名だたる文豪からその才能を認められながらも、病のため23歳という若さでこの世を去った一人の作家に、いま注目が集まっています。作家の名前は北條民雄。北條がハンセン病の闘病生活の中で執筆した「いのちの初夜」は、NHKの「100分de名著」で取り上げられ、大きな話題を呼びました。本書の魅力とは何か、なぜ今、注目されるのか。『いのちの初夜』復刊に関わった編集者が、その魅力を語ります。
初読のインパクトは文学史上トップクラス
私と北條民雄の出会いはいまから十年ほど前に遡ります。当時学生だった私は、阿佐ヶ谷の馴染みの古本屋・コンコ堂で、百円均一の棚を冷やかすのが日課でした。
ただ、その日は店外の均一棚にめぼしい本を見つけられず、ふらふらと店内へ。そして、近代文学の棚に、「北條民雄」という文字を見つけました。かすかに見覚えのある作家名……記憶を辿ると、ある言葉が浮かんだのです。
「私が選ぶベストとなれば、何をおいてもまず私小説が挙がってくる。しかし、私小説ならば何んでもいいと云う訳ではない。結句、藤澤清造を別格とし、葛西善蔵、田中英光、北條民雄、川崎長太郎がその種の四天王であり、この五人の作のみが、私にとっての私小説なのである」
それは、私が敬愛する作家西村賢太氏の『私小説五人男』に登場する一節でした。
ああ、あの北條民雄か。
私は何気なしにパラフィン紙で包まれた本を手に取りました。それが、1939年版、上下揃いの『北條民雄全集』(創元社)だったのです。
家に帰って本を開いた私は、すぐに軽い気持ちで読み始めた自分の行動を悔いました。あまりのインパクトに、頁を繰るごとに身体が熱を帯びていくのを感じ、すっくり読み終えたころには、眠れぬほどの興奮が残りました。
すごい作家を知ってしまった――。
それから数年後。自分が編集者として『いのちの初夜』の復刊に関わるとは、夢にも思っていませんでした。
いまなぜ「北條民雄」が必要なのか
新型コロナウイルスのパンデミックを経験したいま、ある一編の小説が注目を集めています。21歳の北條民雄が描いた「いのちの初夜」という作品です。NHKの人気番組「100分de名著」で取り上げられたので、ご存じの方も多いかもしれません。
1914年生まれの北條は、19歳の時にハンセン病と診断され、その後の人生のほとんどを、療養施設である全生病院で過ごしました。「いのちの初夜」をはじめとする彼の作品は、実際に全生病院で見聞きした出来事をもとに描かれたものです。
コロナの流行は、我々が暮らす社会に多くの差別を生み出しました。不運にも感染した者は「自粛していなかったからだろう」と糾弾され、最前線で奮闘する医療従事者たちにも、心ない声が投げつけらました。「不安を差別につなげちゃいけない。」これは、法務省が掲げる差別撲滅のキャッチフレーズです。
北條民雄が苦しんだハンセン病も、よく理解できない病への「不安」が「差別」へと姿を変え、人々に牙を剥いたという点では、コロナと通ずるところがあるかもしれません。
現在は、極めて伝染性が低いことが解明されているハンセン病ですが、北條が生きた当時は遺伝病などと誤解され、罹患者は強制隔離などの非人道的な扱いを受けました。ハンセン病と診断されることは、社会的な死を意味したのです。診断した医者には、警察や役場に通報する義務まで課せられていました。
病と差別に対する恐怖や怒りの感情を、むき出しの言葉で綴った北條の作品は、いまだからこそ、人々の胸を強く打つだろう。緊急事態とも言える状況においては、一歩立ち止まって物事を考えるきっかけ、いわば止まり木のような小説が必要だ。私は、そう考えて『いのちの初夜』の復刊に関わりました。
隠され続けた北條民雄の正体
