人ってことかもしれないわね」
たびたび愛情がないと批判されているので、〈またか〉と思ったが、愛してないわけではないので、〈私はニブイ人間なのかな〉と思い、気になった。
その日は土曜日で、昼に、私は家を出て、図書館に行くついでに、レストランに入った。こぢんまりとしたきれいなレストランだった。
中に入ると、二人の女性客が向き合って座っていた。二人とも40代後半といった感じで、左の人は髪が肩まであって鼻が高い、女優でいうなら原節子に似ている(以下、原と呼ぶ)。右の人はショートヘアーで水前寺清子に似ている(以下、水前寺と呼ぶ)。二人はおそろいのカーキ色のキルティングのズボンをはき、セーターを着ている。原はグレー、水前寺はベージュ。原の座っている椅子の背に金属の杖が立てかけてある。
私はたまたま彼女たちの真横の席に案内されたために、二人の様子が目に入ってきた。
「ここでパーティやるのいいかもしれないわね」メニューをみながら水前寺が少し大きな声でいう。
「誰を呼ぶの?」原がハスキーな声できく。
「みどりさんとか中条さんとか、お見舞いに来てくれた人、六人くらい」
「六人ならちょうどいい広さかもしれないわね」
「どんな料理出してもらえるのか、後できいてみようね」
二人のテーブルの上には「ロールキャベツ定食」と「太刀魚の塩焼き定食」がのっている。定食には、刺身の小鉢とホーレン草のおひたしとキュウリの酢の物がついている。どれもていねいに作ってあるし、器もしぶい。
私が注文した「ぶりの照り焼き定食」が来たので、食べはじめた。二人の会話が切れ切れに耳に入ってくる。
「あなたのおでこって誰に似てるの?」水前寺が原の額にかかる髪を指先で持ち上げる。
「父親似よ、やだわ」原がニコッと笑う。
「お父さんって、写真で見ると二枚目よね」
「性格が悪い」
「そうなの?」
「私も同じような性格かもしれないと思うとやだわ」
「そう?私あなたの性格好きよ」
「ありがとう」
「このロールキャベツおいしい」そういうと水前寺は原の方にロールキャベツの皿を置く。
原が箸でロールキャベツをつまみ、食べる。
「ほんと、おいしい」
二人は見つめ合って笑う。
〈いいな、こうでなくちゃいけないんだな〉と私は思う。二人は愛しているということを表現しているし、お互いに、いまこの時を幸せだなと感じている。
好きな人と昼食をいっしょにしている。そのなにげない時を幸せだと感じないならば、幸せなんてどこにもないかもしれない。
私が彼女たちのどちらかだとしたら……、二人でいるのがあたり前という感じで、無感動に食事をしているのにちがいない。
食事を終え、図書館に行き、本を返し、雑誌を読み、別の本を借りて、同じ道を戻ってきた。冬の日はすでに傾いて、正面から照りつけている。眩しいので下を向いて歩く。
〈彼女と過ごす日常の細部に幸せを感じるようなていねいな生き方をしなきゃな〉
私は少し感傷的な気持ちになっている。
目を上げると、前から来る人々がシルエットになっている。すれ違う時に横を見る。すると、レストランでいっしょになった二人の女性のようだ。二人は寄りそって歩いている。水前寺は右手で原を支え、左手にスーパーマーケットのビニール袋をさげている。
〈夕食の買いものでもしてきたのだろうか〉
原は右手で杖をついている。私は二人を見ている。一瞬、声をかけたいような気持ちになったけれど、私など眼中になく二人は楽しそうにおしゃべりをしながら通り過ぎていく。西日を背にうけて、女たちが遠ざかっていく。時々、杖がキラッと光った。
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