鈴木綾→ひらりさ
りさのロンドン滞在は短かかったけど、会えて一緒に遊べてとても良かった。バックグラウンドが全然違う2人が、地球上の70億人の中で会ったって、なかなかすごいと思わない?
りさは手紙で韓国海苔の話をしたけど、その後食べても食べても減らなかった。パソコンカタカタしながら食べたり、ワインと合わせて食べたりもしたけど、毎回りさと遊んだ時のことを思い出した。今度新しいのを買ったら、食べている時にはきっとまたりさの顔が浮かんでくるだろう(笑)。
どんな質問が来るか心配したけど、女友達とのことについて聞かれて嬉しかった。それは、ポップカルチャーでは友人関係があまり深く描かれないからだと思う。小説、映画、ドラマの中心は恋愛関係だ。恋に落ちる瞬間、仲を深める過程、課題の克服、喧嘩、仲直り、破局。愛のステージと感情がすべて細かく解剖されている。恋人と仲直りの時は、こういう感情が沸き起こるんだと教えられているから、実際に起こったときにサプライズはない(脱線しそうだけど、正しい感情、正しい反応かどうかは別の話。りさが本で漫画から覚えたロマンチシズムはそうだ)。
一方で、友達関係は恋愛関係ほど詳細に描写されない。もっといえば、「友達破局」の描写はポップカルチャーで御法度に等しい。だからこそ、「友達」と別れることになると、私たちは正しい言葉を持っていないし、心の準備が全くできてない。そもそもそれを友人と「破局」あるいは「別れ」と言ってもいいのか、私たちはためらう。
だから、りさの本『それでも女でやっていく』の中で、恋人関係ほどに激しくて親密な友人関係(男性も女性も)、そしてそもそも典型的な友人関係にも恋人関係の枠に入らない関係が描かれているのが新鮮だった。親しい友達と破局になる時の罪悪感と、当時の裏切られた気持ちが丁寧に表現されてて、まさにリアルタイムでりさと同じ感情の波を読みながら感じた。
ここ数年、住む国を変えたせいで多くの友達と疎遠になった。それでやっていけるか悩みもしたし、激しい破局もあった(アムステルダムが嫌いな理由は友達と喧嘩したから)。でも、年を重ねるほど友達と別れることは避けられないと気づいた。特に世界を旅していろんな人と繋がってる人間の場合。
これはりさが書いた「友人と意見の相違」の話とも関係するけけど、私の場合、友人と疎遠になるきっかけは意見との食い違いではない。私は平気で友達と議論したりする。というか、そういう知的刺激を友達から求めている。「個人として好き」と「個人の意見が嫌い」を切り離して考えるのが強い友情の証。それでも受け入れられないのは、相手が私を尊重してくれないことと、価値観が根本的に違うこと。当然だけど。
実は、ロンドンに来てから親しくなった女友達と去年、「ソフト疎遠」になろうとした。キッパリ縁を切りたくなかったけど、少しずつ遠ざけたかった。
もともと考古学修士号を持ち、美術品競売会社での職歴を持っている彼女はビジネススクールでは数少ない「文芸・芸術ガールズ」ということで共通の友達に紹介された。卒業後、一緒にロンドンに移住した二人は「芸術とカクテル」を楽しめるようになった。彼女の解説付きでロンドンの画廊や美術館を見学するのが最高の楽しみだった。
彼女は私と性格が猛反対。高慢で癇癪が強くて人と喧嘩するが彼女の愛情表現。そして社会的地位に関して強い執着がある。昔、日本語の授業で「3高」(高身長、高収入、高学歴)について勉強したことがあるけど、この古い考え方がまだ彼女の中では健在だ。若い世代の女性たちが男性を見る基準を引き下げたのを心配している読者がいるなら、ご安心ください(笑)。
気づいたら仕事が多忙なせいで、「芸術とカクテル」が「カクテル」になって単なる飲み友になっていた。そして、「カクテル」が「おしゃれなバーでボーイ・ハント」と同義語になってしまった。「誰とデートしてる」「誰がかっこいいと思う」「ティンダーでやばい人とデートしたけど聞いて」という会話ばかり。女同士の友人でいるはずなのに、なぜか私たちの関係は男性という中心点を軸に回転していた。
