「兄はここに倒れてたんです」山田光男(28歳)は両手で部屋の隅を示す。
「頭がこっちですか?」私がきく。
「ええ、警察が現場検証をして、凍死だといいました。寒くても起きないくらいだから、きっと飲んでたんだと思います」光男は小さな声でゆっくりと話す。
彼は押入をあけ、プラスチックケースを取りだし、畳の上に置く。
「兄は誰とでもすぐに友だちになる人でした」プラスチックケースの中の物を段ボール箱に入れながら光男がいう。「テンションが高くて、正直ついていけないところもありましたけど、ジョークのセンスなんかナカナカ面白いところがありました。ボクはオヤジより兄の影響を受けて育ったんです。なんでもできるし、弱いところは見せないし、尊敬する面がありました」
ここは光男の兄、和男(享年32歳)のアパート。光男が兄の部屋を整理するというのでいっしょに来た。和男の死からまだ半月も経っていない。
冬の日の午後、二階の部屋の窓から見える梅の木には日があたっていて、良い天気だ。しかし、部屋には日があたらない。畳の上に立っている足が冷たい。
三畳の板の間と六畳の畳の間を仕切るガラス戸の下の部分が割れている。
「たぶん、酔って帰ってきて割ったんでしょうね。破片が散らばっていましたから」
「なんでそんなにお酒を飲んだんでしょう?」私がきく。
「兄はアルコール依存症だったんです。オヤジもアルコール依存症で、今も入院しています」光男が小さく笑う。「兄が一番オヤジみたいになりたくないと思っていたはずなんですけど、自分も同じようになっちゃって」
光男は3人兄弟の末っ子だ。長男・和男の下に、光男とはひとつ違いの兄、義男(29歳)がいる。
光男が小さな頃から、父は毎晩のように酒を飲み、「お前はオレを馬鹿にしている」と大きな声でしつこく母親を責めた。
光男はその声を聞くのがイヤでウォークマンで耳をふさぐようにした。しかし、音楽を突き破って父の声は耳に入ってきた。
光男が小学校1年生から6年生までの間、家族は父の転勤でギリシアのアテネに住んでいた。ある晩、父が酒を飲み、しつこく「みんな出て行け」といった。仕方なく母は3人の子どもを連れて家を出た。家を出たが行くところがなく、映画館に入った。観た映画は『アニー』だったと光男はいう。映画館を出てからボーリング場へ行った。それからホリデイ・インに泊まった。翌日、家に帰ると、父は何も覚えていないといった。
光男が大学生の頃に、父のアルコール依存症はひどくなり、会社に行けなくなって退職し、母と離婚し、ひとりで暮らし始めた。下の兄の義男も高校生の時にうつ病になり、半年近く学校を休み、その後、大学を卒業して就職したが再発し、今も働くことができないでいる。
光男は大学を卒業すると、家族から離れたくて、大阪のスーパーマーケットに就職した。4年間、大阪にいた。その間、母から時おり電話があり、兄の状況について聞かされた。母ひとりに背負わせておくわけにはいかないなと思った。会社を辞めて母親の家に戻った。
「兄と両親です」光男は整理している物の中から1枚の写真を見つけ出し、私に渡す。テニスコートのネットの前に父、母、和男が立っている。長髪を真ん中で分けている和男はちょっとジェッキー・チェンに似た明るい感じの二枚目だ。
和男は高校生の3年間イギリスで寮生活をした。英語が喋れるので、大学卒業後、旅行代理店に就職しバリバリ仕事をした。次々に恋愛をしたし、旅行もした。酒も飲んだし、冗談話も上手だった。
一度、光男は兄と酒を飲み、どんな時に一番幸せを感じるか、どんな時が一番気持ちいいかという話になった。
「兄のことだから、ボクはてっきり」光男が笑う。「女の人とやってる時とか、下ネタにはしると思っていたんです。ところが、『人を笑わせた時が一番気持ちがいいな』って」
光男が見せてくれる和男の写真は、ステージでバンドをバックに歌っていたり、外国で現地の子どもたちとカメラに向かって手を振っていたり、テーブルの前で女性と肩寄せ合っていたり、テニスウェアーを着て別の女性とベンチに座っていたりと、人生を100パーセント楽しんでいる感じが伝わってくる。
「後で医者に母がきいたんですけど、この頃にもう躁鬱病の躁状態が出ていたらしいんです」と光男はいう。
和男は旅行代理店を辞めた。その後、次々に就職しては退職を繰り返した。無銭飲食をしては警察から電話が入る。突然スポーツカーを買って家に帰ってくる。買ったばかりのバッグをなくす。そんなことが続き、病院に行ってはじめて躁病だとわかった。
