デビュー以来、アイドルグループのメンバー、母と娘、女友達など、さまざまな女性同士の関係を描いてきた真下みことさん。最新作の『わたしの結び目』では、中学二年生の女の子二人の、いびつな友情を描きました。
友情が恋愛よりも軽んじられてしまうのはなぜか、という違和感が作品の出発点だという本作。第一章の試し読みをお届けします。
土日、家で数学の宿題をやりながらも、わたしの頭の中は里香ちゃんの目のことでいっぱいだった。心の中ではすでに小林さんではなくて里香ちゃん呼びだ。
どうしたらあの目を独り占めできるんだろう。どうしたらわたしのことだけを見てもらえるんだろう。
そう思いながらも、あの子が女子テニス部に入ったということは、桃子さんとか、あとは葉月さんとかと一緒にいる可能性が高くなるのだと思った。葉月さんならどうでもいいけれど、桃子さんと一緒だとちょっと困る。桃子さんと同じグループの葵さんに、わたしの噂を流されてしまうかもしれない。
そこまで考えて、葵さんと里香ちゃんは給食の班が同じだったと気づく。しかも隣の席は森くんだ。最悪。昼休み、里香ちゃんは誰と過ごしているんだろう。授業と授業の間の休み時間は? 一番後ろの席についている里香ちゃんの動向を、前から三番目のわたしはうまく摑めていない。来週から、早く里香ちゃんを独り占めできるように作戦を立てないといけない。
昼ご飯をお母さんが持ってきたので、宿題を鞄にしまった。
「お父さんは?」
「休日出勤って」
「ふうん」
「ねえ彩名どう思う、お父さんの言うこと、信じていいと思う?」
お母さんはわたしが部活に入っていないことや友達がいないことも知っているけれど、何も言わない。むしろいつも優しくしてくれて、学校に行くだけで偉いと褒めてくれる。だけどお母さんも、新しく転校してきた子とわたしが仲良くなったと知ったらきっと喜ぶだろう。わたしに友達がいないことを地味に気にしているのを、わたしはわかっている。
共働きのうちの家庭ではご飯は全てお父さんが作ることになっているけれど、中学生になってからはお父さんの仕事が忙しいらしく、わたしのご飯はわたしが作り、余ったらお母さんに分けてあげることにしていた。そのうちお母さんはわたしに分けてもらうのを待つようになり、今では平日もわたしがご飯を作っている。今日は珍しく作ってくれるみたいだけれど、あまりオーバーなリアクションをしてはいけない。自分が期待されていると思うと、プレッシャーで何もできなくなるらしい。だったらわたしにもご飯を作ることを期待しないでほしいけれど、それは言い出せない。お母さんはこの世界で一番弱い人だから、わたしが守ってあげないといけない。
お母さんは人よりも辛い気持ちになりやすくて、繊細で、優しくて、だからお父さんのことが嫌いなのだ。
わたしが小さい頃、お父さんは家事を全然しなかったらしい。だけどわたしが小学生の頃にお母さんが体調を崩すようになってから、やったことない家事を一から覚えてやるようになった。だけどお母さんはそのことでお父さんにお礼を言ったことなんて一度もない。
わたしの学校のことでうちがさらに暗い雰囲気になったから、お父さんは帰ってきたくなくなっちゃったのかもしれない。お母さんが電話でおばあちゃんにそう言って愚痴っているのが、この間トイレに入っていたら聞こえた。
出されたのは水気の多いチャーハンだった。お母さんの作る料理は全部、味か水分量がどこかおかしい。小学生の頃、家庭科の調理実習で作った味噌汁があまりにおいしかったことで、わたしは自分の家のご飯がおいしくないのだと気づいてしまった。お母さんいわく、料理は生産的な活動じゃないから向いていないらしい。
「おいしい?」
そう聞かれて、うん、とすぐに答える。お母さんが不安になることはしてはいけない。新しい友達のことも、まだ話さない方がいいのかもしれない。友達とトラブルになることに比べれば、友達がいない方がお母さんは安心するだろうから。
「彩名ちゃん、次って教室移動だっけ?」
月曜日、二時間目の理科が終わるとすぐに里香ちゃんが話しかけてくれたので、わたしはできるだけ顔の筋肉をきりりと引き締めた。油断して緩み切った表情になんてなったら、里香ちゃんに軽蔑されてしまう。
「うん、着替えて体育館」
冷めた目をじっくり眺めながら答える。本当は、女子はダンスだからピロティに集合。でも里香ちゃんの困った顔を見たいし、体育館からピロティはすぐだし、大した違いじゃない。聞かれたら間違えたと答えればいい。
そんなことを考えていると、一緒に行こうよと里香ちゃんから言ってくれた。あれ、そういえばさっき、彩名ちゃんって名前で呼んでくれた?
「いいよ」
そう答えて体操着袋を手に取る。わたしの作戦では今日のお昼休みに話しかけるつもりだったのに、里香ちゃんの方から話しかけてくれるなんて。
中央階段を二人で降りる。いつも昼休みや教室移動では目立たないように北階段を使っていた。あそこは中央階段よりも幅が狭いから大人数で通るのに適さず、結果うるさい団体は少ない。
「里香ちゃん、北階段って知ってる?」
「使ったことないかも」
「音楽室とか理科室の近くにある狭い階段でね」
「へえ」
興味なさそうに相槌を打たれ、わたしはたまらなくなった。もう少しだけ、困らせたくなってしまう。
「北階段はね、ぼっち階段って呼ばれてるの」
「ぼっち階段?」
里香ちゃんの眉間に皺が寄る。梅干しを見たときみたいに唾が口の中に溜まって、うん、と言いながらそれをごくりと飲み込んだ。
「中央階段の半分くらいの幅だから、二人並ぶのでギリギリなの」
一人で通ったときを思い浮かべながら、わたしを見ている里香ちゃんの目を見ない、この贅沢。
「一人で通る子が多いから、ぼっち階段」
わたしもこんな呼び方をするのは初めてで、周りの子がそんな呼び方をしているのを聞いたこともなかった。だけど里香ちゃんがこっちを見てくれた。それだけで、罪悪感なんてどこかに吹っ飛んでいく。
「なんか嫌だな、その呼び方」
里香ちゃんの目は憂いを帯びていて、わたしは里香ちゃんのその目は見たくないと思った。
「ごめんね」
「彩名ちゃんが謝ることじゃないでしょ」
憂いが消え、いつもの冷めた目に戻った。
「よかった」
呟いて着替え、周りの子達がピロティピロティダンスダンスと繰り返しているのを聞いて里香ちゃんがピロティ集合じゃないかと言い出して、ごめんとまた謝ったら、謝ることじゃないよと流してくれた。