物語くらいは希望をもって報われてもいいじゃないか
小説のスパイスとなっているのがSNSだ。未来になっても、あいかわらず人々は発信を続け、政治家を罵倒し、国民への影響力を計測してランキング化するサービスに夢中になっている。ちなみに富士見の影響力は物語の中でどんどん下がる。
「小説でも民間がやっているサービスで影響力を叩き出すってところが重要なんだよね。公的なサービスではない。民間がやっているのだから参加しなくてもいいのに、みんな参加しているじゃない。フォロワー数とか、星いくつとかね。どこか夢中にさせるものがあるのだろうし、事態はきっと変わらないと思う。でも、言葉はときに凶器になる。その怖さも書いておきたかった。
『太田総理~』をやっている時に、当時の『2ちゃんねる』で散々『太田死ね』って書かれていた。そのときもまぁ傷ついてはいたんだけど、言われ慣れているし、いざとなれば反論もできるから俺はいいやって思っていた。でも、これがもし子供に向いたら、言われ慣れていない人々に向いたらどうなるんだってことは常に考えていたよね。言葉ひとつで人間は簡単に追い詰めることができるでしょ。正義感に燃えた人が、たった一言書き込んでやっつけた気分に浸ることができる。もっと言えば、たいした自覚もなしに書き込んだ人の数が多くなるだけであっという間に個人を追い詰めることができる。人々が簡単に魔女狩りに参加することの危うさは、わりと最初期から気がついていたと思う。
前に『マボロシの鳥』(4月6日発売・幻冬舎文庫)という小説集の中で、『魔女』っていう魔女狩りをテーマにした短編を書いたのね。あれ実は、ネットの匿名掲示板の人々が一人の人物を吊し上げていくことを意識して書いたものなんだよね。あとは第2次世界大戦時の日本社会だよね。隣近所も、メディアもみんなで同じ方向に向かってしまったこと。人間にはもともとそういう集団心理があるんだと思うんだけど、集団になったときの日本社会はかなり怖いものがある」
集団心理の暴走は支持率0%という衝撃的な総理を誕生させていく。ここから物語は加速する。彼は、国民の集団心理を意識的に無視するのだ。
「空気を無視することが報われる社会になってほしい、という思いが俺の中にはある。現実はどうかわからないけど、物語くらいは希望をもって報われてもいいじゃないかって思いだよね。空気を読まずに無視して、自分の理想に向かって突き進んでいったほうが面白くなる。
富士見はある意味では、戦後日本、日本国憲法を体現する存在として描いている。日本最大の護憲派は実は自民党だと俺は考えているのね。政権をあれだけ長く取りながら、憲法をひとつも変えることができなかった。アメリカの政治家と対比しても、圧倒的に情けない。頼りなくて、世界から見るとまったく何を考えているかわからない存在で、普段は幼稚なことばかり考えているけど、現実の中で決めるところはなあなあで決める。
俺はそんな日本人の情けないところが好きなんだよね。これだけみんなでダメだ、ダメだと言いながらなんとなくうまくいってきた日本という国は不思議で、面白い。保守派が実はそんな日本を作ってきたし、憲法を体現してきたんだってことを書きたいから、主人公はあえて保守政党にいる。富士見と桜という名前にしたのも、日本の象徴的な景色だからで、いかにも保守派っぽいでしょ」
シリアスであればあるほど、コメディは面白くなる
太田ほど膨大な発信を続けているコメディアンはそうそういない。漫才、小説、エッセイ、マスメディアでの発信は意識的に使い分けられているのだろうか。
「使い分けか……。うーん、まず小説は自分が思っていること、考えていることを全部ひとりで表現できるっていうのが大きい。時事エッセイもそうだね。活字は全部ひとりで責任を負えるからこそ、他のメディアで言いたかったけれど言い切れなかったことを、徹底的に言い切るというところに面白さがある。もちろん、売れるか売れないかというのはあるにせよ、まずは言いたいことを形にすることが先にあるんだよね。
