発売前からざわざわ…、発売してからますますざわざわしている、芦花公園さんの新刊『パライソのどん底』。
ここでは、第1章「贄(にえ)」の章を特別公開。これまでになく艶めかしい、芦花公園発BL系ホラーをお楽しみください。
* * *
瑠樺の腿に滴るひとしずく、それを舐めとると、瑠樺はかすれた声でああ、と言った。 サイズの合っていないシャツの隙間に手を滑り込ませる。今まで触ったどんなものよりもすべらかで、吸い付くような感触。堪らなくなってシャツをひきむしり、瑠樺の胸に顔を埋めた。ほとんど脂肪のない、それでいて女性的な柔らかさを持った胸部は、瑠樺が呼吸をするたび小さく震えている。何度も無意味に頬を擦り付けるうち、熱くなった肌はやがてどちらがどちらの肌なのか分からなくなる。
そうして一つになっていると、ふいに頭を持ち上げられる。目線が合う。瑠樺と目線が合う。自分がこれほどまでに美しいと知っているのだろうか。だから微笑んでいるのだろうか。
「抱いて」
と瑠樺が言う。下半身に熱が集まる。そのまま、勃起した陰茎を挿入する。
「そうだけど、そう、じゃ、ない」
非難めいた口調と裏腹に瑠樺は咥え込んで放さなかった。もう会話は必要なかった。瑠樺は律の口唇を貪りつくし、律もまた同じようにした。
「灼ける」
絶頂が近付くと瑠樺は少女のような声で叫んだ。
「灼けるっ、お願い、抱きしめて」
灼ける、灼ける、灼ける、その声に促されるかのように律は果て、同時に瑠樺をきつく抱きしめた。そしてようやく、これが抱いての意味かと気付く。味わいつくされた瑠樺の口唇がひくひくと痙攣(けいれん)している。もう一度深く吸う。陰茎を引き抜こうとすると、瑠樺は脚をきつくからませ、それを拒んだ。きゅう、と強く締め付けられ、再び下半身に血液が集まっていく。
「ずっとこうされたかった、こんなふうに大事にされたかった」
瑠樺の涙が蛍光灯を反射して光っている。
そうだ、瑠樺と律は幼馴染だった。ずっとだ、ずっと昔からだ。好きだとか恋愛だとかそういう気持ちでは言い表せないものを抱えていた。産まれたときからずっと一緒だった。半身ですらなかった。瑠樺は律の全てだった。
セックスという単語を知る前から二人でどろどろに溶け合うそれを知っていた。瑠樺が律の家に泊まりに来たとき──小学校高学年くらいだっただろうか。そのとき、夜更かしをしてテレビを観ていた。なんとかという巨匠の撮ったアート志向の作品、内容は難解でよく分からなかった。それでも十分だった。見たこともないくらい綺麗な白人の俳優と女優が重なり合っていた。二人の舌が二匹の蛇のように絡まり、離れ、また絡まる。ぴちゃぴちゃという音は雨の日の水たまりとは明らかに違う、何かとても素晴らしいもののように聞こえた。同じ布団を被っていた瑠樺の震えが肩に伝わる。瑠樺の方を見ると、彼もまた律を見ていた。第二次性徴を迎え、小汚く男性的になりつつある律と違い、瑠樺の顎の線はふっくらと丸みを帯びている。首は細く、快楽で顔を歪める画面の女優よりもずっと柔らかそうだった。瑠樺が律の手を強く握った。映画が終わってカラーバーが画面に表示されても二人はずっと混ざり合っていた。
もっと以前の話をすれば、小学校に上がる前だ。砂場で遊んでいた。瑠樺が山を作り、律はトンネルを掘った。掘った向こうに瑠樺の小さな手があった。泥まみれのぬるついた小さな手を掴んだ、そのとき。
また、夏休みのことだった。縁側で二人はかき氷を食べていた。瑠樺はひとすくいの氷を唾液で溶かし、それを全体にかき混ぜて美味しそうに食べた。りっちゃん、こうすると美味しいんだよと笑顔で言った、そのとき。
律と瑠樺は同じことを考えて同じように行動した。 体をゆっくり起こすと、いつの間にか瑠樺は笑顔に戻っている。ミルクを紅茶に溶かしたような色の髪が真っ白なシーツに何本か落ちている。それを拾い上げて匂いを嗅ぐと、うす甘い花のような香りで脳が満たされた。何やってるの、と瑠樺が微笑む。記憶の形をした変にくっきりとした映像を思い出しながら、律はまた、瑠樺の口唇を吸えばいい。
突然、肩を叩かれる。ここは誰も知らない場所だ。律は細心の注意を払って、ここで蜜のような時間を過ごすと決めた。誰も知らない、誰も止めようのないこの場所で。驚いて振り向くと、そこには瑠樺と比ぶべくもない、貧相な少年が立っていた。目は落ち着きなく泳いでいる。
「もうこれで最後にしようよ」
少年は声に怯えの色を滲ませて言う。
「最近の律は怖いよ。最初は練習のはずだったじゃん。俺も強く言わないからいけなかったんだろうけど、最近怖いし気持ち悪いよ。もう俺やりたくねえよ」
「だめ」
