娘のぴーちゃんも生後6ヶ月を超え、ずいぶんと赤ちゃん赤ちゃんしてきた。お陰様で元気だ。発育が遅いのか早いのか、そこんところはあまりよくわからない。相変わらず寝返りはまだできないし、そばに人が付いていないと大声で
『おーーーい!!! あーーーーーい!!』
と呼びつけてくる。
誠に可愛い。
ついに離乳食もはじまった。お粥を炊いて、ミキサーですり潰す。野菜をグツグツ茹でて、ミキサーですり潰す。麦茶1杯飲み干すのに何十分も時間がかかる。しかしたまらなく可愛くて愛おしい。幸せだ。我が子に命の源を与える時間は至福だ。母親は母乳をあげるたびにこの何倍も幸福感を味わっているらしい。正直ずるい。なのでまだ1日1回食の離乳食チャンスは、全て父親である僕が独占している。一緒にスーパーに野菜を買いに行き、ひとつひとつドロドロにすり潰す。味見するけど、別に味付けするわけじゃないので、味は感じない。でも赤ちゃんにはこれくらいでいいのだ。(と思う)
ちなみにあまりに可愛いのでスマホの写真フォルダがもうパンパンだ。食事の様子も、以前このエッセイで紹介した『みてね』にどんどんアップロードしているが、その都度画像ファイルを削除するわけじゃないのでスマホの容量をどんどん圧迫している。でも撮りたい。日々成長していく我が子の”今この瞬間”にはもう2度と逢えないのだから。
今日も散歩中に散々写真撮影をし、見返してニヤついていたら、母から1本の電話がかかってきた。
『じいちゃんの容体が悪いみたいで、病院に呼び出されたのでこれから行きます。』
齢85を超える僕の祖父。実は入院中だったのだ。そして、その体力が限界を迎えようとしている。
健やかに育つ命があれば、役目を全うとして消えゆく命もある。
出来れば最期にひ孫に会わせてあげたかったけど、まだ小さいぴーちゃんを連れて険しい山道を走るのは難しい。
* * *
天晴れじいちゃん
島根の田舎で育った祖父は17歳で祖母と結婚し、18歳で父親になった。
祖父と祖母は従兄弟同士で血が繋がっている。当時は珍しいことではなかったらしい。畑仕事で大変だった祖父の家庭は人手が足りず、早く嫁をもらって家のことを手伝えるようにと、親戚だった祖母と早々に結婚したのだとか。
あまり詳しくは知らないのだけど、祖父は若いときから本当に苦労人で、たくさんの仕事をしてきた。炭鉱の仕事。造船工場での仕事。トラックの運転手。3人の子どもを育てるために身を粉にして働いてきた。
その後独立し、僕に物心が着いた頃には、大きな企業の配達を請負い、4tトラックの運転手をしていた。
僕が中学生のときは、春休みや夏休みになると、お小遣いほしさに祖父の仕事を手伝うバイトをした。朝5時からトラックに乗り込み、荷物の積み込みや荷下ろしを手伝った。当時祖父は,祖母と2人でたくさんの段ボールを運送する業務をしており、毎日忙しそうだった。
大量の段ボールをテトリスのように積み込んでいく技術や、重い積荷を1人で持ち上げる祖父の姿はとてもたくましかった。今思えば当時還暦を超えていたはず。にもかかわらず、筋骨隆々で、僕が腕っぷしで勝てるような相手ではなかったと思う。
祖父はとても厳格で、几帳面だった。ガサツな僕はいつもオオクジを立てられていた。(島根の方言で「怒られること」をいう)
そんなある日、祖父が倒れた。今から20年前のことである。
過労なのか原因はわからないが、積荷の荷下ろし中に、重い荷物を抱えたまま意識を失い、そのまま『ドーーーン!!』と後ろにひっくり返ったのである。
後頭部を強く打ちつけ、救急車で運ばれた祖父はそのまま入院。命に別状はなかったものの、脳の神経に損傷があり、”匂いの神経”が麻痺してしまった。
祖父は60代で嗅覚を完全に失ったのである。
味覚が残っていても、嗅覚がないと、どうやら食べ物の味はほとんど感じないらしい。
