彩瀬まるさん4年ぶり書き下ろし長編『かんむり』。お風呂のお湯がじっくり体を温めるように、自分の過去や今や未来をまるごと包み込んで温めてくれるような感動に包まれる本作。これは恋愛小説なのか? 夫婦小説なのか? 家族小説なのか? 最初は冷たい海やプールの水が体に馴染むように、「え?」「ん?」という小さな日常のひっかかりを描くこの物語がどんどん形を変えあなたの脳内を価値観ごとまるごと浸食していく不思議な感覚をお楽しみください。
* * *
ビールを飲み、満足するまでそうめんを食べた。後片付けは虎治がやった。ソファで腹ばいになってポータブルゲーム機で遊んでいたら、先に風呂を終えた虎治が近くに座った。こちらを見てくる。
「なに?」
「うん」
お湯の温度が残った手が頭のてっぺんにふれ、円を描くように撫で始めた。
「光はかわいいね。よし、よし」
週の終わりになると、虎治はよくこういうさわり方をする。頭を撫でたり、背中を撫でたり、どことなく私を褒めるような、持ち上げるような空気を全身から漂わせる。笑っているけど、口元が少しぎこちない。
別に、くつろいでいる私を見ていとおしさをあふれさせたわけじゃない。虎治がべたべたさわってくるときは、要するにセックスがしたいのだ。週の後半、木曜日や金曜日の夜によくこんな風になる。
そして私は、働くようになってからセックスがちょっと面倒くさい。そもそも頭を撫でられるのも、予想していないタイミングで体にふれられるのも、びりびりと神経にさわる感じがしてきらいだ。疲れたらセックスをしたくなる虎治と、疲れたらひたすら一人で眠りたい私とで、欲求が食い違っている。ただ、それは虎治のせいではないし、こんな変な演技をして私のその気を引き出そうとしているのも気の毒な感じがする。なにより、今日は私の仕事が休みだったので応じやすい。
「エッチしますか!」
わざと元気よく誘う。虎治はぱっと表情を明るくした。
「していいの?」
「いいともー」
こぶしを振り上げ、布団の敷かれた寝室へ向かう。虎治が小物を取りに行く間、寝間着にしているTシャツとハーフパンツを脱いだ。布団の中央に座り、カップ付きのキャミソールとショーツ姿で、両腕を開いて虎治を迎える。ほんのり湿った首筋に顔を埋めてキスをする。虎治の首はいい匂いがする。焼きたてのプリンと、広々とした野原の匂いが混ざったような、甘く爽やかな匂いだ。中学生の頃、付き合い始めたときから、近づくといい匂いがするなと思っていた。本人に言ったら、柔軟剤の匂いじゃない? うち新聞のおまけでもらったやつ使ってるよ、と返された。一緒に暮らして、新聞のおまけじゃない柔軟剤に替えてからも匂いの印象が変わらなかったので、シンプルにこの人の体の匂いなのだとわかった。
二度、三度と首に吸いつき、耳たぶを唇で挟んで軽く潰す。メッシュ生地のTシャツに覆われた背中を抱きしめる。唇が重なり、口の浅い位置を舌でかき混ぜられる。両肩を押して、布団に倒された。むきだしになった肩や胸の上半分に、濡れた唇が落ちてくる。虎治の前髪が皮膚をくすぐる。
「光のおっぱい好きよ。いいかたち」
「それはどうも。垂れてきてない?」
「いや? ぜんぜん」
よかったよかった、と胸元に埋まった頭を撫でる。お互いの体つきを、十代の頃から知っている。加齢にともなう様々な変化に、もちろん気づいているだろう。ぜんぜん、と迷いなく答える虎治は善良で親切な夫だ。キャミソールを脱ぐ。虎治もシャツを脱いだ。胸のふもとに指を回して揺らされる。乳首をくわえて吸われる。
目の前に、白っぽくて平たい体がある。
ちょっとひまだな、と思うのはこういう瞬間だ。虎治はこちらの胸だの、腰のくびれだの、尻のふくらみだのを楽しそうにさわっている。だけど私は腹の上で動く体に、なにを思えばいいのかよくわからない。私の体よりも一回り大きい。平べったい部分と、棒みたいに真っ直ぐな部分が組み合わさっている。ところどころうっすらと毛が生えている。乳首が小さい。そうした事実だけ、よく見える。
虎治は好きだし、体全体を見たときにぼんやりと好きだなという感覚はある。でも、女性のおっぱいだのお尻だの、そういうわかりやすい「ここにさわるといい気分になるね」「えっちですね」みたいな約束ごとを、私は男性の体に見つけられていない。えっちなものだと了解できているのは、せいぜい性器ぐらいだろうか。ただ男性の性器は、屹立していたらそのあと大なり小なりの痛みや異物感をこらえて体の中に入れるなり、手や口でなんとかしなきゃいけなかったりと、タスクっぽい雰囲気がある。適当にさわって満足したら手を離す、ということがしにくい。