逆にテレビの良さは、ひとりよがりにならないことにある。構成の作家が入ったり、編集が入ったりして、自分だけでやらないチームプレーの良さがある。最後は視聴率で決まるでしょ。それに納得がいかないことは度々ある。でも、視聴率は大衆が求めるものが何かという基準ではある。言いたいことを言っても、評価されないなら許さない潔さがあるんだよ。それが俺の好きなところだね。
漫才は目の前のお客を笑わせたやつが一番偉いという潔さがあるでしょ。俺は漫才にはあまりメッセージを込めないで、とにかく全力で笑いをとろうとする。その日でてきた芸人の中で、一番笑わせたやつが勝ちなんだよ。そこが俺が学生時代に観てきたような小劇団の自己満足と違うところだな。『この箱をあけたら、君の未来が開ける』みたいなクサい芝居をされてもな ……みたいな。ファンのお客を相手にやっていることの限界だよね。
ネタ番組なんか俺らのファンなんてもはや少数で、若手を観にきたよというお客のほうが圧倒的に多い。でも、そんな中でも俺たちが一番面白いし、一番笑いをとってやると思いながらやる。その面白さがあるよね。そこに乗っかっているよ。笑わせなくていいやと思ったら、本当にうけない。どうしても笑わせてやるって思いながら立つ潔い空間が大好きだね」
この作品もそうだが、太田の発信の基礎になっているのはコメディの歴史だ。世界が破滅するかもしれない、という見ようによってはシリアスな設定の中で繰り広げられる言葉のやりとりは、場数を踏んできた彼の笑いの真髄でもあるのかもしれない。
「一番、悲劇的な瞬間が一番面白いというのがコメディの基本にある。チャップリンのコメディ映画がまさにその典型で、滑稽なんだけど、一番笑える瞬間は、見ようによっては主人公が生きるか死ぬかの瞬間の中で描かれているんだよね。お葬式みたいな笑ってはいけない場面でおかしいことが起きると、やたら面白いじゃない。みんな笑ってはいけないと思っているから、おかしくなっちゃう。
あと俺は村上春樹が苦手でさ。サンドウィッチやパスタを食べて、洒落た会話をして、洒落た恋愛をするなんて奴は日本にはいない。そんな日本人は存在しない、俺たちはもっと情けない存在なんだってことを書きたかったんだよな。登場人物全員がカッコ悪いこの小説こそが現実の日本だってことだね」
村上の名前を出しながら、「ウヒャウヒャ」と笑うところが、太田らしいネタであり、ネタ的な言葉の前後にこそ彼の思考が宿っている。ネタを適当にあしらい、小説のラストシーンに込めた思いを訊ねてみた。言葉はこう続く。
「やっぱり自分で未来は面白いって思いたいんだろうね。空気を読まなくても報われるってことをどこか自分に言い聞かせている小説でもある。それにどれだけの人が共感してくれるかを見てみたい。
小説を出すといつも、『太田は芸人だけやってろよ』って声が届く。でもそんな人たちにもいつかは届くはずだと思うし、物語を読んでもらうことをあきらめられないんだよね。俺の書いたものを読んで、伝われって、わかってくれという思いはずっと持っている。伝わらないなら何度でも、言いたいって思いはある。
なんでか……。うーん、やっぱり言葉が好きなんだろうね。小説を書くのも好きだし、なんか言われても『またやってきました』って言いながら人前に立って話すのも好きだし、お客から笑いをとるのも好きだし。最後は好きだからってところになるんだろう。
もし、俺が言葉で伝えるのをあきらめたら、その時は自分が引退するときだな」
ふと、こんな未来を想像した。今よりもぐっとシワも深くなり、髪も白くなった太田は引退をみじんも考えず、世間からは「偉そう」とか「老害」と揶揄されるようになる。だが、それでも培った経験をもとに繰り出す言葉は切れ味を増し、みんなを一瞬黙らせたあとで、笑いを残していく。あらゆる表現で伝えることをあきらめない老人として成熟した姿を見せ続けるだろう、と。
<了>
インタビュー・石戸諭(ノンフィクション作家)
撮影・倭田宏樹 「小説幻冬」2023年4月号より
笑って人類!
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