何を食べても美味しくないと祖父は言っていた。
大好きだったお酒やビールも、香りがないと苦いだけなんだとか。なんて可哀想なんだと思ったが、意外と祖父自身はケロッと笑っていて、『苦い苦い!』と言いながらビールを飲み続けていた。
祖父はそれを機に、息子である僕の父に仕事を引き継ぎ、定年退職をすることになった。
退職してからは島根の田舎に戻り、農業を営んでいた。元々子どもの頃から家の手伝いで米作りをしていた祖父は、要領よく米を作り、ある年には通常の倍近いお米の収穫をすることができたとか。地元の農業雑誌に取り上げられて表紙を飾り、はにかんでいたのには笑ってしまった。
美味しい野菜もたくさん作って、いつも僕らに新鮮な野菜やお米を食べさせてくれた。
祖父はいつも脱水になるギリギリまで汗をかいて、
味のないビールで喉を潤し、疲れを誤魔化す。そういう人だった。
祖父は、僕のじいちゃんは、本当に強い人だったと思う。身体も心も。いつも自分のことより、我が子や、孫や家族のことばかりを気にしているような人だった。
いつの間にか月日は流れ、昨年、僕のもとに可愛いぴーちゃんが生まれた。
祖父と祖母にとっての初ひ孫が誕生したわけだが、この頃には、祖父はもう家族のことを家族だとわからなくなってしまっていた。
数年前から物忘れがひどくなり、少しずつ日常生活のすべてのやり方を忘れていった。認知症はどんどん進行し、もう祖母や介護士さんのサポートなしでは生活することができなくなった。元々良くなかった心臓や肺も次第に悪くなり、入退院を繰り返した。
しかし元々体力のある祖父だ。
『そろそろ覚悟しておいた方が良いです。』
と主治医から宣告され、家族も覚悟していたのに、意外と持ち直して復活!! そして退院!? という大逆転を何度も繰り返し、先生や看護師を驚かせ続けていた。
正直なところ、今も僕は『どうせまたケロッと元気になるんでしょ!?』と思っていた。
しかし祖母に電話をかけると、いつも気丈な祖母が涙で声を震わせていた。
ついに、その時が来るのかもしれない。
80年以上この世を生きて、祖父は今何を思っているのだろう。祖父が繋いでくれた命のバトンを僕は受け取っている。そして、我が子にそのバトンを渡せるよう、日々生きているのだと思う。
いつかは来ると思っていたけれど、いざ来ると思うと、その時が恐ろしい。寂しくて、怖くて、光のない暗闇に大切な人が迷い込むのを後ろから見送るような気持ちになる。僕はその時を耐えられるだろうか。
味覚を失った祖父と、まだ味のない離乳食を食べる我が子。
スヤスヤと眠るぴーちゃんの寝顔に、不思議と祖父の温もりを感じるのは何故だろう。それは祖父が僕らに残してくれた物たちが、娘を健やかに守ってくれているからだと思う。
いつになっても祖父のことは越えられないけど、いつか自分もそんなおじいちゃんになりたい。
娘がこれから繋いでゆく命のバトンを、一緒に守っていきたい。
母から電話が会った翌日、朝一番に僕は祖父のいる島根の病院へ、車を走らせた。片道2時間の道のりがやけに遠い。
無事辿り着いた場所は、のどかな自然に囲まれた古い総合病院だった。入口のすぐそばに美しい川が流れている。
ちょうど祖母や僕の両親も病院に着いたところで、一緒に詰所で面会の申請をして、祖父の待つ病室へ向かった。
これから僕はどんな顔で祖父に会えば良いのだろうと、少し不安になる。
病室のドアを開けると、部屋の中央にベッドが置かれていた。
そこには、思い出の中の姿よりも小さくなってしまった祖父が居た。苦しそうに身を捩らせて横たわっている。正直言って、映画のワンシーンで見るような美しい病棟の風景ではない。祖父は顔を歪ませ、今この瞬間も痛みと戦っているようだった。
「お父さん! みんなが来てくれたよ! 孫のひろくんも来たよ!」
