鈴木綾→ひらりさ
りさへ、
手紙をありがとう! 今週は本当に大変だったのですごく励ましになった。
まず、会社の社長が代わって会議が今までの倍になった。財布を盗まれてクレジットカードとデビットカードが知らない人に使われた。カード会社やら銀行やらに電話するので大変だったけど、幸いなことに今のところ実害はない。東京は人間関係が厄介で大変だったけどロンドンは違う意味で大変。周りの人のほとんどは携帯・財布を盗まれた経験があるね。
友人の文字の特徴と私の手書きメモの話、面白い。大人になってから親しくなった人ほど、その人の筆跡を見たことがなかったりするね。筆跡はその人の人柄がにじみ出るから、見てないのはその人の一面が見えてないような気がして不思議だよね。
文字のことを指摘され、鈴木綾伝説を思い出した。私が8歳の時、同級生の男の子に告白の手紙を渡された。翌日返事を求められた。私はキッパリ断った。「文字が汚い人と付き合わない」。普段はそんな意地悪いことを言う子じゃなかったのに、その時の私は文字に拘ってたんだよね。
そして、私の質問への返事もありがとう。りさの、この文章が特に印象に残った。
「お仕着せの平均的な幸せを追求することや、他人からの承認にすがることは、一時的に酸素を供給してくれるようにも見えるが、本当の解放から遠ざかることが多い気がする。わたしにとってフェミニズムはそれに気づくきっかけでもあった」
要するに、フェミニズムは社会の「嘘」を浮かび上がらせる。私はいつも物事を「立体比喩」で考えているけど、フェミニズムはいろんなこと、人の本当の「サイズ」を見せてくれる。社会は私たちにトイレットペーパーの芯をくれて、これを通じて世界を見てごらんと勧める。しかし、当たり前なことだけどトイレットペーパーの芯から見た世界は遠近感が狂ってる。芯を目から外すと、「そうだ、私は他人と同じ背丈があるんだ」と自分の価値に気づく。その自覚が自己肯定感の基盤。フェミニズムは透視図法。
もっと大きく言えば、教育はそういった「透視図法」の知識を与えてくれる。だから女性エンパワメントにとって、特に新興国では、教育は必要不可欠。
自己肯定感についてもう一つ言いたかったことがある。自己肯定感と自信は、時々間違われるんだね。これにジェンダーを加えるとさらに煩わしくなる。「自信」は歴史上(いまでもそうだけど)、女性に望まれていなかった性質。女性は謙虚で影のような存在でいなければいけない。だから自己肯定感を持っている女性は、悪い意味で、というか、疑惑の目で見られるという意味で自信を持っている存在とされる。
自分より若い女性によく、「綾は自分に自信を持ってていいな、羨ましいな」と言われるけど、私はその間違いをきっぱりと正す。「私は自信を持っているかもしれないが、それ以前に自己肯定感を持ってるんだよ」と。ささいなことにこだわっていると言われるかもしれないけど、私にとって、自信というのは何かを達成するだけで手に入れられる。裏を返せば、失敗するとき、自信を失うんだね。
さっきの話に繋がるけど、自己肯定感は自分の価値を常に理解して生きる状態だから、揺るぎがない。私は「このサイズ」だから「あなたは小さい、価値がない」と言われても、それは間違っているという自覚が私の心の中に強い武器として生きている。この知識を私に植え付けてくれた両親、親戚、先生たちに深く感謝している。
本題に入ります。「綾は自分が生まれながらにして『女』だったと思う? 女に『なった』のだと思う?」は、素敵な質問だ。一番好きなポッドキャスター、フランス人のLauren Bastideが必ずゲストの出演者に尋ねる質問と同じ。もちろん、彼女の質問は、ボーヴォワールの名言<人は女に生まれない、女になるのだ>を踏まえている。かつて雑誌『Elle France』の編集長を務めた彼女は、フェミニストのポッドキャストを作る夢を実現させるために何年か前に独立した。現在、小説家から科学者まで、さまざまな女性にインタビューして何百万人もの聴取者に届けている。英語のエピソードもあるのでぜひ!
自分が女だと気づいた日、女になった、というのが私の見解。生まれた時、私を「女」の形にする構造はすでにできていた。私が気づいていなかったのに。さっきの告白された話も、今考えるとちょっと気持ち悪くなる。8歳の私たちはまだ思春期に入っておらず、性欲は全くなかった。にもかかわらず、私と同僚の男の子はなんとなく自分の性別をすでに内面化していた。
今週、友人が脚本を書いた舞台を観に行った。演劇のテーマは初期フェミニストとして知られている19世紀のフランス人作家、ジョルジュ・サンドが1839年に書いた「Gabriel」(ガブリエル )。女性への富の相続が禁じられていた17世紀のイタリアに生まれたガブリエルという人の物語。ガブリエルは女性として生まれるけど、家族の富が他の人にいかないように父の手で男性として育てられる。言われるまで、彼女には自分が女性だという認識がない。その後も、ガブリエルは男性・女性という性別のどちらにもはっきりとあてはめない、現在でいう「ノンバイナリー」だった。当時、そんな物語は強烈すぎて、ジョルジュ・サンドがなくなってから100年以上経ってからやっと上演された。
自分の「ガブリエル・モメント」、自分が女性だと気づいた時、いや、気づかされた時は大学時代だった。それまで、自分のセクシュアリティを自覚していなかった。いきなり、男性が私に性的関心を持っていること、自分が男性に及ぼせる性的力、そして男性たちが私にふるうことができる暴力に気づいた。ガブリエルと同じように、とても悲しい気づきだった。
社会は粘土をいじっているように、私を「女」の形にした。でも粘土はまた形を変えられる。それは30代に入ってから気づいた。社会のメッセージを完全に無視してもいい、「女」の役割を拒否してもいい。反抗心をどっかで持っている私は、今、女の一番いいところを拾って、どうでもいいこと(例えばパートナーと一緒に住むこと)を捨てるようにしている。
それでも戸惑う時はあるね。例えば、「いつかは結婚したいな」と時々ふっと思うけど、その意欲はどのくらい本物なのか、どのくらい自分の意思なのか、なかなか区別がつかない。一生悩むことかもしれないね。
はい、りさへの質問です! りさは本の中でBLの話をしたね。たしかBLはロンドン留学の研究テーマだったという記憶がある。一部のファン・フィクション以外、西洋ではBLはジャンルとしてあまり聞かない。イギリスの人たちとBLの話をした時、どんな反応があった? そして、りさは女性読者のコミュニティに入っていたと思うけど、もっと幅広いLGBTQ+のコミュニティはBLをどう見ているの? 気になります!
明日、弟が出張でロンドンに来る。弟に会う時は必ず一緒にジムに行く。彼は私より力持ちだけど、腹筋は私の方が鍛えられている(笑)。いっぱい汗かいて、最近の嫌なこと忘れよう!
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ひらりさ⇔鈴木綾 Beyond the Binary
社会を取り巻くバイナリー(二元論)な価値観を超えて、「それでも女をやっていく」ための往復書簡。