デジタル情報の総量はこの20年で1万6000倍になり、私たちニュースの受け手が、「事実や正しい情報は、いったいどこにあるんだろう?」と、首をかしげてしまうことは多々あります。そもそもニュースはどうやってつくられるのか? ニュースはなぜ必要なのか? 澤康臣さんの新刊『事実はどこにあるのか 民主主義を運営するためのニュースの見方』から抜粋してお届けします。
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女性差別入試はなぜばれたのか
中学生、高校生たちが受験に立ち向かう。興味がある勉強をしたい。目標とする仕事につきたい。あこがれの大学の学生になりたい。一人一人の夢と未来があり、悩みながら懸命に取り組む。
受験生が頑張れるのは、入試という仕組みに信用が置けるからだ。答案は公正に採点され、点の高い順に合格者が決まるルールが守られる。ズルはできず、合格するには実力を伸ばすしかない。だから、正面から努力する。
もしも秘密の「裏ルール」が入試にあって、人によっては得点が高いのにひそかに落とされたり、点が低くても合格できたりしていたら──。信用できない試験になってしまう。受ける気になるだろうか。
そんなことが実際に起きていた。2018年、大正期以来の伝統がある医科大学、東京医科大学が入試で女子受験生だけ点数が低くなるよう、極秘の点数操作をしていたことが明るみに出たのだ。男子の受験生を有利に、女子を不利に扱うあからさまな男女差別だ。社会常識からして許されない。
この問題に政府はどうするのか、文部科学大臣の林芳正は、報道記者たちの質問を受けた。「一般的に、女子を不当に差別する入試が行われることは断じて認められない」「まずは(東京医科)大学からの報告を待ったうえで、対応を検討したい」。文科大臣がこのようにコメントする、深刻な騒動になった。
それにしても、「裏ルール」は東京医大にとって極秘であり、表ざたになるはずがないから「裏ルール」だったはずだ。いったいなぜ、ばれたのか。
国の大学への調査か。大学内部の誰かがSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)に投稿したか。受験生がおかしいと気付いたか。
このニュースをスクープとして報じた読売新聞の記事の中に、その答えがさりげなく書かれていた。スクープとは、世の中に知られていない情報をある報道メディアが独自に、唯一、報道することだ。他の新聞やテレビが報道していないニュースをそのメディアだけがつかみ、知らせる。「特ダネ」「特報」ともいう。2018年8月2日の読売新聞朝刊に掲載されたその記事は次のように伝えた。
女子受験者を一律減点 東京医大、恣意的操作 入試要項 説明なし
東京医科大(東京)が今年2月に行った医学部医学科の一般入試で、女子受験者の得点を一律に減点し、合格者数を抑えていたことが関係者の話でわかった。女子だけに不利な操作は、受験者側に一切の説明がないまま2011年頃から続いていた。……
この記事には、不正入試は「関係者の話でわかった」と書いてある。報道機関が独自取材に基づいて報じるとき、この表現がよく使われる。国の調査結果を伝えたのではない。大学内部の人のSNS投稿でも、受験生の発見でもない。読売新聞記者が独自調査して判明し、報道されて初めて社会に明らかになったのだ。記事はさらにいう。
関係者によると、同大側は、1次の結果が出そろった段階で女子の得点に一定の係数を掛けて減点するなどしていた。(略)同大関係者は取材に対し、女子に対する一律の減点を認めた上で「女子は大学卒業後、結婚や出産で医師をやめるケースが多く、男性医師が大学病院の医療を支えるという意識が学内に強い」と説明している。
東京医大が女子受験生の点を下げた具体的な手口まで、記事に書いてある。不正を認め、理由を説明する「大学関係者」の言葉もある。東京医大の上層部がここを読んだら、極秘のはずの裏ルールについて、記者に真実を知らせた人が大学内にいると観念するだろう。
記事全体では、情報源は「関係者」と「同大(東京医大)関係者」という二つの表現がある。後者は大学の教職員や元教職員なのだろう。前者はどこの誰なのか分からない。大学の関係者ではないと決めることもできない。幅広い取材の結果のようだ。
それらはすべて非公式な取材である。表向きは「ないことになっている」話だから、正面切って話す人はいない。実際、記事はこう結ばれている。
女子受験者に対する意図的な減点について、東京医科大広報・社会連携推進課は取材に対し、「そのような事実は一切把握していない」としている。
つまり、東京医科大の公式な広報窓口は、読売新聞に対して「そんな事実は一切知らない」と否定している。否定しているのに読売新聞は「東京医大は女性を不利に扱う入試をしていた」と断定する記事をデカデカと出した。「当の本人が否定しているのに、記者は勝手に記事を出して大迷惑だ」ということになるかもしれない。
偉い人たちだけが知って対処してくれればいいこと?
報道の役割は市民に大切な真実を知らせることだ。「市民にとって大切な真実かどうか」と、「当事者が知らせることを許可しているか」とは、直接は関係しない。「大切な真実だが、当事者は知らせたくない」ということもある。「うそなのに、当事者が宣伝しようと必死」ということもある。報道は大切な真実かどうかを考え、市民に伝えるのが任務だ。一方「当事者が伝えたいかどうか」を大切にするのは、広報や宣伝の仕事になる。広報や宣伝も社会の大切な仕事だが、報道やジャーナリズムとは別の任務だ。
実は、この東京医科大広報担当部署のコメントには少しあやしいところがある。「確認したが、そのような事実は一切ない」とは言っていないのだ。そうではなく「そのような事実は一切把握していない」と答えている。つまり「広報担当部署は知らされていないのです」としか言っていない、と受け取ることも可能だ。そうなると広報担当部署の「把握していない」というコメントも「事実といえば事実」なのかもしれない。だが「真実」だろうか。そして、市民が知るべきなのはどちらだろうか。
いや、そんな問題は、文部科学大臣や政府の偉い人、捜査機関が知って対処してくれればよくて、市民がいちいち大学を困らせてまで知るべき問題ではないのかもしれない。
だが市民は行政や政治の「お客様」ではない。「運営側」だ。なぜなら、この国は民主主義なのである。市民が意見を言い、行動して、世論を形作り、選挙では自分の考えを持って議員や政府を選ぶ。選挙運動に加わる市民も、デモやイベントで意見を訴える市民もいる。その市民が、正確な情報を豊富に持っていなければ、良い意見も持てない。そうなると政治も行政も正しく進まない。たとえていえば、市民は車のドライバーだ。地図を持ち、道路の危険情報も知っておく必要がある。単なる乗客ではない。
市民は世の中で何が起きているか、十分に知らなければ、道を誤ったり、危険な方向に進んだりしてしまう。正しい情報を知れば、声を上げ世論を作って、誤った道から正しい道に進路を変えられる。
だから私たちは本当のことを知る必要がある。報道記者はそのために働く職であり、私たち市民に最優先の忠誠を尽くし、真実を伝えようと努力する義務がある。
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この続きは幻冬舎新書『事実はどこにあるのか 民主主義を運営するためのニュースの見方』でお読みください。
事実はどこにあるのか
デジタル情報の総量はこの20年で1万6000倍になったが、権力者に都合の悪い事実は隠され、SNS上にはデマや誤情報が氾濫する。私たちが民主主義の「お客様」でなく「運営者」として、社会問題を議論し、解決するのに必要な情報を得るのは、難しくなる一方だ。記者はどうやって権力の不正に迫るのか。SNSと報道メディアは何が違うのか。事件・事故報道に、実名は必要なのか。ジャーナリズムのあり方を、現場の声を踏まえてリアルに解説。ニュースの見方が深まり、重要な情報を見極められるようになる一冊。