12月11日(月)19時より、フェミニストカウンセリングのパイオニア、河野貴代美さんと社会学者の上野千鶴子さんが「おひとりさまの老後を生きる」をテーマにオンライン講座を開催します。
開催を前に、河野さんの著書『1980年、女たちは「自分」を語りはじめた フェミニストカウンセリングが拓いた道』の巻末よりおふたりの対談の一部をお届けします。
(構成:安楽由紀子 写真:菊岡俊子)
80年代前半、主婦向けの講座が広がった
上野千鶴子(以下、上野) 河野さんとは40年来の付き合いですが、この人なしには日本のフェミニストカウンセリングはなかった、改めてすごいことだと本書を読んで思いました。その一方で、フェミニストカウンセリングが今日まで続いているにもかかわらず、民間カウンセリングが増えなかった。その理由について考えていきたいと思います。順を追って聞いていきましょう。河野さんが日本を出たのは何年ですか。
河野貴代美(以下、河野) 1968年です。
上野 では、リブも学生運動もよくご存知なかったわけですね。
河野 そうですね。渡米してからは、アメリカ人の夫を連れて一度戻ってきたのみで、ほとんど帰国しませんでした。
上野 1ドル360円の時代ですから、飛行機代が高くてそんなにしょっちゅう往復できませんね。
河野 ハイ。「お金を送って」というのにも電話代がかかるので、すごい早口で言う。そんな時代です。
上野 国際電話代もめちゃくちゃ高かったです。私は68年頃は京大でヘルメットをかぶっていました。
河野 田中美津さんたちのウーマンズ・リブが70年の10月でしたでしょうか。
上野 リブは70年代前半です。70年代後半には4つの女性学の研究団体が立て続けにできました。私はそのうちの京都の日本女性学研究会に関わっていました。何年に帰ってこられたんでしたっけ。
河野 78年から日本とアメリカを行ったり来たりで、80年に。
上野 80年に帰ってきて、各地で講座を始めたのが80年代前半。
河野 この本のタイトルになっている80年の2月が開業です。初めは、来所いただいてお金をいただかないと進まないので面接に主眼を置いて、講座を始めたのはその数年後です。
上野 河野さんが帰国する前後のことを話すと、70年代後半から80年代にかけて、各地の公民館や生涯学習センターなど社会教育の場で女性学講座がワーッと広がりました。その頃はまだ女性センターはありませんでした。各地の草の根の女性運動の中から、「女性センターを作れ」というムーブメントが起きはじめた頃です。
河野 当時は「婦人会館」と呼んでいましたね。75年に、国連が第1回世界女性会議を開催したことを機に、日本に国立婦人教育会館(NWEC=ヌエック、現・国立女性教育会館)ができた。
上野 それ以前、65年に、国立市公民館が日本初の託児付き講座を始めました。その前例があったから女性センターは託児室を作ることがデフォルトになりました。80年代になると、ちょうど税収バブルで自治体に勢いがあり、箱物行政で公共施設が次々にできました。要は地元の土建屋に金をばらまくしくみですが、その中で女性センター建設ブームも起きました。そういう流れの中で、いろいろな講座のカリキュラムが組まれ、座学形式が多い中で、ワークショップ型のフェミニストカウンセリングはものすごく魅力的でしたね。そういう情報って担当者の間にワーッと燎原(りょうげん)の火のごとく広がるから、河野貴代美さんは講師として引っ張りだこでしたよね。いろいろな自治体から呼ばれたでしょう。
河野 うん、全国行きましたね。
上野 めちゃくちゃ忙しかったでしょう。ギャラは安かったですか。
河野 最低限、交通費はいただきましたね(笑)。でも講師料としてはそれほどは。受講者はみんな女性。お金を持っていませんからそんなに参加料はいただけませんでした。
上野 公的機関がバックについて無料や格安の参加料の講座が広がりました。初期の受講生はカウンセリングでプロフェッショナルになるという考えは全くなかったでしょうから、参加者は、自分の悩みを解決するためのツールやスキルがあるなら学びたいという、自分探し系の人たち。そんな参加者が大量に集まりましたね。ワークショップ型で連続講座型のカリキュラムを作っておられましたのも魅力的でした。その過程で集団形成ができていくし、深掘りができるし、達成感が味わえる。当時の女性センターの限界は、ウィークデーのデイタイムに開講していることでした。ですから無業の主婦しか参加できませんでした。
河野 私たちの講座は夜もありましたけどね。
上野 それは東京限定でしょう。
河野 イイエ。他の地域でも、仕事を持ってる人向けと主婦向けに分けて二つ講座を作ってました。
上野 その両方を、公的機関がやってくれましたか?
