彩瀬まるさん4年ぶり書き下ろし長編『かんむり』。お風呂のお湯がじっくり体を温めるように、自分の過去や今や未来をまるごと包み込んで温めてくれるような感動に包まれる本作。これは恋愛小説なのか? 夫婦小説なのか? 家族小説なのか? 最初は冷たい海やプールの水が体に馴染むように、「え?」「ん?」という小さな日常のひっかかりを描くこの物語がどんどん形を変えあなたの脳内を価値観ごとまるごと浸食していく不思議な感覚をお楽しみください。
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たぶん、高校一年生の夏だった。私は制服姿のまま、日の高い時間帯に虎治の住むアパートにお邪魔していた。おそらく試験期間中だったと思う。午前中に学校が終わり、そのままカレーを食べさせてもらいに虎治の家までついていった。中学を卒業後、私たちは同じ市内の県立高校にそろって進学した。中学も高校も市内には一校ずつしかなく、顔ぶれはほとんど変わらなかった。
虎治は大量のひき肉と玉ねぎを炒め、五人前は作れそうな大きな鍋いっぱいにカレーを作った。カレーとシチューとハヤシライスはとにかくたくさん作って、一食分ずつタッパーに入れて冷凍しておく決まりらしい。そうすれば忙しい朝でも、疲れ切った夜でも、一人でも、冷凍庫を開ければとりあえず栄養のあるものが食べられる。すれ違い生活を送る父と子の生活の知恵だ。私も人参とジャガイモの皮むきを手伝った。アスパラガスとマッシュルームも入った豪華なカレーだった。
「ウスターソースと無糖のヨーグルトを最後にスプーン一杯分だけ入れると、うまい」
「へえ」
カレーのルーを溶かす間、火が熱い、と汗を垂らした虎治が開襟シャツを脱いだ。中のグレーのTシャツは、胸の真ん中あたりと背中の下半分が濡れて色が変わっていた。
「制服のシャツちょっと風通し悪いよね」
「そういえばさ、なんで女子は夏でも冬のスカート穿いてる人が多いの? そのボックススカート、冬用でしょう? みんな衣替えスルーなの?」
「夏用は細めの前プリーツで、汗かくとめっちゃ脚に絡まるのと、生地が薄くて日が当たるとお尻までぜんぶ透けるから。ダサくても、この生地厚めのボックススカートの方がずっとマシなの」
「学校あほだ」
「あほなんだよ。制服を作った人、絶対にスカート穿いたことない」
炊きあがったごはんを大皿に盛り、ルーをかけてちゃぶ台に運んだ。虎治のカレーはおいしかった。作り慣れた人の落ち着いた料理だった。
たくさん汗をかきながら食べていたら、玄関のドアが開いて緑っぽい迷彩服の男性が入ってきた。私を見て、驚いた様子で少しのけぞる。
「なんだ、なんだ。……ああそうか、友達が来るの今日だったか」
事前に話を通してくれていたらしい。虎治はうん、と頷いててのひらで私を示した。
「同じクラスの、高藤さん」
「お邪魔してます」
「どうも、虎治の父親です。ゆっくりしていって……虎治、お客さんにちゃんと飲み物を出しなさい。お前が気がつかないとだめだろう。あと、エアコンだけじゃ風が届かないから扇風機もつけて。こんなところに服を脱ぎ捨てるな、だらしない」
ぱん、と虎治の背中を強く叩き、清春さんは氷の入ったレモンティをなみなみとグラスに注いで渡してくれた。虎治は寝室から扇風機を持ってきた。涼しい風が室内をめぐる。
「カレー食うの?」
「いや、資料を取りに来ただけだ。あとで帰ってきてから食べる」
「ふーん」
虎治と清春さんは、親子というより友人同士みたいな話し方をしていた。てきぱきと荷物をまとめ、五分ほどで清春さんはまた出ていった。馬鹿なことするなよ、と玄関先でもう一度虎治を叱った。しないよ、と虎治は少しふてくされた声で返していた。
カレーを食べ終わった。皿洗いは私がやった。実は初めてで、力を入れてこすろうとした大皿が手からこぼれ、何度か水桶にぼちゃりと落ちた。虎治は鍋に残ったカレーを一食分ずつタッパーに入れて、冷凍庫にしまった。
テーブルを片付け、レモンティのお代わりを用意して、それぞれ教科書とノートを開いた。やっぱり試験期間中だったのだろう。途中で眠気覚ましに虎治が海外のロックバンドのCDを流した。
「毎朝、聴いてから部活行ってる」
何度聞いても長いバンド名が覚えられなかった。ダークでメロウな曲が多く、こういう曲が好きなのかと虎治の印象が少し変わった。
勉強している虎治を、教室ではありえない近さと角度で眺めるのは楽しかった。日焼け止めをつけたことがないという虎治の肌は焼きそばみたいな色になっていた。シャープペンシルを握る人差し指がしなり、指先が白くなっている。筆圧が高いのだろう。筆記具を握るこぶしと、肘の内側のふくらみに挟まれた手首の周辺だけ、刃物で肉を削いだみたいに細い。骨のおうとつが皮膚を押し上げている。