祖母が祖父の耳に届くように大声で話かける。
苦しそうな祖父は少しだけ目を開け、僕らのことを見たあと
「ほおか。めずらしいのぉ」
と応えた。ちゃんと僕のことも理解してくれている。
「じいちゃん!」と声をかけて手を握ると、力強く握り返してくれた。
しかし痛みがひどいようで、今はそれどころではない。というような様子だった。
祖父は朦朧とする意識の中で必死にもがいている。たくさんの点滴やセンサーに繋がれ、その命を1秒ずつ繋ぎ止めているようだった。
「お父さん、えらいねぇ(苦しいねぇ)。えらいねぇ。」
祖母は声をかけ続ける。
「本当に頑張ってきたよねぇ。若い頃から働いて働いて。」
「朝4時からトラックに乗って、家建てたんじゃもんねぇ。頑張ったよねぇ。」
祖母の声が涙で震える。
「えらいねぇ、頑張ってきたのに、これじゃ可哀想じゃねぇ。」
僕は祖父の手を黙って握ることしかできなかった。涙が溢れて止まらなったけど、拭うこともできず、ただ立ち尽くした。
「―――――てくれぇ。」
口がうまく開かない祖父が振り絞るように祖母に訴えた。
僕には『(そばに)おってくれぇ。』と言ったように聞こえた。
「お茶くれぇ?? お茶が飲みたいんね! はい、飲みんさいっ!」
勘違いした祖母は、強引にお茶を祖父の口元へ持っていった。
ばーちゃん違うよ……多分そうじゃないよ……。と僕が伝えようとすると、祖父は美味しそうにそのお茶を飲んだ。あれ、やっぱりお茶欲しかったんかな……。
すると次の瞬間、祖父は力強く祖母の首根っこを引き寄せ、寝転んだまま祖母を抱き寄せた。
『ありがとう!』
はっきりと聞き取れる大声で、祖父は祖母にそう伝えた。何度も抱き寄せて、背中をさすりながら、髪を撫で付けながらたくさん祖母に触れた。
「ありゃりゃあ。ほうね、わたしゃ幸せもんじゃねぇ、愛されとるんじゃねぇ。」
祖母は嬉しそうに笑いながら、祖父の頭を撫で、わかったわかったと言い、中腰のままみんなの前で祖父と抱き合った。
我がじいちゃんながら、天晴れな男である。なんて素敵なんだ。青春映画かよ!
僕は猛烈に感動した。どんな言葉をじいちゃんに伝えようとか、色々と悩んでいたけど、孫の出る幕はないなと思った。愛する祖母さえいればいいのだ。
面会時間も大幅に過ぎているし、そろそろ退出しなければならない。
僕は最後にもう一度手を握って、
「じいちゃん、ありがとう。ひ孫のぴーちゃんは元気に育っとるよ、会いにきてよ!」
とだけ伝えた。すると、
『あー!? もう会っただろうが!』
と祖父は顔をしかめてそう言った。
そうか……。祖父はぴーちゃんに会えたのだ。
動かない身体を脱ぎ捨て、タブレットの向こう側まで飛んでいって、ぴーちゃんのことも抱いてくれたのだ。少なくとも祖父の中ではそうなのだ。それなら良かった。
めちゃくちゃ不謹慎だけど、今ここで祖母と抱き合ったまま天国へ旅立ったなら、これはもう全米だって泣くよなと思った。しかし祖父は、このエッセイを書いている今もまだ、痛みと戦い続けている。
自慢の丈夫な身体は、心臓や肺がボロボロになっても、なかなか祖父のことを手放してくれない。
しかしきっと明日も、面会にきた祖母を抱き寄せるんだろう。最期の最期まで祖父は、最愛の祖母を愛するのだと思う。愛しながらお別れをするのだ。
僕は後ろ髪を引かれるような思いで、広島へと一旦戻った。
そしてぴーちゃんと妻を抱きしめたのである。
50年後、僕は祖父のような愛のある夫であり、父でありたい。
このエッセイが掲載される頃に祖父がこの世にいるかはわからないけれど、
間違いなく祖父のとなりには祖母がいるはずである。
ありがとう!! 天晴れじいちゃん!!!
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