自分の世界の中心に男性を置くのが鈴木綾哲学と根本的に合わない。彼女と距離を置こうと決断した。
でも、やっぱり難しかった! これやっちゃっていいのか、これ意地悪いのか、相当悩んだ。やっぱり「友人疎遠」「友人破局」のボキャブラリーがまだ自分の中にないから。
「フェミニズムの話を女同士でするときに気をつけるところ」について聞かれたね。皮肉なのは、このバリバリ肉食系女子とは何回もフェミニズムの話をしたことがあった。いうまでもなく、仕事でアートを専門的に分析する彼女とは高度な議論ができる。ジェンダーセオリーをかっこよく喋るのも一種のマウンティングだよね(笑)。
一方で、私はフェミニズムに関しては勉強してるかどうかはあまり気にしていない。だって、私は大学でフェミニズムをかなり専門的に勉強してきたのに、その時に読んだ本は頭から消えちゃいましたーーー。
学問的な議論って、私たちの日常生活上であまり役に立たないかもしれない。具体的に職場をみんなにとって居心地の良いところにする方法、性差別上司との給料交渉、こういう日常的な場面で一歩ずつフェミニズムの理想に近い社会を築き上げていくんだけど、こういうのは学校で勉強できない。
だから、私が今女同士で話すフェミニズムは、どちらかというと「みんなのフェミニズム」。学問より、日常に使えるフレームワークだ。このフレームワークが目的にするのは、女性に限らずすべての人たちに「語る」機会を与えることだ。 「みんなのフェミニズム」はセオリー(「そもそもジェンダーとは何か」みたいな)を議論する世界じゃなくて、「やり方」(女性国会議員をどう増やせばいいか)に焦点を置く世界。
この間、女性部下と話したことを思い出す。部下がトークイベントに呼ばれた。光栄な機会なはずなのに部下は準備が面倒臭くてどうのこうの、と断ることを検討していた。「講演料は?」と尋ねたら怪訝な顔された。「そうだよ、トークイベントに出て喋るのも労働だから、お金をとってもおかしくなくない?」。彼女はおそるおそる向こうに£500の講演料をお願いしたら、一発で通った。
女性――特に若い女性――は金銭的な交渉をするのが苦手。「みんなのフェミニズム」というのはそのバイアスを理解して、お互いを助け合う、励ましあうことだ。私たちが男性だった場合、このシチュエーションはどうなるのか、相談役になってあげることだ。
だからジェンダーをもっとカジュアルに話せるセーフスペースを設けるのが大事。そして、多様な女性の日常を赤裸々に語るのもフェミニズムだと思う。りさの本みたいに。他人の経験を聞いたり読んだりすると、やっぱり「友人破局」ってあるんだ、ってわかる。
りさの本を読んで、自己承認と自己肯定感がどれだけ密接に関係しているのかって思った。社会をよりインクルーシブにするためには――要するによりフェミニストな社会、いわゆるbeyond the binary、バイナリーを越えた社会になるために――、人に自分の価値を理解してもらうのが前提条件なのではないか。
部下にもまだ自己肯定感の低い女性がたくさんいるけど、こういう女性ほど自分の将来が描けてないよね。りさは本で「自分のシェルターになった」BLとかに触れたけど、自分を肯定できる時はどんな時? 書く時はそういう肯定感をもらうの? もともと自己肯定感の低い人たちはあとから身につけられるの?
これからコロンビアロードの花市場に行ってくる。次の手紙を楽しみにしているよー。
ひらりさ⇔鈴木綾 Beyond the Binary
社会を取り巻くバイナリー(二元論)な価値観を超えて、「それでも女をやっていく」ための往復書簡。