発売前からざわざわ…、発売してからますますざわざわしている、芦花公園さんの新刊『パライソのどん底』。
ここでは、第1章「贄(にえ)」の章を特別公開。これまでになく艶めかしい、芦花公園発BL系ホラーをお楽しみください。
* * *
「製造責任というものがありますから」
やけに通る声が、鐘のように響いた。同時にねっとりした快感も、塩辛い幸せも、床に打ち付けた額の痛みすらも消えていく。
「ああすみません、こちらの話です。あなたがたを責めているわけではありませんよ」 そうして律はやっと、自分が今どうなっているか認識することになる。全身をきつく縛られ、床に転がされていることを。
眼前に白装束に身を包んだあの女がいた。これがイミコの正装なのだろうか。次第に視界がはっきりしてくる。室内。板張りの床。白漆喰(しろしつくい)の壁。窓が六つ。外は暗い。律は、六角柱の建物がどこか寒々しい場所にぽつんと建っているのを想像する。
律とイミコを囲うように柱が立ち、そこに注連縄(しめなわ)が張られている。両親、それに杏子までがその外側から律を見ている。
しかし、それら全てのことより、未だ律の頭は一つのことで支配されている。
瑠樺はどこにいるのか。
辺りを見渡そうと踠(もが)いても、首まで固定されているため叶わない。
「そんな顔をなさらなくても、もうすぐここに来ますよ。尤(もっと)もなにもせず会わせるわけにはいきませんが」
イミコは振り向き、杏子に向かって何か短く怒鳴った。杏子は頷いてチョークのようなもので周りに円を描く。そしてせいぜい直径五メートルほどしかないであろうその円の中に律の両親を引き入れた。
「そこから決して出てはなりませんよ……ほら、おいでなさった」
注連縄にかけられた全ての鈴が鳴っている。ずるずると音を立てて何かが這い寄ってくる。
──かけまくもかしこきもりやまじんじゃのおおまえに──
イミコが祝詞(のりと)を唱え始める。その間にも鈴は絶えず鳴り続け、耳が壊れそうなほどだ。 何かを引きずるような音は建物の四方から聞こえる。得体のしれない恐ろしいものがぐるぐると建物の周りを這い回っている。そんな様子を否が応でも想像してしまう。
──やそかびはあれどもきょうのいくひのたるひにえらびさだめて──
両親の方に目線だけ向けると、二人で抱き合い手を合わせている。ふと、律と杏子の目が合った。杏子の潤んだ瞳からは恐怖以外の感情が読み取れない。
──とつぎのいやわざとりおこなわんとす──
ピタリと音が止む。鈴の音も、這い回る音も、イミコの呼吸音すら止まっているような気がした。
「りっちゃん」
ちょうど正面の窓から声が聞こえる。瑠樺。瑠樺だ。瑠樺の声だ。一番聞きたかった、この世で一番美しい生き物の声だ。
「りっちゃん、いれて」
瑠樺。瑠樺だったんだ。律は歓喜の涙を流す。這い回っていたのは得体のしれないバケモノではない。瑠樺が来た。律を救うために。律の心臓は今にも破裂しそうなくらいどくどくと脈打っている。瑠樺の名前を呼びたい。瑠樺、鍵を開けて、早く瑠樺に──何度叫ぼうとしても律の喉から声が出ることはない。どんなに身を捩(よじ)っても、芋虫のように体をくねらせることしかできない。
「まだいけません」
律の腹に足を乗せて、イミコは言った。
「殺されたいのですか? まあそうなのでしょうが、今死んでもらうわけにはいかないのですよ」
イミコは鈴のたくさんついた道具を取り出した。注連縄についていた鈴よりも清涼な音が耳を擽(くすぐ)る。床を踏み鳴らしながらそれを上下左右に振る様子は荘厳で美しい。神に捧げるその舞は、瑠樺のことで脳が支配されている律の目を僅かだが奪うほどだった。
舞の間も、イミコは祝詞を続けている。頭が割れそうに痛い。
──うみかわやまぬのくさぐさのものをささげまつりて──
突如、窓が揺れた。誰かが──瑠樺が、窓を叩いている。リズムでもとっているかのように三連続、徐々に激しさを増していく。
同時に甘い声が耳を蕩かす。
「りっちゃん、いたいのがすきなの?」 あの日、瑠樺に初めて触れた日。
「りっちゃん、いたくするのがすきなの?」 瑠樺の肌に、粘膜に、血に触れた日。
「りっちゃん、たたいていいよ?」
瑠樺はあの日からずっと、律のために。
瑠樺。瑠樺。瑠樺。瑠樺。瑠樺。瑠樺。瑠樺。瑠樺。
いつでも触っていい。 いつでも殺していい。
いつでも
「入っていいよ」
見えない力に突き動かされるように、律の口が告げる。
律は許可したのだ。 六角の壁の一面がボロリと崩れ、白くて大きい、美しい光が射し込んでくる。『あれは呼ばれねば入れね』、祖父の言葉を思い出す。そうだ。瑠樺はいたのだ。あのとき外にいたのはやはり瑠樺だった。瑠樺は許可を待っていたのだ。なんて健気な。律は喜びで満たされる。そんなことがなくても瑠樺は入っていい。いつでも入っていい。
ダメ、と鋭く叫んだのは杏子だ。しかし、律にその声は届かない。
律の意識は暖かい光の中にいる。口腔から鼻腔から、全ての穴からそれがどろりと浸み込んでくるのが心地いい。季節など関係なく庭に咲き誇る花々の甘い芳しい柔らかさが、脳に根を張ってより美しくなるのだ。目でも耳でも鼻でも胃でも腸でも陰茎でもなんだって、そんなものはどうでもいい、全て必要のないがらくただ。全部あげるよ瑠樺。声は残しておいてほしかったかもしれない。全部あげる。いつでも入っていいよ。律は許可を与えた。瑠樺の顔が見えた。ああそうか、と律は理解する。もう彼の顔を見ることはできなくなるのかもしれない。でもこれから起こる何か素晴らしいことを考えれば──瑠樺の鱗は光を反射し、ひしめき合って宝石のようだ。綺麗だな、と伝えると声も出していないのに鱗を動かして微笑む。暗く深い水のような瞳が潤んでいる。瑠樺が手を伸ばし、律の眼球に直接その可憐な粘膜が触れ、鼓動が速くなる。早くしてほしい。早く溶けたい早く。
は、や、く——
「あなた一体自分が何をしたか分かっているの」
(つづく)
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パライソのどん底
男の首筋に浮き出す血管を数えたことも、くっきりとした白い喉仏に噛みつきたいと思ったこともなかった。“美しすぎる彼”に出会うまでは――。それぞれの“欲望”と、それぞれの“絶望”が絡まり合い、衝撃の結末へ。
「ベストホラー2022《国内部門》」(ツイッター読者投稿企画)で1位・2位を独占した芦花公園による、切なさも怖さも底無しの、BL系ホラー!
* * *
“絶対に口にしてはいけない禁忌”を抱えた村に、転校生・高遠瑠樺がやってくる。彼のあまりの美しさに、息を呑む相馬律。だが、他の誰も、彼に近づこうとしない。そして、律だけに訪れる、死にたいほどの快楽……。
ある日、律の家の玄関が、狂い咲きした花で埋め尽くされる。すると、”花の意味”を知る、神社の“忌子”から、「アレに魅入られると、死にますよ」と告げられる―ー。
この村で、住民がひた隠しにする「伝承(ひみつ)」とは?
俺の心と体を支配し、おかしくした、「存在(アレ)」の正体とは?