発売前からざわざわ…、発売してからますますざわざわしている、芦花公園さんの新刊『パライソのどん底』。
ここでは、第1章「贄(にえ)」の章を特別公開。これまでになく艶めかしい、芦花公園発BL系ホラーをお楽しみください。
* * *
十一月にもなるとさすがに寒くなってくる。東京では気候をあまり意識したことがなかったが、森山郡は東京よりずっと寒い気がする。朝起きて息を吐くと、たまに白い。雪も降ると聞いて更にうんざりした。律はどんなに食べても太れない体質で、脂肪も筋肉も薄い。寒さは細い体の骨に沁みるようで、苦手だった。
祖父の具合は相変わらずだ。もうこれ以上良くも悪くもならない。しかし律は熱心に看病をするようになった。祖父が生きている限り、律は森山郡に滞在できる。瑠樺と一緒にいられる。瑠樺を抱ける。
二人は、完全に排除された存在なのだ。授業に出ていようといまいと、あるいは校舎にいようといまいと、誰も文句を言う者はいない。保健室で、体育館で、校舎裏で、何度も体を重ねた。瑠樺は抱くたびにより美しくなるようだった。抜けるように白い肌が桃色に染まっていくのを眺めるのが、律は何より好きだった。長くて細い脚が体に絡みつくのも、射精したあと呆けて天井を見る瞳も、全てが美しく、そのたびに律は瑠樺と死にたいと思うのだった。
その日瑠樺が律の腕の中で、
「日曜日あそびにいきたいな」
と言った。
瑠樺は最初の頃に比べると随分言葉が滑らかになった。栗色の頭髪とその顔貌から、東洋の血が薄いのかもしれないと思っていたのだが、しかしその一番の理由は、容姿ではなく拙い言葉遣いと不思議なイントネーションだ。標準語でも森山郡の方言でもない、日本語話者ならまずしないような音節で発声する。不思議には思ったが、不快ではなくむしろ魅力的で、矯正してやろうなどという気には全くならなかった。しかしセックスの合間合間にどうでもいい話をしている──尤(もつと)も律が一方的に話しかけていただけだが──からだろうか、徐々に彼の言葉は標準語に近付いているような気がした。
「日曜日にあいたいよ」
「勿論いいよ、どこに行こうか」
律は少し驚いていた。こうして瑠樺が遊びに誘ってくるのは初めてのことだ。律はいずれ東京の高校に戻るつもりなのだが、一番の障壁になりそうなのが、森山の非常に遅い学習到達度だった。そのため休日は勉強に時間を充てており、誰かとどこかへ行くという発想はなかったが、瑠樺が望むなら話は別だ。瑠樺より優先順位の高いものなどない。それに今は、森山郡に永遠に滞在したいとすら思い始めている。
「りっちゃんのいえがいい」
瑠樺は律の腕に細い指を絡めて微笑んだ。瑠樺は最近、『りっちゃん』と呼ぶのがお気に入りだ。 その週の日曜は大変都合が良かった。父は会社の付き合い、母は東京にいる親戚の集まりで出かけており、夜まで帰らない。家には祖父と律、二人きりだ。
看病の甲斐あってなのかは分からないが、祖父はいつになく顔色が良かった。と言っても、コミュニケーションを取るのはかなり難しい。祖父は長年の喫煙から慢性閉塞性肺疾患(COPD)を患っており、常に酸素吸入器のチューブを鼻に通している。体調を崩して以来、徐々にボケてしまったのもあって、発声の面でも認知の面でも会話は非常に困難だ。そのこともまた、都合が良かった。瑠樺が来ても、瑠樺と何をしていても、祖父が何か言ってくることはないだろうから。
瑠樺との約束は午後一時だ。軽い昼食を食べて、それから──さすがに祖父がいる場所でセックスするのはまずいかもしれない。しかし、瑠樺に会える。いつもは会えない場所で。律の心は躍っていた。