「ある時、久しぶりに食事でもしようかということで兄とイタリア料理のレストランに行ったんです」光男は和男の写真をまとめながら話す。「テーブルがカタカタ鳴るっていいだして、すぐに店の人呼んでこいって、それで文句をいいはじめたんです。それを見た時、やばいなと思いました」
だんだん和男のアルコール依存症はひどくなり、病院に入院し、退院し、生活保護を受けながらひとりでたたかっていた。
小さなこたつの上にノートパソコンがある。光男は蓋を開けるとスイッチを入れる。パソコンが立ち上がった音がする。光男は画面を見ている。
「兄の日記です」
私は彼の横に座り、画面をのぞき込む。
日記は凍死する三ヶ月前、2003年の10月下旬から始まっている。
どの日も、「今日で断酒○日目」という言葉からはじまっている。アルコール依存症を治すには酒を断つしかないのだが、和男は酒を断ち続けることに疑問をもっている。
「俺には『我慢』という文字はないのだろうか? だけど我慢して何が待っているのだろうか?いまさら何があるのだろうか?」と書いている。
断酒は何度も途中で挫折している。
「運動の後、少量のビールを飲んだ。何度繰り返せばわかるのだろう。あとは、いつもの通りの飲酒。俺はアル中だ」「午後8時起床。よく寝た。残っていたビールを飲んだ。もうヤダ!」「ビールとビデオセットでギブアップ。そのあといろんな人に電話。原因を追及していくと、人恋しくなったこと。いつものことだ」
「いつも女の人や友だちといっしょにいる人だったから、ひとりでいることが苦手だったんです」光男が画面を見つめながらいう。「それに、いつも軽いノリの人だったから、こんなにまじめに悩んでいたなんて、ちょっと胸にきますね」
「断酒生活6日目。今日は光男と会い、約2時間散歩、ソバを食べて帰った。やはり兄弟というものはいいものだと実感した」
「この日が」光男がいう。「兄と会った最後です」
光男は窓の外にかかっている洗濯物を取り入れて、たたみ始める。和男の葬式の後、母が部屋を掃除しに来て、その時に洗濯して干しておいたのだ。
「ちょっとききにくいことなんですけれど……」私がいう。
「なんでしょう?」光男が顔を上げる。彼の顔は日に焼けている。テニスの指導員をしているからだ。
「自分もお兄さんのようなるんじゃないかって心配になりませんか?」
「それはありますよね」光男は洗濯物をまとめて脇に置く。
「オヤジを見舞いに行った時に、病院のケースワーカーの方にきいてみたんです。遺伝とかそういうのあるんですかって、そしたら、一番の原因は生育環境ですよって。だから、ボクより兄たちの方が傷ついていたんですよ。それに、ボクまで病院行っちゃったら、母親がやばいですよ。3人いて3人ともなんてね、ちょっと……」
光男は黙った。
光男は母親思いだ。このアパートへ来る道々でも、こんなことをいっていた。
「母親はすぐ泣く人なんですけど、感情を豊かにちゃんとあらわす人だから、ちょっとした冗談でもすぐ笑うし、ずーっと暗くなっちゃうタイプじゃないんです。笑顔さえ見られればボクは安心なんです」
和男の葬式の日の朝、光男は喪服を持って父の病院へ行った。父に喪服を渡し、ひとりで来てね、というと、ひとりじゃイヤだという。服を着るのを手伝い、ゆっくりとした父のテンポで歩いて、バスに乗り、最寄り駅に着いた。式までにだいぶ時間があるので、喫茶店に入った。
「そこで、オヤジにきいたんです」光男がいう。「『酒はもう飲みたいと思わなくなった?』って、そしたら、『もう、飲みたくない』って、『それは兄が死んだことと関係あるの?』ってきいてみたんです。そしたら『関係ない』って言ったんですよ」光男の目に涙がみるみるたまっていく。後は言葉にならない。
光男は父に息子の死を自分の生き方に結びつけて受け止めてほしかったのだ。なんでみんなこんなに病に苦しんでいるのか。なんで母がひとりで背負わなきゃならないのか。なんで末っ子の自分がみんなのことを心配しなければならないのか。なんで……。
誰にもぶつけようのない口惜しさに胸ふさがれたのだ。
アパートのドアに鍵をかけ、外についている鉄の階段を降りる。夕陽が私たちの顔を照らす。
「兄が死んでから」光男はバッグパックを背負うと、こういった。「人と会って話をしたり、食事をして笑ったりすることがかけがえのないことのように思えるんです」
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