鋭くえぐれた腕のカーブに、さわりたい気がした。この子の体のくぼんだ部分に指をすべらせてみたい。どんな感触なんだろう。温かいだろうか、他の部分より柔らかいんだろうか。
ルーズリーフに覆いかぶさるようにして数式を書いていた虎治が顔を上げた。青っぽさを帯びた黒い瞳がこちらを向く。なに、とばかりに首を傾げられ、うん、と意味もなくうなずく。さわりたい、と言っていいのかわからず、二の腕がぴりぴりした。
帰り際に玄関でハグをした。そういう決まり事みたいなことはしやすかった。二人とも汗くさかった。ぎゅっと背中がしなるほど抱きしめられ、力が強いなと思った。顔を覗くと、虎治は目を閉じていた。短くて真っ直ぐな、黒々とした睫毛。十数えて、体を離す。
「また明日」
「うん」
私たち、そのうちセックスをするのだろうか。
帰り道で真面目に考えこんだ。手はつなぐ。ときどきキスもする。ハグもする。でも、決まり事のラスボスみたいなセックスもしたいかというと、正直あまりしたくない。
体験したという友人は何人かいた。年上の彼氏が避妊をしてくれない、家族にも言えない、と深刻に悩んでいる子もいた。めちゃくちゃ血が出た、と顔をしかめる子もいた。一度したらそればかりさせられる、と億劫がる子もいた。キスやハグはなんとなく良さがわかっても、セックスは必ずいやな思いをする罰ゲームみたいなイメージがあった。危ないのに、いつかしなきゃいけないもの。そのくせしたら、取り返しがつかないもの。付き合って二ヶ月以内にやろうとする男子は軽薄で、半年待ってくれる男子は大事にしてくれるいい人。それ以上待たせると今度は、我慢させてかわいそう、なんて茶化される。
したくなかったら一生誰ともしなくたっていいんだよ、と言ってくれる人はいなかった。私の体は生まれたときからずっと、私が自由に扱っていいものではなかった。
商店街の入り口にさしかかった。右手側の、ある店舗から目をそらす。もう何年も続く癖だ。なにも見えないことにする。そこには誰もいない。挨拶をされたら会釈くらいはするけれど、すぐに忘れて、私の内側には入れない。
終業式を数日後に控え、クラス内が浮き立っていた七月の半ば。教室の後ろから、ふざけている男子の声が聞こえてきた。
「でっさあ、ガミやんもこれだろ?」
ガミやん、と気になる単語が耳に入り、教壇横のごみ箱の中身をポリ袋に流し込みながら、ちらっとそちらを見た。ガミやんは男子たちがよく使っている虎治のあだ名だ。彼らは黒板に、不思議な絵を描いていた。壁から直に突き出た水道の蛇口みたいな絵。でも、ハンドルの部分がない。チョークを持った男子がもう一つ、隣に絵を描いた。蛇口の、下に向かって垂れていた部分が、真上にぐねっと持ち上がっている。ギャハハハハッとものすごい笑い声がした。
「モーコに?」
「いやいやだって、こう……ボンッ、じゃん」
「お前ほんとケツ好きな」
「俺、ハヤリンならこっちのボンッ、もいける」
「わかるー」
よくわからないし早く終わらせて帰りたかったので、袋の口をつかんで教室を出た。あとは隣のクラスのごみと、職員室のごみも捨てなければならない。
まるまるとふくらんだごみ袋を校舎裏の集積場に放り投げた瞬間、モーコ、が自分を示しているのだと気づいた。ふざけているメンバーに、同じ小学校だった男子が一人いた。クラスで一番背が高く、体重も重かった小学六年生の一時期、牛子、とあだ名をつけてからかわれた。牛子を少しひねって、モーコだ。
みるみる体の温度が下がり、吐きそうになった。周囲の音が遠ざかり、目の前が暗くなる。ぐねぐねと動く気持ち悪い蛇口。自分の体がそれと関連づけて考えられていること。甲高い笑い声が耳によみがえる。ものすごく、ものすごく、馬鹿にされた。嘲笑されていた。
誰かと恋人になって仲を深めていくことが、あんな風に自分の体を笑われることにつながるなんて知らなかった。
夏休みの間、私は部活が忙しいと噓をついてほとんど虎治に会わなかった。どうしても気が重くてだめだった。虎治にさわりたいと思っていた。でももう、よくわからない。
課題が終わらず、一日中机にへばりついていた夏休みの最終日、夕飯をとって部屋に戻ると、携帯にメールが届いていた。虎治からだ。十一月にまた親父が転勤する。絵文字の一つもないあっさりとした文章が画面に表示された。
(つづきは書籍『かんむり』でお楽しみください)
かんむり
私たちはどうしようもなく、
別々の体を生きている。
夫婦。血を分けた子を持ち、同じ墓に入る二人の他人。かつては愛と体を交わし、多くの言葉を重ねたのに、今はーー。夫が何を考え、どんな指をしているのかえさえわからない。
夫婦とは、家族とは、私とは。ある女性の人生の物語。
著者4年ぶり書き下ろし長編『かんむり』刊行記念特集です。