瑠樺の指が顔に絡みついてくる。瑠樺は律の下で相変わらず笑みを浮かべていた。
「りっちゃんは瑠樺と一緒にいるんだよ。瑠樺を大事にするんだよ。だからだめ。振り向いたりしないで」
当然だ。瑠樺を一生大切にする。瑠樺とここで溶けて、どちらがどちらなのか分からなくなるまで溶けて、そうして瑠樺になりたい。瑠樺の瞳をじっと見つめる。瑠樺も律を見ている。
目の前に火花が散る。あの貧相な少年がやったのだろうか。衝撃が頭蓋骨(ずがいこつ)を伝わって顎が揺らされる。視界が歪み、目からとめどなく涙がこぼれる。振り向くと、少年が数人の男を引き連れて立っていた。連れの男たちの顔は曖昧模糊として霧がかかったようだ。しかし嘲り、怒り、そんなものだけは嫌というほど伝わってくる。彼らの手を見て納得する。皆、手に棒状のものを持っていた。それで律を打ち据えたのだ。
「気持ち悪いんだよオカマヤロー。二度と学校来んじゃねえぞ。写真もばらまいたからな」
貧相な少年が貧相な顔を歪めて笑う。その目には、もう怯えや不安感はなかった。何故か律は安心する。彼が今楽しいなら、それで幸せなのかもしれない。打たれた場所がじくじくと痛む。律は舌を伸ばして、上唇に垂れた液体を舐めとる。塩辛さが心地よい。地面の冷たさを頬に感じながらひたすら幸せに浸る。
「だめ」
瑠樺が律の首に手をかけている。
「りっちゃんは瑠樺と一緒にいるんだ。瑠樺を大事にするんだ。振り向くな」
そう。瑠樺を大事にする。それが律の命題なのだ。一生の。瑠樺は言わば律なのだから。瑠樺がいなくては律はいられないのだから。もう瑠樺になることに一切、なんの迷いもない、それでしか誰も救われない。
瑠樺が口を大きく開けて律を迎え入れようとしている。あの美しい犬歯が当たると動脈はプツリと裂けるのだろうか。赤い舌が炎のように揺らいでいる。胃液さえも甘く香るのだろうか。
「何を寝ぼけたこと言ってるんだ。お前はもうここにはいられないんだ。お前だけじゃない。俺も、母さんもだ」
「どうしてこんなことに……あなた普通だったじゃない。普通に生きてきたじゃない。なんでこんなことするの? そんなに私を苦しめたいの?」
振り向くと今度は父と母だった。暗い顔だ。心がちりちりと焼け焦げていく。暗い顔をしても仕方ないのに。魚が陸で暮らせるだろうか。律は頭を下げる。額を地面に擦り付ける。きっと分からないだろうが、あなたたちが期待しているのはそういうことなのだ。
「もうお終いね。どうやって生きていったらいいの明日から……」
「当面あっちで生活することにした。ちょうど親父の具合も悪いしな。昨日異動願を提出してきたよ」
「本当にどうしたらいいの、私たち、あんなド田舎で暮らすしかないの?」
「そんなこと言ったって仕方ないだろう! 俺だって嫌だ、どんなに努力して東京に出てきたと思ってるんだ!」
「あなたごめんなさい……ごめんなさい……でも自信がないのよ……私がこんな……を……んだから……」
「強く言って悪かったな……五年、いや十年いれば……」
父と母は暗い顔をして、時折声を荒らげながら煩わしそうにこちらを窺う。律の口は動かない。彼らは人で、こちらは魚で、言葉が通じるわけもない。それでも伝えたい。魚どころではない、あなたたちにとって俺はバケモノなのだ。バケモノですらないかもしれない。胸に後悔が押し寄せた。すみませんでした。頭を何度も床に打ち付けるが、バケモノの謝罪はあなたたちには届かないのだった。それでもひたすら打ち付ける。何度も、何度も。
(つづく)
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パライソのどん底
男の首筋に浮き出す血管を数えたことも、くっきりとした白い喉仏に噛みつきたいと思ったこともなかった。“美しすぎる彼”に出会うまでは――。それぞれの“欲望”と、それぞれの“絶望”が絡まり合い、衝撃の結末へ。
「ベストホラー2022《国内部門》」(ツイッター読者投稿企画)で1位・2位を独占した芦花公園による、切なさも怖さも底無しの、BL系ホラー!
* * *
“絶対に口にしてはいけない禁忌”を抱えた村に、転校生・高遠瑠樺がやってくる。彼のあまりの美しさに、息を呑む相馬律。だが、他の誰も、彼に近づこうとしない。そして、律だけに訪れる、死にたいほどの快楽……。
ある日、律の家の玄関が、狂い咲きした花で埋め尽くされる。すると、”花の意味”を知る、神社の“忌子”から、「アレに魅入られると、死にますよ」と告げられる―ー。
この村で、住民がひた隠しにする「伝承(ひみつ)」とは?
俺の心と体を支配し、おかしくした、「存在(アレ)」の正体とは?