河野 公営じゃなくて私営です。本文でも書いたように、「どこからの経済的援助もなく」です。
上野 そうでしょう。公的機関が変わったのは80年代前半に、既婚女性のパートも含めた有業率が50%を超した後からです。女性のマーケットが変わっていって初めて、公的機関がアフターファイブの講座を始めました。その時公務員たちの抵抗がありましたね。働いている女性をターゲットにしたら、アフターファイブと休日の講座を組まなければいけない。勤務時間外になると労組は反対しました。そのうち「お客さん」が変わったことを受けて、そんなことを言っていられなくなりました。
河野 そうでしたか。
全国で動いていた「素人」による学習サークル
上野 その頃フェミニストカウンセリングを受講した人たちの動機はどうだったのでしょうか。一つは先ほど言った自分探し系とすると、それだけでなくカウンセリングを職業にしたいと思う人たちもいましたか。80年代前半には「この講座を受けたら職に繋がる」と期待を持ってる人はそんなにいなかったと思いますが。
河野 受講生に明言されたわけじゃないけども、私の方が受講料いただいているのに、「自分探し」でいいんだろうかというのはあって、「ひょっとして職に繋がると思ってるかもしれないけど、私の講座では責任とれないなあ」と気がとがめたりしたことはありました。
上野 その当時はまだ女性センターの相談員というポストが存在していませんから。80年代後半頃から、女性センターがあちこちで開館しました。それまで草の根で運動してきた人たちは「女性センターがほしい」と要求したけれど、大理石を敷きつめた宿泊施設や大ホールのあるバブリーな女性センターがほしかったわけじゃなかったのに、女性運動が箱物行政に利用されたんです。それが90年代後半のバックラッシュに際して「女性行政に何億円もの無駄な税金が使われた」と非難の対象になりました。海外の女性センターを見ると、普通の民家のような街中に溶け込んだ拠点です。
ともあれ90年代前半までは各地の女性センターに勢いがあって、意欲的な職員が女性センターに勤務し、わずかとはいえ相談員のポストができ、フェミニストカウンセリングの職業化が起きたけれども、それもほとんど非常勤。食える職業にはなりませんでした。結局、カウンセリング講座を受講しても、それまで主婦をしていた女性たちによる「心のケア」という体裁のいい小遣い稼ぎになっていったという流れではないでしょうか。
河野 だからプロフェッショナルとしてのフェミニストカウンセラーであることを打ち出すために、2002年に日本フェミニストカウンセリング学会の認定資格を作ったんです。本書にも書きましたが、作るまでにはもめてもめて、すごい議論になった。というのはフェミニストカウンセリングは周辺的、マイノリティ・アイデンティティを持つ人が多く、資格化には反発が強かったのです。当時、「フェミニストカウンセリング」を商標登録すると言ったら、上野さんには反対されたんですよね。特許化して使わせないのはよくないと。
上野 だって「フェミニスト」も「カウンセリング」もジェネリックな用語ですから。それを商標登録するのはあんまりです。そもそも、アメリカから「フェミニストセラピィ」を日本に持ち込んだ時に、「フェミニストカウンセリング」に名称を変えた理由は何ですか。
河野 「セラピィ」というのは「治療」という意味ですから、治療は医療に繫がってくる。そういう概念ではなく、カウンセラーと一緒に考えていくことの実践を考えていました。それに、カウンセリングの方がわかってもらいやすいとも思い、「フェミニストカウンセリング」としました。しかしカウンセリングという言葉は出自からいって「軽い」んですね。
上野 カウンセリングの方が日本で通用しやすいのと、脱医療化を目指した。この二つの動機づけがはっきりあったということですね。その上でお聞きしたいのですが、「フェミニストセラピィ」が「フェミニストカウンセリング」と日本化して何が起きましたか。
初代NWEC(国立女性教育会館)館長が「自己主張のトレーニングが素晴らしい」と言ったというエピソードを書いておられましたが、日本の女が自分の経験を言葉にしてこなかったというのは事実です。60年代に女性史で「聞き書き」ブームが起きたというのも、文書史料があまりに少なかったから。
