彩瀬まるさん4年ぶり書き下ろし長編『かんむり』。お風呂のお湯がじっくり体を温めるように、自分の過去や今や未来をまるごと包み込んで温めてくれるような感動に包まれる本作。これは恋愛小説なのか? 夫婦小説なのか? 家族小説なのか? 最初は冷たい海やプールの水が体に馴染むように、「え?」「ん?」という小さな日常のひっかかりを描くこの物語がどんどん形を変えあなたの脳内を価値観ごとまるごと浸食していく不思議な感覚をお楽しみください。
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珊瑚の卵みたいな細かな泡が、お湯の底から湧いてくる。
水面にてのひらをつけると、りんかくが泡でふちどられた。指の股に溜まり、ふつふつと弾ける。近所のスーパー銭湯の、今日の日替わり湯は炭酸泉だ。露天風呂で、水面はうっすらと青い。夏の終わりの、勢いを失った午後の空を映している。
ゆらゆらと手元の泡をかきまぜながら、私は週明けに店頭のマネキンに着せる秋物のコーディネートを考えていた。入荷したばかりの長袖シャツや薄手のストール、足首が細く見えるという七分丈パンツを、光沢のある人形の体にまとわせる。入荷数の多い目玉商品を活用して、いくつかの組み合わせを作っていく。
斜向かいの位置にあるミストサウナの扉が開き、ミルク色の湯気がもわっと噴き出した。首にかけたタオルで汗をぬぐいながら、私の母親ぐらいの年齢の女性が出てくる。肉づきが豊かで、色が白い。背中や肩がまるまると張って、下腹が前に出ている。入念に体を温めたのだろう。ほてった乳房が熟した桃みたいな色になっていた。女性は深く息を吐いてベンチに腰かけ、風に体をさらした。
乳房の色に見とれていると、今度は内湯から若い女性がやってきて日替わり湯に身を沈めた。きっとまだ十代だろう。光が詰まった明るい皮膚をしている。身が軽そうな薄い肉づき。真っ直ぐに伸びた青竹の手足。
つぼ湯に入っていた白髪の女性が立ち上がった。こちらへ背を向け、内湯へ向かう。骨のおうとつが浮き出た背中は海老のように前傾し、周囲の柱や壁に手を当ててゆっくりと歩いていく。ふくらはぎがたくましい。尻の上に、柔らかそうなたるみがのっている。
水面に置いたままだった手を、少し沈めて裏返す。てのひらのくぼみから、大きめの泡がぷくんと一粒こぼれ出た。
熱くなったので入浴を切り上げ、脱衣所へ向かった。浴室の出入り口に設置された大きな鏡の前で足を止める。私は成人女性の平均値よりもかなり背が高く、肩幅が広く骨盤の大きい、頑丈そうな体つきをしている。胸も大きい。父方の祖母も胸の大きな人だったけれど、彼女は小柄だった。みんな、違う体を生きている。
そして私は、このどこもかしこも張り出した大きな体がきらいではない。──きらいではない、けれど、規格に合っていない、ととっさに思ってまごつく一瞬が、まったくないと言えば噓になる。小柄で肩が薄く、腰がくびれて手足がほっそりとした、あのイメージ。ずっと、あのイメージから逸脱した体つきをしてきたものだから、子供の頃は牛みたいだのごついだの、馬鹿にされるのが本当にいやだった。ただ、いやだと感じたのは侮辱に対してであって、私の体そのものに対してではない、と今は思う。大きくて目立つ、派手な体だ。その派手さをどう扱ったらいいのかわからないまま大人になり、わからないまま年を重ねている。
夕飯の買い物をして、家に帰った。茄子とトマトとしめじと豚肉を炒めたものをめんつゆに入れ、刻んだみょうがを散らす。そうめんを茹でて、かまぼこを切り、ごま豆腐を出す。時間通りに、虎治が帰ってきた。コンビニの袋を提げている。なかには頼んでおいた牛乳と、アイスが二つ。果物のアイスとチョコのアイス。チョコの方は私の分だという。
「ありがとう」
虎治はうん、とうなずいて両手を天井に向け、ぐうっと伸びをした。疲れているのか、口数が少ない。
「そうめん?」
「そう。バテてきたから、野菜食べよう」
「うまいよね、これ」
私がテーブルに料理を並べる間、虎治はソファのそばでテレビのニュースを眺めながらスーツを脱いでいった。上着をハンガーにかけてカーテンレールに吊るし、ネクタイを抜き、ベルトを緩めてスラックスを下ろす。
見慣れない、黒いバンドのようなものが虎治の太ももについていた。
「なにそれ」
「ん? ああ、先輩に教えてもらったんだ。シャツの裾を引っ張って、ズボンからはみ出ないようにしてくれるの。これつけると、腰回りがすっきりする」
シャツガーターと呼ばれる商品らしい。言われてみれば確かに、太もものバンドから数本の黒い紐が伸びて、先端の銀色のクリップでワイシャツの裾をつかまえている。
ただの実用的なアイテムなのに、眺めていると体の中でなにかが動くのを感じた。胸の内側で丸くなって眠っていた動物が立ち上がり、もぞりと向きを変えて寝直したみたいな振動。ゴム製のバンドが装着された部分が、ほんの数ミリだけどへこんでいる。引っ張られたワイシャツは体のラインに寄り添い、尻のカーブがよくわかる。シャツの裾からライトグレーのトランクスが覗いている。黒いバンドと同色の紐に囲まれて、ふっくらと際立った股間の丘。
結婚してはや三年。出会いからはもう十年以上。パンツを穿いていても、いなくても、ただの風景の一部みたいになっていた二十九歳の虎治の下半身に目が吸い寄せられる。見ていると妙に楽しくて、ふわふわする。
「かわいい」
感覚に近い言葉が、とっさに口をついて出た。でも、どこか不正確な気がする。虎治はぽかんと目を丸くした。
「かわいい? なんで?」
「わかんない。なんとなく」
「かわいくはないでしょう。こう、側面にナイフとか仕込んでそうじゃない?」
こんな感じこんな感じ、と中腰になった虎治はバンドから武器を取り出して振り回すようなそぶりをした。よく遊んでいる格闘ゲームのモーションを演じてみせ、途中からふざけて「わちょ!」と奇声を上げながら宙に向かって縦蹴りを放つ。あまりのくだらなさにうっすらと苛立ちが湧いた。
「早く着替えてごはん食べなよ」
「わちょーう!」
返事の代わりにもう一鳴きして、虎治は得意げに笑いながらシャツガーターのクリップを外した。バンドを引き抜いてしまえばいつも通り、まばらに毛が生えた夫の脚になる。トランクスの生地がくたびれている。今度、店で新しいのを探してこよう。
(次回に続く)
かんむり
私たちはどうしようもなく、
別々の体を生きている。
夫婦。血を分けた子を持ち、同じ墓に入る二人の他人。かつては愛と体を交わし、多くの言葉を重ねたのに、今はーー。夫が何を考え、どんな指をしているのかえさえわからない。
夫婦とは、家族とは、私とは。ある女性の人生の物語。
著者4年ぶり書き下ろし長編『かんむり』刊行記念特集です。