北條民雄は長いあいだ、謎の作家とされてきました。川端康成や小林秀雄というきら星のような文学者たちに絶賛され、華麗に文壇に躍り出たにも関わらず、出身地はおろか本名すら知られていませんでした。「業病」「天刑病」と忌み嫌われたハンセン病に対する差別が親類縁者に及ぶことが危ぶまれ、個人の特定につながる一切の情報が秘匿されたのです。死後は実の父親の手によって、墓石から実名が削り取られ、北條民雄は完全に「まぼろしの作家」と化しました。
北條をモデルとした小説「寒風」のなかで、川端康成は記しています。
「癩患者というものは、その生前には縁者がなく、その死後にも遺族がないとしておくのが、血の繋がる人々への恩恵なのだ」
本名の秘匿には、北條の文学の師であり、最大の支援者でもあった川端の配慮がありました。
生誕100周年を迎えて
その後、北條民雄の実名が公表されるには、2014年を待たなければなりません。生誕100周年を迎えるこの年、彼の出身地である徳島県(出生地は韓国京城)阿南市文化協会の運動によって、「七條晃司」という本名が『阿南市の先覚者たち』(阿南市文化協会編)という冊子に掲載されます。
失われた北條の存在を取り戻そうとした自治体が、長い時間をかけて遺族を説得し、彼の存在を取り戻したのです。北條民雄が「不死鳥」のように生まれ変わった瞬間でした。
悩みぬいて厳選! おすすめ作品3選
実質3年ほどの本格的な創作期間のなかで、北條は七編の小説と十一編の随筆を生み出しました。興味はあるが、どれを読めばいいか分からないという方のために、おすすめ作品を紹介しましょう。
初読者におすすめ、北條文学の白眉「吹雪の産声」
(角川文庫『いのちの初夜』)収録
私が「いのちの初夜」の次に愛する短編です。いまにも命尽きようとしている患者・矢内と、いまにも院内で生まれ落ちようとしている赤ん坊が、主人公の視点から美しく対置されます。息を殺して夜明けを待っているかのような張り詰めた空気のなかに、燃え滾るエネルギーを底流させた、シンプルながらに非常に力強い作品です。「死ぬ人もあるけれど、生まれる者もあるんだね。僕は今まで、人間が生まれるということを知らなかった」という矢内の語りは、北條作品のなかでも屈指の名文と言えるでしょう。
コロナ禍で胸を打つ名作「癩家族」
(角川文庫『いのちの初夜』)収録
北條作品のなかでは珍しく、父子をテーマにした短編です。ハンセン病に罹患し療養所に入院した父に、心優しい息子は熱心に手紙を書きます。しかし、息子もやがて発病し、二人は院内で再会することになります。「病を伝染された」と父のことを激しく恨みながらも、果たしてこの感情は正しいものかと葛藤する息子の姿が、ひりひりと痛々しく描かれます。
「伝染す」「伝染された」という関係性を意識する機会が増えたいまだからこそ、心に深く染み入る作品です。家族の感情が作品の象徴となるメジロに投影され、随所で美しく輝きを放ちます。
アヴァンギャルドな異端作「猫料理」
(講談社文芸文庫『北條民雄 小説随筆書簡集』収録)
病と向き合い、「生と死」を見つめるという構図の多い北條作品において、「猫料理」は異端中の異端といえる作品です。せっかくなので、風変りなこの作品も紹介しておきましょう。
この随筆には、病友たちと猫を捕獲して料理した時の思い出が、たいそう楽し気に描かれています。北條たちは、猫を二、三日地中に埋めて独特の「猫臭」をとったあと、砂糖と醤油で煮込んで猫鍋をつくります。その味は「大統領が咽喉を鳴らせてもちつとも可笑しくはない」というもの。ちりばめられた滑稽味が、院内での陰鬱な生活を見事に逆照射しています。猫肉は脂身が少なく、歯切れが良いといいますが、本当なのでしょうか。