私が80年代に女子短大の講師をしていた時、「おばあちゃんのライフヒストリー」というテーマで学生にレポートを書かせたんです。何人ものおばあさんの聞き書きを読むと、必ずといっていいほど前置きにあるのが、「私のようなモンの話をよう聞きに来てくれた。言うほどのこともないけど……」「語る値打ちもないけれど……」といった言葉。わざわざ自分の話を聞きに来てくれる人がいないということがそれでよくわかりました。だから、自己主張のトレーニングで、自ら語ろうという場を作ることが画期的だったということがよくわかります。
河野 学生たちはレポートにどんな反応をしていましたか。
上野 「初めて聞いた」「おばあちゃんとこんなに話したのは初めて」「知らないことだらけだった」とか、ものすごく感動していました。内容を分析して面白かったのは、おじいちゃんと結婚した馴れ初め。配偶者選択の方法が恋愛か見合いかについては、日本ではちょうど60年代に半々になって、その後恋愛が増えました。
おばあちゃんたちのレポートによれば、50人のうち48人が見合い。京都の商工自営の中産階級の女たちです。恋愛結婚の2人は貧乏人。奉公に早く出されたり、兄に嫁が来るから邪魔だと出されたりして、行った先で「くっつき夫婦」になった人たち。恋愛のことを「野合(やごう)」と呼びました(笑)。配偶者選択の自由は貧乏人の特権かと思ったほどです。また、おばあさんたちが幸せだったかどうかというと、50人のほとんどが「当たりハズレ」という言葉を使っていました。恋愛組の2例は「じいちゃん、当たりだった」、「じいちゃんが生きていた時が一番良かった」と言いました。残りは当たりとハズレがほぼ半々。「博打はするわ、女作るわ、えらい目にあってハズレだった」と。結婚はギャンブルだったようです。
河野 社会学者として「CR(コンシャスネス・レイジング)」という言葉がない80年代に「古い女の話を聞いていらっしゃい」と思ったのは先見の明ですね。なぜですか。
上野 私は、それまでにすでに日本の女性史に関心を持っていましたから。女性学や女性史を含めて、いろいろな草の根の女性サークルの厚みを侮ってもらっちゃ困りますよ。
河野 なるほど。いや侮ってるわけじゃありません。さすがだなと。
上野 地域女性史は、リブが起きる以前から各地で草の根にものすごい分厚い層がありました。みんな民間研究者。敗戦後に女性史のサークルが日本中にできて、たくさんの刊行物も出していました。それを支えていたのが、社会主義婦人解放論のおネエさまたちよ。この方たちはリブの女が登場した時に、不快な顔をなさいました。
河野 そうでしょうね、それはよくわかります。社会主義婦人解放論は、心の事柄とか、個人、特に女性が自分の人生に何を感じているのかなどを問いませんから。
上野 日本には草の根女性史の厚い層があるのに、リブとのあいだに断絶が起きています。だから私は「歴史学とフェミニズム」という論文の冒頭に、「日本では女性史とフェミニズムの出会いは不幸なものであった」と書いたのです。女性史だけでなく、日本には民間の女性サークルが山のようにありました。私たちの民間女性学研究会もその一つ。新聞に小さな告知が出ると、それを頼りに、いろいろな人が、本当にもう蛸壺から出てくるみたいに出てくるんです。そして、公民館などに集まって、夫に言ってもわかってもらえない、姑にはもちろん言えない、親きょうだいにも言えない、職場の誰かに言っても浮いてしまうという話を思いの丈しゃべって、うなずき合って帰って行ったのです。私もその当時は大学院生というよりオーバードクターでしたから、自己紹介のたびに「失業者の上野です」と言っていました。
河野 フェミニストカウンセリングが始まる前に、草の根の、すでにあった学習サークルの存在が、根底でフェミニストカウンセリングに繋がっていったといってもいいでしょうね。これは認識不十分でした。
上野 リブはリブ新宿センターばかりが注目されるけど、全国各地にリブのスペースを作った人たちがいます。札幌、京都、広島……地方に厚みがあって、それぞれ独自の動きをしていまし、何のバックアップも専門性もなく手探りで、「アメリカでこんな本が出たらしい」「翻訳がないから英語で読もう」「読書会をやろう」といったことをやってきました。そこに登場したフェミニストカウンセリングはものすごく魅力的に見えましたね。
河野 たしかにフェミニストカウンセリングがポコッと出てきたように見えますが、歴史の深層では繋がっていたと言いたいですね。これは大事な視点ですね。
上野 そうは言っても、帰ってきてから、『あごら』(1972年創刊)の発行者、斎藤千代さんと共に活動なさっていたでしょう。
河野 はい、『あごら』に関わってました。
上野 『あごら』は全国的な展開をした女性運動でしたね。
河野 バラバラだった組織を拠点にして各地で「ミニあごら」を作りました。私の提案でした。『あごら』編集部、『あごら』ミニ編集部というふうに分けて。
