彩瀬まるさん4年ぶり書き下ろし長編『かんむり』。お風呂のお湯がじっくり体を温めるように、自分の過去や今や未来をまるごと包み込んで温めてくれるような感動に包まれる本作。これは恋愛小説なのか? 夫婦小説なのか? 家族小説なのか? 最初は冷たい海やプールの水が体に馴染むように、「え?」「ん?」という小さな日常のひっかかりを描くこの物語がどんどん形を変えあなたの脳内を価値観ごとまるごと浸食していく不思議な感覚をお楽しみください。
* * *
虎治の体で、一番最初にふれたのは左手だった。
冷たかった。とても。手のかたちの保冷剤みたいだった。握っていると、しゅうっと自分の体温が吸われていくのがわかった。
「なんでこんなに冷たいの?」
「冷え性。冬はずっとこんな感じ」
詰襟の首元にグレーのチェックのマフラーを巻いた虎治は大きく口を開き、はー、と指に息を吹きかけた。白い息が、街灯に照らされた夜道にふわりと広がる。あの頃はまだ首も、肩も、顎も、ほっそりとしていた。まだまだ伸びて広がる余地を感じさせる、アンバランスで硬そうな体つきだった。彼だけでなく同級生の女子も男子も、きっと私も、未完成であちこちがぎしぎし痛む、重心の定まらない体をもてあましていた。
虎治は口数が少なく、あまり笑わなかった。ひっそりと閉じて、慎重に周囲を観察している感じが彼の中にあった。
転校生だったことも関係していたのかもしれない。虎治の父親は自衛隊員で、近くの基地に勤務していた。中学三年生の春、父親の転勤にともなって彼は私の地元にやってきた。山がちな土地の古い町だ。ご利益があるとされる大きな神社とごま味噌うどんが有名で、県外からの観光客もいくらか来ていた。これで温泉が出ればね、というのが近所の年寄りたちの決まり文句だった。
「うちの銭湯に入ってから帰りなよ。牛乳おまけしてあげる」
つないでいても全然温まらなかったので、虎治の手を私のダッフルコートのポケットに入れてうながす。数秒考え、虎治はうん、と顔の下半分をマフラーに埋めるようにしてうなずいた。冷たい指を私の手の甲に添わせてついてくる。
夏の終わりに付き合い始め、三ヶ月が経った。部活が終わる頃には外がとっぷり暗くなっている季節がやってきた。防犯のため、私たちはよく校門で待ち合わせて二人で帰った。虎治が暮らす町外れの官舎へ向かう途中に、私の祖父母の家がある。
私の祖父母は商店街の一角で小さな銭湯を営んでいた。一階が浴場で、二階が住居。祖父がボイラー室担当で、祖母が番台担当だ。小学生向けの学習塾の講師をしている母親の仕事が終わるまで、私は祖父母のところで待たせてもらうことが多かった。父親は変則的なシフトで働く消防士で、いたり、いなかったり、子供の体感では存在が曖昧だった。家にいても口数が乏しく、大して面白くもなさそうな顔でテレビばかり観ていた。母親は「お仕事で疲れているから休ませてあげなさい」と私や兄の背を柔らかく押して、父親から遠ざけた。
「お母さんね、お金がない男の人はみじめでいやなの。だからお父さんにはいつも多めにお小遣いを渡してるんだ」
家計簿をつけながら、いつだったか母親はそんなことを言っていた。私に言ったというよりも、独り言に近い感覚だったのかもしれない。まだほんの小さな子供だった私は「そうなんだ、男の人は女よりもみじめになりやすいんだ。じゃあ優しくしてあげないと」と馬鹿正直に受け止めた。大人になってから振り返ると、魚の小骨みたいに喉に引っかかる言葉だと思う。
からりと女湯の引き戸を鳴らして中を覗く。ちょうど女湯側の脱衣所で掃除をしていた祖母が垂れ気味の目を糸みたいに細めて迎えた。
「光ちゃんおかえり。ちょうどよかった。夕飯の支度が途中なんだよ。じいさんが今日はきんぴらが食いたいきんぴらが食いたいってうるさくってさあ。上でごぼうのアク抜いてるんだ。番台代わってくれる?」
「はーい」
「彼氏さんも一緒かい? 寒かっただろう。お代はいいから、よくあったまっていってね」
まだ外にいる虎治がぺこっと頭を下げる。腰の曲がった祖母が慎重な足取りで、踏み板をきしませ、二階へ向かった。代わりに私が番台へ入る。座布団が敷かれた半畳ほどのスペースに、レジと貴重品の収納棚、小さなテレビが設置されている。足元には蜜柑と黒飴が盛られた菓子鉢と、一セット百円で販売している小分けにされたリンスインシャンプーとボディーソープの箱。若い頃の天皇陛下と皇后さまがこの地方を訪問された際の写真が、大事そうに壁に貼られている。
「どうぞ、ごゆっくり」
「うん」