男性の体の楽しみ方がよくわからない。さわりたい、なにかしたい、と衝動がこみ上げる箇所がない。服を着ているときの方が、なんかいいなと思いやすいくらいだ。付き合い始めの頃はこんなこと考えず、恋心だけでできたのに。
虎治の首の後ろを撫でる。虎治は私のショーツを下ろし、脚のつけねを舐めてくれた。舌が温かくて気持ちいい。一ヶ月のうちのほんの数日、すごくセックスしたい気分のときなら、それだけでうまくいくこともある。でも今日はそんな感じじゃないなあー。
天井を眺めてふと、淡い楽しさを感じた不思議な数秒を思い出した。
「ねえねえ」
「ん?」
「あれ、つけてほしい。さっきの、えー……太ももにつけてたやつ」
「シャツガーター? 光、つけたいの?」
「なんで私がつけるの。虎治にもっかいつけてほしい。上のシャツも着て」
「えー、なんで」
「なんかいいなって思ったから」
「えー」
えー、えー、とめんどくさそうに繰り返し、虎治はまた脚の間に顔を埋めようとした。ごまかして押し切ろうとするその肩を小刻みに蹴って遠ざける。
「つけてよ」
「えー」
「二年くらい前に股の部分に切れ込みが入ったバカみたいなエロいショーツ穿いてあげたじゃん」
「シャツガーターってエロいアイテムじゃないからね? そんなこと言われたら全国のシャツガーター屋さんがびっくりするよ?」
「シャツガーターをエロいと思ってるんじゃなくて、シャツガーターをつけたときの虎治の脚の感じがいいなって思ったんだって。もっとちゃんと見たい」
「えー……ええー?」
首を傾げつつ虎治は立ち上がり、寝室を出ていった。先ほど脱いだ白のワイシャツをもう一度着て、ハーフパンツを脱ぎ、太ももにガーターをつけ、シャツの裾をクリップでとめて戻ってくる。
目が合うなり「わちょ!」と一声鳴いて、太ももの側面からナイフを抜いて振り回すまねを始めた。
「はいはい、座って」
「わちょ!」
「そういうのほんといらない」
「なんでよ!」
うう、と不満げにうなり、虎治は脚を投げ出して布団に座った。黒、と色が濃いせいだろうか。シャツガーターを装着されると、やっぱりその周囲に目が行った。それまではさらっと目がすべる感じだったのに、トランクスの布地や、まだ大きくなっていない性器のふくらみ、脚の筋肉の動きがより生々しく感じられるようになる。
黒いバンドが、ほんの少し太ももに食い込んでいる。へこんだ箇所をそっと撫で、指をバンドの下にもぐりこませた。夏でも露出しない場所なので色が薄く、皮膚も柔らかい。夫の体の細かな部分が、こんな風になっているとは知らなかった。目に映ってはいても認識できていなかったものを、やっと捕まえられた感じだった。妙に気分が浮き立ち、すぐそばのトランクスのふくらみに手をかぶせた。ゆるく揺らして、上向いてきた先端を布越しにこする。全体に芯が通るまで充血させて手を離す。クリップできっちりととめられた白いシャツ。押し上げられたトランクスの布地の頂上が濡れている。
ああこれは、かわいい、じゃなかった。
「さわりたい感じだ」
トランクスの裾から指を入れて、脚のつけねの谷を撫でる。指先をちぢれた毛の感触がかすめる。湿ってこわばった睾丸にふれていると、虎治が困惑まじりの眉を寄せた顔で言った。
「なんか俺、はずかしめを受けてない?」
「はずかしめってなにが?」
「もてあそばれてる?」
「失礼な。夫婦のラブラブエッチになんてことを。気持ちよくない?」
「気持ちいいので、もうなんでもいいです」
シャツのボタンを外し、ミルクティ色の小さな乳首やみぞおちのなだらかなくぼみにふれる。虎治はもともと痩せ型だ。男子バレー部に入っていた高校の頃は、本当に必要な内臓がすべて体の中に納まっているのか、心配になるくらい体がひらべったかった。最近は下腹が心持ち前に出てきた。ビールが好きだからだろう。
虎治はじれったそうにつま先を揺らしている。トランクスをずらし、取り出した性器に避妊具をかぶせて体の中に入れた。膝に力を込めて揺れながら、だんだん赤くなっていく男の体を眺める。
あれ、この人、左右の肋骨の高さがずいぶん違う。今日、初めて気がついた。
(次回につづく)
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かんむり
私たちはどうしようもなく、
別々の体を生きている。
夫婦。血を分けた子を持ち、同じ墓に入る二人の他人。かつては愛と体を交わし、多くの言葉を重ねたのに、今はーー。夫が何を考え、どんな指をしているのかえさえわからない。
夫婦とは、家族とは、私とは。ある女性の人生の物語。
著者4年ぶり書き下ろし長編『かんむり』刊行記念特集です。