上野 そうでしたか。『あごら』京都は私の友人が主宰していて、問題意識の高い人たちが集まっていました。うまいなあと思ったのは、『あごら』は各拠点持ち回りの責任編集制にしていましたね。それは河野さんのアイデアですか。
河野 はい、私のアイデア。
上野 素晴らしいアイデアでした。情報発信側に立つことによって、各地のグループが育ったと思います。『あごら』みたいな運動体が日本にあって地方に拠点があるということを、あなたは知っていたわけですね。
河野 知っていました。私が『あごら』に手を染め出したのは、フェミニストカウンセリングを始める前、日本とアメリカを行ったり来たりしてる時期に関わったんです。
上野 『あごら』京都のニュースレターはすごくクオリティが高い。DV、虐待、子育て、夫との葛藤、女らしさの問題、ありとあらゆる問題が出ていて、毎月ニュースレターを配信していました。私はWAN(認定NPO法人ウィメンズ アクション ネットワーク)のミニコミ図書館に『あごら』京都のニュースレターを収蔵したいと何度も交渉していますが、実現していません。理由は「あまりにプライベートなことが書いてあるから外に出せない」と。『青鞜』を読み返すとものすごくプライベートなことが書いてある。時効になれば歴史的価値があると、説得しているのですけどね。
その当時、コンシャスネス・レイジング(CR)という言葉さえ知らない時代に、毎月の定例ミーティングやニュースレターを通じて日本の女たちも海の向こうの女たちと同じようなことをしていました。70年代、80年代に日本にいた私の実感としては、CRという言葉を後から知って、「な~んだ、私たちがやってきたことと同じじゃないか」と思いました。そう言ったら、河野さんから「違う」と言われたのよ。その理由がわからない。アメリカに正統派のCRがあって「あんたたちがやっていたのとは違う」という判定をくだされたように感じました。
河野 そんなつもりはなかったけれども、そこまで私の視野が広がっていなかったとは言える。申し訳ないです。それはたぶんCRとは呼ばない、と思ったのでしょうねえ。
上野 英語圏の言葉は後から入ってきました。ただ、やっていることは同じだと感じます。
河野 当時は私に情報が入らないんだよね。それで帰国していきなりフェミニストカウンセリングを始めたから。
上野 たとえば80年代、女性センターを自治体に作らせた運動について「日本のフェミニズムはしょせん行政フェミニズムだった」なんてまとめる研究者もいます。歴史は怖い。レイトカマー(新参者)が「××であった」と書いたら、後からそれを読んだ人はそういうふうに思っちゃう。
当時、自治体は「女性センター建設計画委員会」などに大学教授や有識者といった女を集めました。それを「行政フェミニズムだった」とまとめるのは、そういう上からしか見ていない人が言うこと。女性センターは自治体がすすんで作ったわけではありません、女性運動が作らせたんです。幸いなことに、私はそういった行政主導の委員会や審議会に一度も呼ばれたことはありません。
河野 うるさいから呼ばないでおこうとなってるんですよ(笑)。
上野 当時、行政は確かに女性運動に親和的でした。露骨に言うと、女性票獲得のために運動に乗じたんです。89年のマドンナ選挙で、初めて「山が動いた」と言われた。選挙行動を分析している政治学者によると、戦後の国政選挙史上、女性票が初めて家族票から離れて個人票として動いたのが89年の選挙だったといいます。それまでは、各地にいる集票マシンが「あの家のとうちゃんを落とした」というと、「なら、じいちゃんとばあちゃんとかあちゃんで、4票は確実だね」と数えて、それがほぼはずれなかったのが日本の選挙です。それが女性票が個人票として動いてから、自治体首長は女性票にすごく配慮するようになりました。
こうした動きと、税収バブルによる箱物行政と、女性運動がうまくハマったのがこの時期です。続きませんでしたが、行政とフェミニズムの蜜月と言ってよい時代でした。フェミニストカウンセリングもその流れに乗っかって成長していったのですね。
河野貴代美さん×上野千鶴子さんオンライン講座
「おひとりさまの老後を生きる」
開催日時:2023年12月11日(月)19時~21時
場所:Zoomウェビナー
2024年1月8日(月)23時59分まで視聴可能なアーカイブを販売中です。詳細は、幻冬舎大学のページをご覧ください。
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