虎治は男湯ののれんをくぐり、靴を脱いだ。番台は脱衣所に背を向けた作りになっていて、さらに目隠しの仕切りも立ててあるため、なにかトラブルが生じて呼ばれない限り客の裸は見ないで済む。友人や知人が銭湯を訪ねてくることは珍しくなく、彼らが背後で脱ぎ着をして湯を使うのは、私にとって子供の頃からただの日常だった。
それでも虎治が脱衣かごを使うかすかな音、ベルトをつけた制服のズボンが床に落ちる音を聞くと、肩から二の腕にかけてがふわっと緊張してぴりついた。
シャワーの音、静寂、もう一度シャワーの音、浴場と脱衣所を隔てる引き戸の音、衣擦れ。
「服着た?」
「うん」
「牛乳」
女湯側に置かれた冷蔵庫から瓶の牛乳を取り出して、男湯の仕切りの端から覗かせる。どうも、と声がして、濡れた瓶が私の手から離れた。
祖母が二階から戻ってきた。年季が入っている分、私のように身構える様子もなく「いま大丈夫かい」と声をかけて男湯の脱衣所に顔を覗かせる。
「彼氏さん、きんぴら持って帰らない?」
「あー……いや、いいです。どうも」
「そうかい」
幼い頃に両親が離婚し、虎治は残業の多い父親と二人暮らしだった。祖母は親切にしたかったのだろう。
番台を祖母と交代し、銭湯の前まで見送りに出た。
「手ぇほかほかになった?」
聞くと、虎治は制服のズボンのポケットにしまっていた両手を出し、私の左右の頰に当てた。右手は冷たく、左手は温かい。
「片方冷たい」
「牛乳の瓶持ってたから。……高藤さん、今夜きんぴら食べるの?」
「うん、たぶん。お母さんが帰ってから料理作るの大変だし、おばあちゃんが作ったのを分けてもらって、帰って納豆とかと一緒に食べると思う」
「そっか」
「加々見くんは? なに食べるの」
「冷凍のカレーあっためなおす」
「おいしそう」
「うまいよ。週末にまとめて俺が作ってるんだ。ひき肉使うの」
牛乳瓶の冷たさはさらりと溶け、虎治の両手はすぐに私の頰と同じ温度になった。手が離れ、再びポケットにしまわれる。
なんだかさびしい、と唐突に思った。街灯に照らされて白っぽく光る耳の先、ウールのマフラーのふくらみ、角ばった詰襟の肩。順々に目で追って、ポケットにしまわれた左手を引き出す。短く切りそろえられた虎治の爪は、私の爪よりも縦に長く、長方形に近いかたちをしている。指の間に私の指を差し込み、てのひらを合わせる。五本の指で一回り大きな手の甲をつかむと、虎治は宙に浮いた自分の指先をぴこぴことコミカルに揺らした。
特に話すこともなく、十秒ほど手をつないでいた。ここに立っていたら、また彼の体を冷やしてしまう。私も風呂に入って、夕飯を食べて、宿題をやらなきゃいけない。
手を離すのが惜しくて、代わりになにかしたくなった。
「ちゅーとか、したい」
とか、と曖昧になったのは、ちゅーも実はピンと来ていなかったからだ。漫画ではよく見るけど、自分にとって身近なものではなかった。ただ、それぐらいしか、もっとたくさん他人にさわる方法を知らなかった。
虎治は「へっ」と声を裏返らせた。
「ここでえ?」
「誰も見てないし」
「いや、向こうから人歩いてくるじゃん」
「別にいいよー」
「えー」
ぎこちない顔でしばらく固まり、虎治は口元を覆っていたマフラーを顎まで下ろした。左右を見回し、かかとを浮かせて私のおでこに唇をつける。
顔にマフラーが近づいたほんの一瞬、ふわっと匂いがした。すっと鼻の奥に甘さが届く感じの匂いだった。どきどきした。緊張した。さわられてうれしい、が一番強かった。虎治の唇は、冷たかった。
「おしまい」
ちょっと拗ねた口調で言って、虎治は照れくさそうにマフラーを引き上げた。
「おでこ冷たいよ。風邪ひくから、高藤さんも早くお風呂入りなよ」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
寒そうに肩をすくめ、虎治はシャッターの下りた暗い通りを歩いていく。
わからないことがたくさんあった。虎治が私の告白を受けた理由。毎日なにを考えて隣を歩いているか。すごく冷たい手で生きるってどんな感じ? 夜勤が多いお父さんと二人暮らしって、どんな生活になるの? 手を伸ばせばさわれる距離にいても、虎治のことをよく知らなかった。
(次回につづく)
かんむり
私たちはどうしようもなく、
別々の体を生きている。
夫婦。血を分けた子を持ち、同じ墓に入る二人の他人。かつては愛と体を交わし、多くの言葉を重ねたのに、今はーー。夫が何を考え、どんな指をしているのかえさえわからない。
夫婦とは、家族とは、私とは。ある女性の人生の物語。
著者4年ぶり書き下ろし長編『かんむり』刊行記念特集です。