デビュー以来、アイドルグループのメンバー、母と娘、女友達など、さまざまな女性同士の関係を描いてきた真下みことさん。最新作の『わたしの結び目』では、中学二年生の女の子二人の、いびつな友情を描きました。
友情が恋愛よりも軽んじられてしまうのはなぜか、という違和感が作品の出発点だという本作。第一章の試し読みをお届けします。
里香ちゃんは大人っぽい。見た目とか制服の着こなしは中学生らしくしているけれど、中身が成熟している。自分勝手なことをせず、いつも落ち着いていて、わたしを怒らない。
火曜日の昼休み、里香ちゃんが話しかけてくれた。月曜は結局どこかに行ってしまったので一人で過ごしていたのだけど、わたしの席まで来てくれた。
「何してるの?」
「なんにも」
わたしの筆箱を見ている里香ちゃんの冷めた目をじっくりと眺める。
「筆箱見ていい?」
「どーぞ」
ありがとー、と爽やかに言いながら、里香ちゃんはわたしの筆箱を丁寧に漁る。その様子を見て、わたしはお気に入りだったペンのことを思い出した。
「この学校って色つきペンの本数の決まりってある?」
目が合って、いきなりのことだったからわたしは瞬きをしてしまった。
「えっと」
何を聞かれたか、急いで頭の中で文字に起こす。色つきペンの本数の決まりを聞かれている。
「ないよ。英語の永林がたまにうるさいくらいで」
「よかったー」
彼女の目はまた下を向いてしまった。また、こっちを見てほしい。
「ねえ」
「ん?」
こっちを向いて、と言おうとし、変な子だと思われたくなくてやめた。
「つぎ英語だから筆箱、気をつけないと」
早口でそう伝えると、里香ちゃんは確かに、と笑ってくれた。里香ちゃんは眉毛も凜々しくて、口角はキュッと上がっている。だけど里香ちゃんの一番の魅力は目で、そのことにこのクラスの誰もまだ、気づいていない。こんなに素敵な子を、わたしは今、独り占めしている。
「トイレ行かない?」
里香ちゃんはわたしの筆箱のチャックを閉じ、頬杖をついている。トイレ、一緒に行ってもいいの? そんな質問をしたらおかしいから、わたしは何も気にしていないような顔を作る。
「行きたいと思ってた」
三階のトイレは臭くて、まあ学校のトイレなんてどれも臭いんだけど、一階の保健室前のトイレは比較的きれい。もっときれいなのは職員用トイレで、一度勝手に使ったのを見つかってサトセンに怒られた。
トイレは珍しく空いていた。いつもなら女バスの子が占領している鏡の前にも誰もいなかったので、わたしは里香ちゃんとゆっくりタイを直すことができた。里香ちゃんはまだ自分ではタイをうまく結べないらしい。きれいで可愛くて完璧に見える里香ちゃんの、唯一の弱点。
「胸ポケットって使ってる?」
里香ちゃんに聞かれ、わたしは自分のポケットが目立たないように猫背を作る。
「えっと、あの、生徒手帳とか入れてるよ」
「あー、確かにサイズぴったりかも」
「でしょ。……はい、できた」
「ありがと」
なんで自分だとうまくいかないんだろうと里香ちゃんは呟く。本当は、わたしが教えているタイの結び方は人にやってあげるときの方法で、自分でやる方法を教えていないからなのだけど、そのことに里香ちゃんはまだ、気づいていない。
木曜の一時間目の数学、最後の問題に里香ちゃんが当たって、わたしは後ろから歩いてくる里香ちゃんを祈りながら見ていた。黒板を前に自分のノートを見て、里香ちゃんは数秒固まったように動きを止めた。わたしはこの問題はわからなくて、だから里香ちゃんがわからなくても仕方ないと思っていた。すぐ後に、黒板を叩くようなチョークの音が聞こえて、1という数字を書くときに、里香ちゃんはチョークへの力の入れ方を間違えたのか点線みたいになっちゃって、里香ちゃんの後頭部が照れて見えた。
それから里香ちゃんは正解を導き出して、先生に褒められていた。里香ちゃんは、わたしの友達は勉強もできるんだ。とても誇らしい気持ちになったと同時に、いつかわたしのことなんてどうでもよくなるんじゃないかと寂しくなって、わたしは爪で自分の手の甲を引っ搔いた。何度も同じように引っ搔くと溝ができて、赤くなって、放っておくと茶色になる。わたしの左手にはこうしてできた茶色い線がたくさんある。親も先生も里香ちゃんも気づかない、わたしの気持ちが動いたことを表す傷。
素敵で勉強もできちゃう里香ちゃんを、誰にも取られないようにするためにはどうしたらいいんだろう。
一日中、そんなことを考えていた。昼休みに里香ちゃんとトイレに行くときも、部活のない里香ちゃんと途中まで一緒に帰るときも、頭の片隅にはずっとそのことがあった。
家に帰り、冷蔵庫の中身を見て今日の夜は豚キムチにしようと決め、わたしはダイニングテーブルに頭を預けた。
どうしたら里香ちゃんの一番になれる? どうしたらわたしだけを見てくれる? どうしたら、どうしたら……。
この感情は好きとは違くて、もちろん嫌いではない。そのひと以外のことを考えられなくなることを恋と言うのであればこれは確かに恋なのかもしれないけれど、わたしは里香ちゃんと付き合いたいわけではない。わたしは一番に、たった一人になりたいだけ。
テーブルに爪を立てる。
すぐに傷のつく手の甲と違って、木製のテーブルは簡単には傷つかない。だけど辛抱強く、諦めずに同じところに力を加えていると、少しずつ線が見えてくる。爪が折れない限り。
「里香ちゃん、里香ちゃん、里香ちゃん、里香、ちゃん、里香……」
里香。
答えは、呼び名を半分に分けたところにあった。お互いに、呼び捨てにしたらいい。ちゃん付けだとただの友達だと思うクラスメイトも、呼び捨てし合っていると知れば、わたしと里香ちゃんの仲の良さがわかる。
「きーまった」
明日の昼休みに里香ちゃんに言ってみよう。いや、できるだけ早い方がいいから朝がいいかな。金曜日は女テニの朝練があったはずだから、八時に学校にいたら早めに里香ちゃんに会えるはず。
お母さんが帰ってきたので炊飯器のスイッチを入れ、わたしは大変なお母さんを支える優しい娘の表情を素早く身につけた。