興奮が過ぎて前の晩によく眠れなかったためか、朝食のあと眠気に襲われ、気付くと時計は約束の時間の三十分前を指していた。
「おじいちゃんごめん」
急いで祖父の食事の準備をする。さすがに祖父に食事をやらなかったなどということがあってはならない。母の用意した、誤嚥しないようにとろみをつけた食事を祖父の口に運ぶ。祖父は黙ってそれを咀嚼(そしやく)した。祖父の目は白く濁って生気がなく、律は祖父に顔を近付けるこの作業が好きではなかった。食器が空になると祖父は口をかすかに動かす。ほとんど聞こえないが、すまない、と言っているようだ。その後、訪問診療の歯科医に言われた通り、たらいを持ってきてやって、体を起こしたまま歯を磨かせる。食べかすが口の中に残っていると、それも誤嚥の原因になるそうだ。虚(うつ)ろな表情の祖父を見ながら、律は瑠樺のことを思い出した。
動きが緩慢で死を待つばかりの老人と、輝くような笑顔の少年。生と死。部屋には祖父の含嗽(うがい)の音が響いた。律は祖父の口の周りを丁寧に拭く。
ふと、呼び鈴が鳴った。田舎の人間なら呼び鈴など鳴らさず勝手に扉を開けて入ってくる。おそらく瑠樺だろう。画素数の粗いモニターに白い人影が映っている。嬉しくなって立ち上がろうとすると手首を掴まれた。
「出てはならね」
祖父の声は掠(かす)れきっていたが、地面から涌き出たように響いた。濁った目に燃えるような力を宿して、こちらを見上げている。
「あれは呼ばれねば入れね、出てはならね」
「なんでだよ……あれは友達で」
祖父の手を振り払おうとしても、骨ばった手ががっちりと食い込んで離れない。普段は弱々しく一人では移動することもままならない老人とは思えないほどの、強い力だった。 その間にも呼び鈴は連続的に鳴り続けている。確かにおかしいかもしれない。子供のいやたずらのように何度も──唐突にそれが止んだ。不気味な静寂が訪れる。
「……瑠樺か?」
玄関に向かっておそるおそる問うてみる。わずかな沈黙の後、それは言った。
「りっちゃん、あけてー」
瑠樺の声だ。何度も聞いた、一瞬で人を虜にするあの美しい声だ。
「りっちゃん、あけてー」
「入れてはならねっ」
祖父が大声で怒鳴る。
「お前の来るとこでね、帰れ」
──ガタン、ガタガタ
玄関の扉が揺れる音がした。
「りっちゃん、あけてー」
何故瑠樺は、
「りっちゃん、あけてー」
玄関の鍵は開いているのに、
「りっちゃん、あけてー」
入ってこないのだろう。
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
「りっちゃん、あけてー」
(つづく)
パライソのどん底
男の首筋に浮き出す血管を数えたことも、くっきりとした白い喉仏に噛みつきたいと思ったこともなかった。“美しすぎる彼”に出会うまでは――。それぞれの“欲望”と、それぞれの“絶望”が絡まり合い、衝撃の結末へ。
「ベストホラー2022《国内部門》」(ツイッター読者投稿企画)で1位・2位を独占した芦花公園による、切なさも怖さも底無しの、BL系ホラー!
* * *
“絶対に口にしてはいけない禁忌”を抱えた村に、転校生・高遠瑠樺がやってくる。彼のあまりの美しさに、息を呑む相馬律。だが、他の誰も、彼に近づこうとしない。そして、律だけに訪れる、死にたいほどの快楽……。
ある日、律の家の玄関が、狂い咲きした花で埋め尽くされる。すると、”花の意味”を知る、神社の“忌子”から、「アレに魅入られると、死にますよ」と告げられる―ー。
この村で、住民がひた隠しにする「伝承(ひみつ)」とは?
俺の心と体を支配し、おかしくした、「存在(アレ)」の正体とは?