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世襲 政治・企業・歌舞伎

2022.12.30 公開 ポスト

#4

豊田章男と父・章一郎の間には、三人のトヨタ社長がいる中川右介

世襲が目立つ三業界(政・財・歌舞伎界)を徹底比較した注目の新刊『世襲 政治・企業・歌舞伎』(中川右介著)。経済分野は基幹産業である自動車メーカー五社(トヨタ・ホンダ・日産・スズキ・マツダ)と、公共性のある鉄道会社四社(阪急・東急・東武・西武)をとりあげていますが、今回は、日本経済の羅針盤として常に注目・トヨタ自動車の「家業継承」の歴史を一部抜粋してお届けします。

*   *   *

トヨタ自動車の現社長・豊田章男(とよだあきお)(一九五六~)は同社の社長としては十一代目になるが、豊田家出身の社長としては六人目、豊田家の系図では豊田佐吉から四世代目にあたる(「トヨタの二人の二代目」)。トヨタの歴史は豊田佐吉(一八六七~一九三〇)から始まる。

再び、非豊田家

豊田章一郎の長男・章男は一九五六年に生まれ、慶應義塾高校から同大学へ進み法学部法律学科を卒業、米マサチューセッツ州のバブソン大学ビジネススクールに入り、八二年に経営学修士(MBA)の資格を得た。アメリカの投資銀行に勤務していたが、八四年にトヨタに転職した。一応、履歴書を出して入社したという。父・章一郎は「息子だからと特別扱いはしない」と言ったが、この言葉ほど一般社員にとって空虚なものはない。いくらこの親子がそう思っていても、周囲にしてみれば「豊田の御曹司」でしかないのだ。

章男は生産管理や国内営業などの現場から始め、係長になったが平社員への降格人事も経験したというが、これもいまとなっては、若き日の微笑ましい逸話となってしまう。

章男は二〇〇〇年に取締役となると、あとは〇二年に常務、〇三年に専務、〇五年に副社長とトントン拍子に出世した。

だが、章一郎と章男の間には、三人のトヨタ社長がいる。すぐに世襲したのではなかった。

豊田章一郎は一九八二年にトヨタ自動車の初代社長となった。トヨタ自動車工業の初代社長・利三郎から数えれば、喜一郎・石田・中川・英二に次ぐ、第六代社長である(以下、通算の代数で記す)。

工販合併から十年が過ぎた一九九二年九月、ひとつの区切りとなったので、章一郎は社長を退任し、弟で副社長の豊田達郎(一九二九~二〇一七)が第七代社長となった。達郎は東京大学工学部機械工学科を卒業し、ニューヨーク大学経営大学院にて経営学修士(MBA)を取得している。いままでの豊田家の中では学業成績は最も高い。父・喜一郎没後の一九五三年にトヨタ自動車販売に入り、七四年に取締役となった。工販合併の新トヨタ自動車発足時には常務だった。六十三歳での社長就任だった。章男はまだ三十六歳で取締役にもなっていない。

しかし達郎は三年後の一九九五年八月、病気療養のため社長を退任した。後継の社長には副社長だった奥田(ひろし)(一九三二~)が就任した。二十八年ぶりの豊田一族以外の社長である。

第八代社長・奥田碩は三重県津市出身で一橋大学商学部を一九五五年に卒業した。知人の紹介でトヨタ自動車販売に入り、経理畑を歩んだ。七二年からマニラ駐在員事務所に赴任したことで、運命が変わった。マニラでトヨタ車の組立と販売をしていた現地の会社が、支払いを滞らせていたので、それを回収するのが任務だった。事実上の左遷人事だったが、奥田はマルコス大統領とのコネを得て、滞納金の回収に成功した。

豊田章一郎の娘婿は大蔵官僚で、アジア開発銀行に出向し妻子とともにマニラにいたので、章一郎は孫の顔を見にマニラを訪ねていた。そこで奥田を知り、その才能を認めた。社長だった豊田英二も奥田を知る。

奥田は一九七九年に日本へ戻り、豪亜部長に昇格、八二年に取締役になった。工販合併後は八五年に北米事業準備室副室長を務め、八七年に常務になると、専務、副社長になっていた。

豊田達郎の病気というアクシデントで、豊田家に社長候補がいなかったため、奥田は社長になったのである。英二と章一郎を後ろ楯として、豊田家に配慮しつつも、トヨタの改革をした。そして四年後の九九年に会長となり、後任の社長には(ちょう)富士夫(ふじお)を指名した。

奥田の名は、トヨタの社長退任後の一九九八年に経団連会長になってからのほうが知られている。トヨタ出身者としては初の財界首脳への就任である。そのためなのか、トヨタの社史などでは、逆に奥田の扱いは小さい。豊田一族よりも財界で出世したことが、誰かの逆鱗に触れた。

トヨタの通算第九代社長となった張富士夫(一九三七~)は、満州国大連で生まれた。父は佐賀県出身だが満鉄に勤務していたので、大連にいたのだ。中国人のような姓だが日本人である。

張は北京郊外で終戦を迎え引き揚げて、東京大学法学部を卒業し、一九六〇年にトヨタ自動車工業に入った。八八年にトヨタ・モーター・マニュファクチャリングU. S. A. 株式会社取締役社長に就任し、初の海外生産工場となったケンタッキー工場の設立・稼動に携わり、その功績で九四年に常務となり、副社長を経ての社長就任だ。

張の社長在任は二〇〇五年までの六年で、渡辺捷昭(かつあき)(一九四二~)が後任となり、二〇〇九年まで務める。渡辺は三重県生まれで慶應義塾大学経済学部を卒業して、一九六四年にトヨタ自動車工業に入り、九二年に取締役となり、常務、専務、副社長を経て、社長になった。

三代・十四年にわたる豊田家以外の社長が続いた後、豊田家への大政奉還となって、二〇〇九年六月に豊田章男が社長に就任し、現在に至る。父・章一郎は存命で、二〇二二年現在九十七歳だ。

章男の長男・豊田大輔は一九八八年生まれで、慶應義塾大学経済学部を卒業し、米マサチューセッツ州のバブソン大学ビジネススクールに入り、経営学修士(MBA)の資格を得た。ほとんど父・章男と同じ経歴だ。トヨタに入るときも父から「特別扱いはしない」と言われたという。

豊田大輔が有名になったのは、二〇二一年三月に、宝塚歌劇団の星蘭ひとみと結婚すると報じられてからだ。緊急事態宣言下の五月八日に帝国ホテルで「結婚を祝う会」が約二百名の出席者のもとで開かれ、問題になった。

大輔はトヨタの関連会社「ウーブン・アルファ」代表取締役に就任している。

 

トヨタの豊田家は男系男子での世襲で、四世代続き、経営を担っている。

マツダの松田家は男系男子の三代目で経営からは離れた。

スズキの鈴木家は婿養子で二世代・三代続いたが、その後は息子が継いだ。

ホンダの本田宗一郎は世襲を否定した。

日産の鮎川家は戦後、日産自動車の経営に関与していない。

五社五家には何ら共通項はない。世襲もさまざまだと、分かる。

なお、世襲ではない点で民主的なように見える日産は、政界で最も世襲とは縁遠い日本共産党のように、独裁者が長く君臨する歴史を持つ。

記憶に新しいカルロス・ゴーンの前も、川又克二、塩路一郎、石原俊と、常に独裁者が君臨してきた会社である。そして独裁者たちはみな、その末路は哀れだ。日産は常に前政権を否定することから新政権が始まるため、公式サイトにある戦後の歴史に歴代社長の名はない。

 

※続きは『世襲 政治・企業・歌舞伎』(中川右介著)をお手にとってお楽しみください。

関連書籍

中川右介『世襲 政治・企業・歌舞伎』

日本の企業数は約三六七万社、そのうち九九%が中小企業で、規模が小さい「家業」ほど世襲率は高くなる。本来、実力ある者が後継すればいいだけなのに、システムとして不合理で無理筋、途絶や崩壊の可能性が高い「世襲」はなぜ多いのか。破綻を回避する術はあるのか。世襲が目立つ三業界――公職の私物化が進む政界、基幹インフラ産業の自動車・鉄道、藝は一代限りともいいながらほぼ世襲の歌舞伎界――を比較研究。このグローバルな時代にいつまで「家業」を続けられるか。実例でみる栄枯盛衰の世襲史。

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世襲 政治・企業・歌舞伎

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中川右介

一九六〇年東京都生まれ。編集者・作家。早稲田大学第二文学部卒業。出版社勤務の後、アルファベータを設立し、音楽家や文学者の評伝や写真集を編集・出版(二〇一四年まで)。クラシック音楽、歌舞伎、映画、歌謡曲、マンガ、政治、経済の分野で、主に人物の評伝を執筆。膨大な資料から埋もれていた史実を掘り起こし、データと物語を融合させるスタイルで人気を博している。『プロ野球「経営」全史』(日本実業出版社)、『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)、『国家と音楽家』(集英社文庫)、『悪の出世学』(幻冬舎新書)など著書多数。

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